第10話 初心者から始めよう
トランペットの音が聞こえる。
「先輩、早い……」
放課後になったばかりだというのに、すぐに聞こえてきたその音に、
楽しそうに吹いている。三年生の
遠くまで貫いてくるその音は、初めて聞いたときと同じで、どこか特徴的だ。存在を主張するようで、奏恵らしくて、どこで聞いていても彼女とわかる。
離れているのに、彼女が意気揚々と楽器を吹く姿が目に浮かぶ。全く初心者の鍵太郎だが、いつかあんな風になれるのだろうか。不安と期待を入り交えながら、音楽室に向かうため席を立った。
「
きのうのうちに訳あって入部してしまった鍵太郎とは違い、友人の
祐太は「んー」と一拍おいて、答えてくる。
「今日はごめんな。ちょっと用があってさ」
「あ……そう」
てっきり一緒に行くと言うだろうと思っていただけに、少し拍子抜けした。まあ、用があるなら仕方ない。高校生活はまだ始まったばかりで、入部の機会なんて、いくらでもある。
「じゃあな湊。あの胸のでかい先輩によろしくー」
「おまえもう一発殴られたいのか!?」
にゃはははは、と祐太が鍵太郎の一撃をかわす。さきほど入部に関する全てを白状したところだ。しばらくこのネタでからかわれるだろう。
「あーもう、じゃあな! また明日!」
「へいへい、また明日」
鍵太郎はそう言って教室を出た。まっすぐ音楽室へと向かう。
その後ろ姿を見送って――
祐太は苦笑して、ため息をついた。
「これで、いい方に向かってくれりゃあいいんだけどな……」
足を怪我して野球を辞めて。鍵太郎はそれ以来、あまり笑わなくなった。
間近でそれを見続けてきた祐太は、ようやく友達が歩き出したのを見て、安心したのと同時に、申し訳ない気持ちにもなっていた。
あまり力になってやれなかったが、これで少しはあいつも前に進めるだろうか。
もう彼の姿はここからは見えない。けれどもう一人――見覚えのある表情をした少女が、この教室にいる。
中学のときトランペットをやっていたという彼女は、高校に入ってからは吹奏楽部に入るような素振りもなく――けれど今は食い入るように、流れてくるトランペットの音に聞き入っている。
会って二日目、話したのは今日が初めて。
それでもこのクラスメイトが、なにを考えているかわかってしまったのは、あの顔が――表情が、鍵太郎が前に浮かべていたものとそっくりだったからだ。
「あー……また、めんどくさいのがいるよなあ……」
さらに苦笑の度合いを深めて、祐太は天を仰ぐ。
そして、なにをすべきかどうか、考えていく。
###
音楽室はきのうと同じで、空間を振るわせる音に溢れていた。
そして同じように、見学者も来ていた。
「……そりゃそうか」
きのうは来られなかった生徒もいるわけで、何日かはこの状態が続くのかもしれない。楽器を吹けない鍵太郎は手持ち無沙汰だ。
かと言って見学者と同じように座っているのも変だしな、と思っていると、顧問の
「まあとりあえず、
本町教諭の机は、書類やら楽譜やらでごっちゃごちゃだ。とても触る気にはなれない。とりあえずうなずいておく。
本町はきのうと同じように、部長の
ぱたん――と準備室と音楽室をつなぐ扉が閉まる。
さて、と鍵太郎は振り返った。そこには自分の他に四人ほど、入部届を出しに来た生徒たちがいる。
無論――全員女子だ。
……うん、まあきっと、大丈夫だろう。祐太もいる。きっと一人くらいは男子が入ってくれる。そう微かな望みにすがりながら、鍵太郎は用意されたパイプ椅子に座った。
四人は全員、見覚えがある。きのうの部活動見学に来ていた子たちだ。
隣に座っていた女子生徒が話しかけてくる。セミロングくらいの髪の、目のきれいな子だ。
「私、二組の
「湊鍵太郎。よろしく」
隣のクラスの子だ。鍵太郎が返事をすると、彼女はにっこりと笑った。
かわいらしいのに、なんだか妙に落ち着いてる子だなあ、と鍵太郎は思った。そして正面にいるのは、きのうの曲当てクイズを見事正解した、双子の姉妹だ。
一卵性なのかかなり似ていて、髪形が同じなら見分けがつかないだろう。二人ではしゃいで仲のよさそうな様子だ。
「私、越戸ゆかりー」
「わたし、越戸みのりー」
「よろしくー」
「よろしくねー」
完全にステレオ音声だった。きゃいきゃいと騒ぐ双子に、「よ、よろしく……」としか言えない。
どう話したらいいものかと悩んでいると、準備室の棚を興味津々で見ていた長身の女子生徒が、こちらを振り返ってくる。
「あたし、
「あ、よろしく」
かなりの長身だ。部長の美里も女性としては背の高いほうだが、涼子はそれ以上あるだろう。175センチといったところだろうか。
だいぶ好奇心が強いのか、涼子は準備室の備品や写真やらをきょろきょろと見回している。
やがて彼女は、ガラス戸の中に仕舞われているトロフィーに目をとめた。
「ねえねえ。吹奏楽部にもやっぱ大会ってあったりするの? 結構たくさん、トロフィーがあるんだけど」
言われて見ると、確かにガラス戸の中には何本ものトロフィーが飾られている。かなり古そうなものから、きれいで新しいものまで。
鍵太郎はよく知らなかったので黙っていると、横から咲耶が答えてきた。
「夏に吹奏楽コンクールってあるみたいだね。テレビやってた」
「へー、そうなんだ。宝木さん、経験者?」
「いや、初心者」
「そっか。あたしも初心者。中学のときはバレーボール部だったんだ」
「なるほど、バレーボール部」
さもありなん、だ。運動部にいた者としては、なんとなくトロフィーというのは気になるものなのだろう。鍵太郎がそう思っていると、二人はこちらをじっと見つめてきた。
「……ああ。俺も初心者だよ」
「あ、そうなんだ」
「私もー」
「わたしもー」
双子も会話に加わってくる。どうもこの場にいる者は全員、吹奏楽の経験がないらしい。
案外そんなもんなんだな、と鍵太郎は少しほっとした。
それは涼子も同じだったらしい。照れたように頭をかき、言ってくる。
「よかったー。あたし以外全員経験者だったらどうしようって思ってたんだ」
「みんなそうみたいだね」
咲耶が全員を見渡して言った。なんとなく安心した雰囲気と、少しの連帯感がこの場に生まれていた。涼子が拳を振り上げる。
「よーしがんばろう! あたしらこれからなにやるんだろうね?」
「わからない。説明かなにかかな? 楽器触れるかな?」
「かな!? あたしあれ、トロンボーンがなんかおもしろそうで――」
涼子が言いかけたところで、ゴッ――! と衝撃が突き抜けてきた。
先輩達が今日も見学者相手に演奏を始めたらしい。「……すごいね」と咲耶がつぶやいたのが、大きな音の隙間でやけにはっきり聞こえた。
しばらくして、演奏が終わる。次いで、拍手の音が聞こえる。準備室の中では、はぁ――と感嘆のため息が漏れた。
「……なんだかよくわかんないけど、すごいね!」
代表して、涼子が言った。そう、よくわからないけど、『なにか』がすごい。
正体もわからない『これ』に惹かれて集まったやつらだ――これから三年間、長い付き合いになるだろう。
鍵太郎が彼女らを見ていると、本町教諭が準備室に戻ってきた。
「よーしおまえら、集まれー」
手招きされて、全員が本町のところへ集まる。彼女は鍵太郎たちを見回し、これからの予定を説明し始める。
「とりあえず希望楽器のところに、おまえらは行ってもらう。それからは先輩たちの指示に従え。部活の終了時刻までにはここに戻るように。えーと、希望楽器は」
本町がごそごそと入部届を見る。そこには本人の記入で、吹きたい楽器が書かれているはずだ。
読み上げる。
「宝木咲耶――クラリネット」
「はい」
「浅沼涼子――トロンボーン」
「はーい!」
「越戸ゆかり、越戸みのり――パーカッション」
「ほいきたー」
「よしきたー」
「で、湊鍵太郎。とりあえずホルン」
「はい」
ホルンかチューバ、と祐太に言われるがままに書いた。聡司のいるパーカッションでもよかったが、なんとなく友人の助言に従ったまでだ。
「それぞれ、先輩のとこに行ってこい。あいさつ忘れんなよ? 以上だ!」
言われて、各々は音楽室に散らばった。音楽室ではわいわいと、先輩たちが楽しそうに話したり楽器を吹いたりしている。
鍵太郎はその中の、ぐるぐる巻きの楽器を持った、メガネの先輩に話しかけた。
「
「おっ、来たね、一年生クン」
昨日の楽器紹介では時間に対する厳しさを見せ、理知的な語り口で見学者にホルンの紹介をしてみせた先輩だ。
真面目で堅物のような印象もあるが――さて。
ちょっといいかな、と由貴は言って、こちらに手を伸ばした。
なんでしょうと訊く暇もなく、まばたきしたときには既に――由貴の右手の人差し指が、鍵太郎の唇に触れていた。
「――#*♭ッッッ!!??!?」
「あはは、ごめんごめん。ちょっとびっくりさせちゃったかな?」
悪びれた様子もなく、由貴はカラカラと笑った。わけもわからず顔を真っ赤にして口を押さえる。唇は人体の中でも、かなり皮の薄い器官だ。つつ――っと、わずかに指が下唇を掠めた感触が、触れられてない今も鍵太郎を苛む。
「金管楽器にとって、唇は命だからねえ。見た感じ、すこーしホルン吹くにしては厚いかもしれないけど……まあ許容範囲でしょ。いけるいける」
その確認だったらしい。でもそれなら触る必要はなかったんじゃないだろうか? と鍵太郎は思ったが、口を押さえているのでしゃべることができない。
そんな後輩をよそに、先輩は言う。
「よし、じゃあ始めようか――海道由貴のホルンレッスン、初心者コースからスタートするよ?」
二つ年上のお姉さんの言葉に、鍵太郎は涙目で口を押さえながら、こくこくと何度もうなずいた。
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