第11話 ハンカチとチョコレート
レッスンを始めます、と言っても。
楽器には触らせてもらえなかった。
「まずはこれからだね――はい、マウスピース」
ホルンの三年生、
正確にはこれも楽器の一部なのだが、ホルンを触らせてもらえるのかと内心期待していた
「まあ、そんながっかりした顔をしないで。これで音出なきゃ楽器の音も出ないんだから、まずはこれから。いいね?」
顔に出てしまっていたらしい。「すみません」と言って、マウスピースを見る。
きのうトランペットの先輩に見せてもらったのと同じような、少し違うような気がする、楽器を吹くための部分。細い金属の筒の先に円錐形の空洞が広がっていて、まるで小さな漏斗だった。
これでどうやって音を出すのだろうか? 首を傾げると、由貴が笑って言ってくる。
「いいねえいいねえ、その素直な反応が。素直な子は上達するよ――ああ、ごめん、音の出し方だったね」
褒められているのかからかわれているのか、わからない。けれど一応、なんとなくいい方向の感情であるようだ。由貴の説明を聞く。
「金管楽器は全部、唇を振動させて音を出すんだよ。こうやって唇を震わせて――」
由貴は少し口をすぼめると、息を吹いて、唇を振動させた。ぶー、という音がしてから、マウスピースを口につける。
ぶー、が、ぷーという高い音に変わった。そこから先は鍵太郎もトランペットの紹介の時に見せてもらった。それを楽器につければ、楽器から音がするのだ。
「ね? 簡単だよ」
「はあ」
簡単と言われても、飛び方を知らなければ小鳥は飛べないわけで。
まずは飛ぶ練習から始めないといけないのだろう。そのことに鍵太郎は、野球をやっていたときのことを思い出していた。
打つときだって、最初はバットがボールにかすりもしなかったのだ。でも練習していくうちに、自然にできるようになっていく。
それこそ、呼吸をするくらい簡単に。試しに由貴の真似をして、口をすぼめて息を吹いてみる。
ふーっと息が漏れる音だけがした。誕生日ケーキのロウソクを吹き消すような感じだった。
何度かチャレンジしてみるものの、先輩のような音は出ず、かすれた息の音だけが続く。
「ふむふむ。でも悪くないよ。基本はそう。遠くにあるケーキのロウソクを吹き消す感じ」
誕生日ケーキで当たりだったらしい。しかしロウソクは遠くにあるらしい。
どんな誕生日パーティかという話だが、あくまでイメージの話だ。
何本目かわからなくなるくらいにロウソクにアタックしたところで、由貴がなにやら本をめくりだした。目当てのページはすぐ見つかったらしく、その本に載っている写真と鍵太郎の顔を見比べながら、アドバイスしてくる。
「んーとね。口は少しすぼめるんだけど、その前に、ちょっと口を引っ張ってからだね。つまり、ちょっと笑ってアヒル口」
「例えが女子です、先輩」
こんな女子ばかりの部活に入ってしまったとはいえ、鍵太郎はれっきとした男子である。アヒル口とか真面目に勘弁してほしい。
由貴が見ているのは楽器の教本らしい。ちゃんとした理論に基づいて教えてくれるのはありがたいが、もっと他の例えがあるだろう。横から教本を見せてもらうと、「上下の歯を少し開けたまま微笑み、口笛を吹くように唇を少し中央に寄せる」と書いてあった。これをそのまま読み上げてほしかった。
これを実践してみよう。上下の歯の間を少し空けて、そのまま微笑んで、微笑ん、で……。
「なんか笑い方がぎこちないね、新入生クン」
その通りだった。カメラを向けられてもうまく笑顔を作れないように、自分で笑おうとすると、とてつもなく頬が引きつる。
怪我をして野球を辞めてから、ひどく暗い日々を送っていたのが祟っている。身体だけじゃなくて顔の筋肉も、使ってないうちに衰えるらしい。
ひくひくと痙攣する口元に、また由貴が手を伸ばしてきた。警戒してびくりとなるが、今度は唇ではなく頬に触れてくる。
そして、そのままつねられた。
「痛い痛い痛い!? なんですか今度は!?」
「ほらほらー。表情筋が硬いぞー」
ぐにぐにぐに――と意外な力強さで頬を揉みしだかれる。後でわかったのだが吹奏楽部の女子というのは、楽器の操作で指を動かしまくっているので、やたら握力が強いのだ。
「ほっぺとー、鼻の下ー、あごー。硬いなあ。顔が固まってるよ。楽器を吹くのには顔の筋肉も使うんだよ?」
おでこ以外全部揉まれた。じんじんする顔を押さえて、鍵太郎はぐったりと息を吐く。この人、結構無遠慮に人の身体に触ってくるが、吹奏楽部ではこれが普通なのだろうか?
「金管は特にそうだけど――楽器を吹くのは体力! 演奏に耐える腹筋背筋! アパチュアを作る顔の筋肉! それ以外にもいろいろ必要になってくるからね?」
「まるで運動部ですね……」
「運動部だよ。体育会系文化部とも言うね」
あっさりと言ってくる。随分と妙な位置づけだ。
「吹奏楽の発祥は軍楽隊だもの。体育会系のノリが受け継がれてても無理はないよね」
「へえ」
「自衛隊の音楽部隊なんか、すごい音するよ? 日ごろから鍛えてるから」
「そんなに違うもんですか」
「違う違う。だからさっきも言ったとおり、身体能力も吹奏楽には必要だよ。新入生クン、運動の経験は?」
「小中と、野球をやってました」
「あら。それは頼もしい」
「そうなんですかね?」
さっきから完全に聞き役だ。相槌と、質問に答えることしかしていない。先輩相手だから仕方がないとはいえ、我ながら情けない。やっぱり音は出ないし。
「早く吹けるようになりたいなあ……」
ぼやきも出る。ぼやきとささやきで有名なキャッチャーがいるが、鍵太郎もどちらかといえばそちらのタイプだ。
配球パターンからして次はここに球が来るから、流して打てばいいかとか、ピッチャーの癖を見抜いて盗塁したりとか。小柄がゆえのハンデを埋めるために技術と知恵を使って食らいついていくのが、鍵太郎のプレイスタイルだった。
勝つためには小ざかしいこともする。
けれどもそうして突き進んでいった結果――足が壊れたわけで。
それを思い出した瞬間に、ずきんと右足が痛んだ。既に治っているはずの足が、こうして痛む理由が未だにわからない。
そんな風に鍵太郎が顔をしかめたのを、どう受け取ったのか――
そこで、由貴が軽い調子で言ってくる。
「大丈夫、だいじょうーぶ。すぐに吹けるようになるって」
「……そうですか?」
「そうそう。ホラ、肩の力抜いて。姿勢よくして」
胸を張って、前を見て――ちゃんと練習してれば、なんだこんなもんか、ってくらいに簡単にできちゃうもんだから。
そう言って、由貴は笑う。なんの事情も知らない彼女だけれど、なぜか励まされたような気がして、鍵太郎はふっと笑った。
「――そう! 今の!」
「ふえ?」
「顔を――崩すな!」
がっしと顔を両手でサンドされた。命じられたからというより、ただ単に驚いて表情を動かせなかった鍵太郎に対して、由貴が言う。
「今の今の今の! その微笑み!」
あ。先ほどの教本の文面を思い出し、鍵太郎は慎重にゆっくりと口を寄せた。そして――吹く。
ぶふー。
一瞬だけ唇が振動したのがわかった。後半は今までどおり、息の漏れる音だったけれども。
鍵太郎の目が驚きで開く。由貴が表情を輝かせた。
「できた……」
「それだよ、新入生クン!」
忘れないうちに、もう一度やってみる。細く、長く、鋭い息で。フーッ! と息を吹くと、今度は息の途切れる後半に唇が震えた。
「よしよしよし! だんだんわかってきたかな? 忘れないうちに繰り返す!」
「はい!」
何回も何回も繰り返していくうちに、三回に一回くらいだった成功率がだんだん上がってきた。やがて不安定ながらも、毎回音が出るようになってくる。
「よし、じゃあ今度はマウスピースでやってみよう」
由貴の許可が出て、持っていたマウスピースを口につける。ずっと手に持っていたせいか、金属なのに口につけても温かかった。
今までと同じようにやれば、きっと音が出る。
よし――と息を吸って、鍵太郎は思い切り息を吐いた。
プスーッ。
「……」
……あれ、おかしいな。
なんか、息の漏れる音しか聞こえない……。
鍵太郎がぱちくりとまばたきすると、由貴が隣で苦笑した。
「ははは。まだだめだったか。ま、まったくの初心者がたったこれだけでここまで来たんだから、大したもんだよ」
そうなのだろうか。そう言われても、やはりちょっと悔しい。もう一度やってみるが、やはり音は出ない。
おまけにマウスピースの中に水が溜まってきた。唾ではないけど、なんだこれ、と見ていると、ぽたりと管の先から水滴が落ちる。
「あー。それは吐いた息の中の水分が、マウスピースの金属の冷たさで気体から液体に変わってるんだよ。
冷蔵庫の牛乳を部屋に常温で置いておくと、牛乳パックの周りがすごい濡れるでしょ? それと同じことが、中で起こってるの」
あれか。夏場冷凍したペットボトルを持ち歩くとき、タオルを巻かないとびしょびしょになってしまう現象。
楽器ってただ吹いてるだけじゃないんだな、と鍵太郎が思っていると、床に置いてあった雑巾で、由貴が水滴を拭いてくれた。
唾そのものではないとはいえ、口から出した水には変わりない。すみませんと謝ると、由貴は気にした様子もなくヒラヒラと手を振った。
「いやあ、こんなんそのうち気になんなくなるよ? 吹いてりゃ誰の楽器からも出るもんだし。がんばって練習すると滝のように出てくるしね。
ま、そのくらいになるまで、また明日から頑張ろうね、新入生クン」
そういうものらしい。部活の時間も終わりのようで、ぼちぼち片づけを始めた部員もいる。
このマウスピースはどうしたらいいのかと思っていると、訊く前に由貴に指示された。
「音楽室出てすぐのとこに水道があるから、マウスピースはそこで洗ってきて。ハンカチかタオル持ってる?」
持ってない。首を振ると、由貴は自分の鞄から水色のハンカチを取り出した。
「はい。私の予備のハンカチ。貸してあげる」
「え」
「忘れたとき用だから、綺麗に洗ってあるよ。気にしないで使って」
いいのだろうか。恐縮して受け取る。すると、由貴に注意された。
「男の子だからハンカチ持ってないのかもしれないけど、これからは毎日持ってこなくちゃ、ダメだからね?」
「……はい」
こういうことになるなら、明日からは毎日持ってこないといけない。ハンカチか、タオルか。そんなに持っていただろうか。
マウスピースを洗って音楽室に帰る。由貴に返そうとすると、「持って返って練習しなさい」と言われた。
「へこんだりすると大変だから、さっきのハンカチに包んで鞄に入れてね」
言われるがままに、マウスピースをハンカチでぐるぐると包む。鞄に入れようとすると、また由貴が訊いてきた。
「新入生クン、甘いものは好き?」
「え?」
「あげる」
言われて差し出されたのは、赤いフィルムで包装された、細長いお菓子だった。包装には商品名が書いてある。
「あ、それ……」
その菓子を見て、鍵太郎は驚いた。それは彼女が吹いている楽器と同じ名前のチョコレート菓子だ。
洒落のつもりなのかなんなのか、由貴は言う。
「ついつい、買っちゃうんだよね、名前だけで――好きなんだよ」
それはこのチョコレートなのか、楽器のことなのか。
甘いものは好きなので喜んで受け取った。マウスピースと一緒に、鞄に入れる。
「じゃあ、練習してきてね、新入生クン。明日からまた、ビシバシ指導してあげるから」
「なるべく優しめでお願いします……」
「そう? それじゃあ上達しないよ? やるならちゃんと。その方が楽しい」
会ってから何日も経っていないが、由貴らしい、真面目なスタンスだなと思った。打楽器の聡司といい、吹奏楽部には本気を出すのを楽しむ人間が多いらしい。
「はい。がんばります」
「うむ。よろしい」
先輩らしくうなずいて、由貴は笑った。つられて鍵太郎も笑って、二人で笑った。
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家に帰って鞄を開けると、昨日までにはなかったものが三つ。
ハンカチと、マウスピースと、チョコレート。
夕飯の後、自分の部屋で練習をしてみる。唇を震わせる方はできるのだが、マウスピースになると何回やっても音が出ない。
今日は諦めて、チョコレートの袋を開けた。
さくりと音がして、クッキー生地がほどける。挟まれたチョコレートはホイップされているようで、ふわりと口に広がって溶けていった。
意外とそこまで甘くなくて――すっと消えてしまう。少し物足りなくて、もっと食べたいな、と思う。
そうだ、忘れないようにハンカチを入れておかなければ。明日また由貴に怒られてしまう。
鍵太郎はあまり使っていなかった綺麗なタオルを見つけて、鞄の中に入れた。
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