第6話 悪魔の契約―バンドは家族!

 湊鍵太郎みなとけんたろうは、階段を駆け上がっていた。

 目指すは先ほどまでいた、三階の音楽室だ。全力疾走はいつ以来だろう。野球のベースに向けて一直線に走っていた頃を思い出す。

 脇目も振らず走っていたあのときは、他になにも考えなくてよかったから楽しかった。

 そうこうしているうちに、目的の音楽室が見えてくる。

 どうしたのか今日は身体が軽い。足を怪我してから、こんなに調子がいいことなんてなかったのに。

 足を怪我してから――


「――あ」


 瞬間、思い出したかのように右脚に激痛が走った。

 ぐしゃりと潰されたような、あのときの痛み。おまえは一生、この先には行けないんだと言われたような――あのときの衝撃。

 足がもつれる。このままだと転ぶのはわかるが、勢いを殺しきれない。

 視界がスローモーションで流れていく。冷たい床に顔面から叩きつけられる覚悟して、目をつむる。

 どうしようもない現実に恐怖しながら――しかし、痛みはやってこなかった。

 代わりに、ぼふふにょん、と顔面になにか柔らかいものが当たる。


「あらあら、今日はよくぶつかる日です」


 知っている声が、間近から聞こえた。

 放課後が始まった頃、この声に案内されて、音楽室に入った気がする。

 鍵太郎の直感が、鋭く警報を鳴らした。まずい。これはなにか――非常にまずい。

 目を開ける。制服の白いワイシャツが目に入る。かなり近くで見ていることがわかる、そのボタン。臙脂色のネクタイ。

 よくわからない、いい匂い。

 そしてきょとんとした顔でこちらを見下ろす――春日美里かすがみさとの、顔のどアップ。

 現実が脳を侵食し始める。理解するのを拒みたい。

 吹奏楽部の部長、美里はまっすぐな瞳でこちらを覗きこんでくる。やめて、やめてください。そんな目で見ないでください。


「大丈夫ですか? 転びそうになってましたけど」

「――わ」

「先ほど新入生のみなさんは帰ったと思いましたが。忘れ物ですか?」

「う、わああああああっ!?」


 美里の胸元に顔から埋もれさせていた身体を、必死に引き剥がして鍵太郎は足の痛みも忘れ、全力で後ずさった。

 顔は赤いか、青いか。どっちでもいい。とにかくあれだ。謝らないとまずい。危険だ。身の危険が差し迫って謝らないと危険が――!


「すみませんすみません許してください、なんでもしますから殴らないでください殺さないでください!?」

「えっ!? なんで土下座ですか!?」


 パニックになって、姉から受けた恐怖の記憶までもがごっちゃになって鍵太郎を支配する。がくがく震えていると、美里の後ろからひょっこりと女子生徒が顔を出した。

 吹奏楽部の三年生、サックスパートの美原慶みはらけいだ。


「うわー。見ーちゃった見ちゃった、見ーちゃーいーまーしーたーよー? おっきいおっぱいに顔を埋めた青少年を。いやー。近頃のワカモノは積極的ですなあ」

「けいちゃん、あの、事故ですから」

「うれし恥ずかしのハプニング! キャーのび太さんのエッチー! カワイイカワイイ新入生くんよ、アナタは己の罪を認めますカ?」

「認めます認めます認めます! 有罪です大罪です、許されないのはわかってます。ですがどうぞお怒りを鎮めてください!」

「ですって。どうしますミサティー? チューバでラブコメアタックしちゃいます?」

「いや許すもなにも、わたし怒ってないのですが……」


 目の前で繰り広げられる茶番に、美里が力なく突っ込む。

 慶はそこで肩を上下させると、ヒントを出すようにウインクして、土下座を続ける鍵太郎を指差した。


「なんでもしてくれるって言ってますよ?」

「あ」


 美里はなにかに気付いたのか、笑顔で手を合わせる。そのまま鍵太郎に近付いた。


「あのですね、新入生さん新入生さん」

「はい!?」

「わたしですね、今とーっても怒ってます。激おこです。なので、わたしのお願い、ひとつだけ聞いてもらってもいいですか?」

「はい! なんなりとお申し付けください!」

「えーっとですね。あ、顔を上げてください」


 言われるがままに、顔を上げる。美里は鍵太郎の前にしゃがみこみ、にこにこと彼を見つめていた。

 とても怒っているようには見えないけれど――きっと怒っているのだ。だって本人がそう言っているのだから。

 本当に楽しそうに笑いながら、美里は言う。



「わたしたちと一緒に、吹奏楽をやりませんか?」



 春日美里から後光が射したように見えた。

 後ろでは、慶が苦しそうに笑いをこらえている。おもしろくて仕方ないらしい。肩を震わせ、お腹を押さえている。

 鍵太郎は呆然と、その光景を見ていた。あまりに長く返答しなかったので、美里の表情が不安げなものに変わる。はっとした鍵太郎は、彼女に向かって叫んだ。


「やります! 俺、吹奏楽部入ります!」

「ほんとですか!?」


 言った瞬間に、美里の顔がぱあっとほころんだ。

 彼女は瞳を輝かせて、同じ年の方へ振り返る。


「やりましたよけいちゃん、部員ひとり、ゲットです!」

「うひゃほーい、契約成立ですねん♪」

「悪魔か、おまえら……」


 いつの間にかいたらしい、パーカッションの男子部員、滝田聡司たきたさとしが半眼で二人にそう言った。彼は鍵太郎を哀れむように見たが、もうなにを言っても無駄なことを悟ったらしい。ため息をついてこちらに手を差し出してくる。


「ほれ、立て。いつまでもそんな冷たい床に座ってんなよ」

「あ、はい……」


 その手を借りて、立ち上がる。美里と慶はつつつっと鍵太郎の後ろに回り、背中をぐいぐい押してきた。


「さーてじゃあ、さっそくみんなにオヒロメといきまショウか。トイレ行きたくないですか? 神様にお祈りは? みんなの前でガタガタ震えてご挨拶する心の準備はOK?」

「なんの楽器やりたいか決めました? どこも一年生ほしがってますから、どの楽器でも歓迎されますよ。よかったらわたしと一緒に低音やりませんか?」

「なヌー? 新入生クン、ワタシとサックスやりましょうよ。あんな四分音符刻んでるばっかりの低音楽器より、こっちでメロディー吹いてた方がずーっと楽シイですよ?」

「な、なにを言うんですか!? そっちこそあんなに細かいのをピロピロ吹いてて、なにが楽しいんですか!? 曲の骨太な軸を感じる楽しみを知ってますか!?」

「あー。そこでどうしようもない高音と低音の言い争いをするな。戦争したって解決しねえぞ」

『打楽器は黙ってろ(黙っててください)!』

「はい」


 弱ッ。二人の一喝で聡司はあっさり黙った。自分もそのうちこうなるのだろうかと、鍵太郎は恐ろしい気持ちになる。しかし、言ってしまったものは取り消せない。覚悟を決めて音楽室に入る。


「みんなー! さっそく一人、入部してくれましたよー!」


 美里の声に、楽器を片付けていた部員たちが一斉にこちらを向く。二十人近くの女子から一度に注目されるのは、やはり怖い。「早い」「もう?」「男の子だ」「うちのパートに入れる」「いやうちが」「小さいね」「初心者? 経験者?」などと囁き交わされるのもかなり怖い。


「ほい。みんなに挨拶しいー」


 慶に促されて、一歩前に出る。緊張で膝が震えてるが、大丈夫だ。前を向け。


「み、湊鍵太郎です! 楽器をやったことはありませんけど、きのうの演奏を聞いて楽しそうだったから、入部しました!」


 美里と慶に脅されて入部したとは、さすがに言えない。入部早々フルボッコにされる。

「なにやりたいのー?」と誰かが言ってきた。ああ、まだ決めてないけどなにか言わなきゃ、と焦りながら思う。

 そうだ、友人が確か、おまえにはあれが向いてるんじゃないかと言っていた。ええっとなんだっけ。確か――


「ほ、ホルンか、チューバがいいかなと思ってます!」


 それに、おっ、とホルンのパートリーダー海道由貴かいどうゆきと、チューバの春日美里が反応した。そしていつの間にかすぐ傍まで来ていた顧問の先生が、鍵太郎の肩を叩く。


「わかった。希望楽器は他の入部希望者との兼ね合いもあるから、その通りにはいかないかもしれんが、最大限考慮する。入部届は明日持ってこい」


 うなずく。先生は今度は、部員たちに向かって叫んだ。


「よーし! 今年は幸先よく初日に一人入ったぞ! おまえら、あいさつ!」

『よろしくねー!!』


 全員揃って向けられた歓迎に、とても驚いた。「よ、よろしくお願いします」と頭を下げる。

 緊張していると、肩にそっと手を添えられた。部長の美里だ。


「よろしくお願いします、湊くん。吹奏楽部はあなたを歓迎します」

「よろしくお願いします!」

「ふふっ」


 気張った挨拶に、美里がおかしそうに笑った。

 首を傾げると、ごめんなさい、と一言つぶやき、彼女は続ける。


「すごく緊張してるのがおもしろくて――ても、大丈夫ですよ。バンドはみんな、家族です。

 緊張することなんてないです、自然のままでいてください。それがきっと、あなたの音になりますから」

「俺の……音?」

「そうです。うーん、難しい言い方でしたかね。でもきっと、そのうちわかります」

「?」


 よくわからなかった。けれど美里の言う通り、きっとそのうちわかるのだろう。

 がやがやと騒ぐ楽しそうな先輩たちで、音楽室は溢れている。

 自分がその一員になれるのかどうか不安はあったものの――鍵太郎はそこに一歩を踏み出した。

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