第2話 アルヴァマー序曲
吹奏楽部の新入生勧誘演奏があった、次の日。
「えーっと、ここが視聴覚室で、こっちが図書室、と」
「ここの階段を下ると……あ、調理室なんだ」
川連第二高校の校舎は、体育館と剣道場を除けば大きく本校舎と別校舎の二つに分けられる。
本校舎には主に生徒たちの教室があり、別校舎は音楽室や理科室などといった特別教室がある。
両校舎は二本の渡り廊下でつながれ、上から見るとカタカナのロの字型をした造りになっていた。
「まだどこになにがあるのか、いまいちよくわかんねえなー」
「あっち行ってみよう、あっち」
高校に入りたての彼らは、まだどこになにがあるのかよくわからない。
そうやって散歩がてら、きょろきょろ歩いていたからだろう。
鍵太郎は職員室から紙束を抱えて出てきた女子生徒と、真正面からぶつかった。
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その少し前。職員室で。
「まったく、コピーなんて先生がしてくれればいいのですよ……」
職員室のコピー機の前で、一人の女子生徒がぼやいていた。
女性としては長身だ。170センチはあるだろうか。長い髪を下ろして、少し垂れ気味の目をコピー機に向けている。
のんびりした雰囲気を持つ女子生徒だったが、手はテキパキと動いていて、コピーに慣れている様子だった。
「コピー機を占領しすぎて職員室に居づらくなったからって、生徒にコピーを頼まなくてもいいと思うのですよ……」
そう言いながらも彼女は新しい紙を読み取り部に丁寧にセットし、倍率をきっちりいじってからコピーを始めた。
印刷されて出てきたのは、楽譜だ。
彼女はコピー機から出てきたそれを取って、チェックをする。
「歪みなし、斜めになってない、最後の小節も切れてない。よし、カンペキです」
満足げに、へらりと笑う。この倍率で間違いない。
「やっぱり、昔の譜面や外国の譜面は、倍率を変えないとだめですね。純粋なA3じゃないって、なんなんですかね?」
首を傾げつつ、作業を再開する。気分がよくなってきたので、鼻歌交じりになる。るーるーるーるーるるー♪と口ずさむのは、吹奏楽の名曲『アルヴァマー序曲』だ。
鼻歌が一曲終わる頃には、傍らに積み上げてあった譜面が崩れそうな高さになっていた。全部は終わっていないけれど、昼休みも終わってしまうしそろそろ切り上げよう、と女子生徒はコピーした紙束を持ち上げる。
「ううぅ、重いですー……」
紙というのは少量だとなんともないが、大量になるととてつもなく重くなるものだ。コピーしたがゆえにほとんど倍の量になった紙束を、女子生徒はなんとか持ち上げた。
視界を遮りかねない高さのそれに、難儀しながら歩いていたからだろう。
彼女は職員室から出た途端に、誰かにぶつかった。
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「うわっ!?」
「うにゃあっ!?」
誰かにぶつかって、鍵太郎は後ろに倒れた。手をついて衝撃をやわらげる。
事態を確認しようと目を開けると、視界が紙でいっぱいになった。
どうもぶつかった相手が持っていた書類が、衝撃で吹き飛んだらしい。
いや――書類ではない。
五線譜が何行も書いてあるそれは、楽譜だ。
宙を舞い、ぱらぱらと落ちてくる楽譜の中で――そこにいたのは、一人の女子生徒だった。
彼女は廊下にしりもちをついて、腰をさすっている。
「いたたたたた……」
「大丈夫ですか?」
祐太が駆け寄る。女子生徒は楽譜で両手がふさがっていたのだろう。なにもできずに倒れてしまったらしい。「だ、だいじょうぶですー……」と言いながらも、痛みで目に涙をにじませている。
「すみません!」
鍵太郎も駆け寄って、手を差し伸べる。女子生徒はその手を掴んで立ち上がった。
「いえ、こちらこそ……前をよく見ていなくて。ごめんなさい」
「……」
でかい、反射的に鍵太郎は思った。女子生徒は鍵太郎より身長が高い。さすがに声に出すほど不躾な真似はしなかったものの、そんな感想を持つことは避けられなかった。
しかし、前方不注意はこちらも同じだ。もう一度「すみません」と言うと、女子生徒は心配そうに訊いてくる。
「そちらこそ、大丈夫ですか? 怪我してませんか?」
「大丈夫です」
「そうですか、よかった」
そう言って彼女は微笑んだ。
花がほころんだように優しくて――春の日差しのように暖かい笑顔。
一瞬ぽけっとなった鍵太郎に「?」と女子生徒は首をかしげ、それからはっと気付いてその場にうずくまる。彼女は必死に足元に散らばる楽譜を拾い始めた。
「あわわわわわ。ば、バラバラになっちゃいました!? あ、すみません!? それ踏まないでくださいー!?」
「あ、手伝います!」
「俺も!」
三人で、散らばった楽譜を拾い集める。
通行人に踏まれそうになりながらもなんとか回収を終えると、女子生徒はぺこりと頭を下げた。
「すみません、手伝ってもらって」
「いえ、ぶつかったのはこっちですし。な、湊?」
「はい。本当、すみませんでした」
「いいえー。怪我がなければそれでいいのです」
では失礼します、ともう一度ぺこりと一礼し、女子生徒は去っていった。
その姿が見えなくなるのを待ってから、祐太が口を開く。
「いい人だったな。ちょっとドジっ娘ぽかったけど」
「だな」
「上履きの色が違かったし、たぶん先輩だろうな」
「だね」
「ぱんつ見えなかったな」
「どこ見てんだおまえ!?」
あの一瞬でそこまで確認していた友人に、全力で突っ込む。
「野球部の動体視力なめんな!」
「能力の無駄遣いも甚だしいわ!?」
腕を組んで目を閉じ、なにかを思い出す素振りをしながら、祐太は続ける。
「なんつーか、こう……ギリギリ見えそうで見えなかったのが憎いな。想像力をかきたてられるというか……。うん、縞だな。おれの見立てでは、きっと縞パンだ」
「どうしたの祐太!? ねえ、なに言ってるの!?」
目をつぶって妄想をし続ける友人を、ガクガク揺すって現実に戻す。と、そのとき、鍵太郎は廊下の隅に一枚だけ紙が落ちているのを見つけた。
「ありゃ……」
拾ってみる。やはり楽譜だった。「ありゃ……」と後ろから覗き込んできた祐太も、同じことを言う。
「まずいな。返さなきゃ」
「うーん。返さなきゃいけないんだけど……どこに返しに行けばいいんだ?」
「音楽室じゃないか? ちょうどいいじゃん、今日行くんだし」
「だな。じゃあ放課後持ってくか」
「そうしよ」
鍵太郎はそう言って、楽譜をしまった。
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「つーか、細かいなぁ……」
体育の授業が終わって教室に帰ってきてから、鍵太郎は楽譜を眺めていた。
今まで楽器演奏なんて授業でリコーダーしかやったことのなかった彼にとって、乱舞する音符は完全に暗号だ。
音楽の教科書よりよっぽど細かく書かれた楽譜を見ていると、吹奏楽部になんて入って本当に大丈夫なのかと不安になってくる。
「はぁ……」
「あれ? アルヴァマーじゃない」
ため息をついていると、同じクラスの
彼女は机の上の楽譜をひょいとつまみ上げ、しげしげと眺める。
「ペットのサードだ。なに? 湊くん、吹奏楽やってるの?」
「いや、見学に行こうとは思ってるけど」
「え? じゃあ、なんで楽譜持ってるの?」
「拾ったんだ」
「あ……そう」
なぜか少し残念そうに、光莉は楽譜を返してくる。言われてみればそこには確かに、『Trumpet 3rd アルヴァマー序曲』と書いてあった。
「千渡さんは、吹奏楽やってたの?」
「まあ……中学のとき、少しね」
「楽器は?」
「トランペット……」
「へー。すげえ」
クラスの自己紹介のときは、一言もそんなこと言ってなかったのに。そんな特技を持っていたとは。
その割に、妙にセリフの歯切れが悪い気もしたが――まあ、経験者ならちょうどいい。鍵太郎は彼女を見学に誘ってみることにした。
「千渡さん、俺と祐太は放課後、吹奏楽部の見学に行くつもりなんだけどさ、一緒に行かない?」
経験者がいれば、なんとなく心強い気がする。そんな思いで、軽く誘ってみただけだった。
けれど光莉は、表情を硬くして小さな声で言う。
「……いや、高校は別のことやろうかなって」
「そうなの?」
もったいない。そう思っていると、光莉は少し悩んで、言ってきた。
「見学に行ってさ、もし……楽しそうなところだったら、教えてほしいな。ひょっとしたら気が変わるかもしれないから」
「うん。わかった」
彼女もどの部活に入ろうか、迷っているのだろう。
そう思ってその願いを聞き入れ、鍵太郎は再び楽譜をしまった。不安もあるが、初心者歓迎というあの看板を信じて行ってみよう。
きのうの演奏を思い出しながら、放課後を待つ。
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