第56話 札束地獄
七十をとっくにすぎているというのに、文緒はまだ働いている。家族にいろいろ不幸が重なって、多額の借金を作ってしまったせいだ。ようやく二年前に借金は返済したが、貯蓄がゼロなので、生活費を得るために働かなくては、年金収入だけではとても暮らしていけなかった。
この年になってつける職は少なく、スーパーのレジ打ちを年齢制限で退職したあとは、清掃のパートを始めた。いわゆる掃除のおばちゃんだ。
ただ、勤めさきがショッピングモールだった。一日中、店内を歩きまわり床を掃除したり、定時でトイレをきれいにする。歩く範囲が広いので体力的にはキツイが、一つだけいいことがあった。
それは、落し物だ。
買い物をする施設のなかなので、わりとひんぱんに小銭が落ちている。キャッシュレス化が進んでいるとは言え、まだ現金を使う人も多い。
ほんの一円二円、十円と言った単位だが、それでも一日中、店内を歩きまわる仕事だから、月に数百円ぶんにはなった。
どうせなら、もっと大きな額が落ちていれば……とは思うが、さすがに札は事務所に届けないと犯罪になる。
ある日、いつものように一円玉を見つけた文緒は、ひろってポケットに入れようとした。が、その瞬間に前から歩いてきた客としっかり目があった。
あ、イヤなところを見られたなと考えていると、夏のなのに葬儀帰りのように全身真っ黒な服を着たその男が寄ってきて、ささやいた。
「その小銭、どうするんですか?」
「えっ? 紛失物ですから、事務所に届けます」
「そうですか。まあ、小銭は警察に届ける義務もないですしね」
男はニヤッと笑って去っていった。
ドキドキしてしまった。
なんだか不気味な男だった。
心の底まで見透かすような目をしていた。
それから数日後。
文緒はふだんどおり仕事にいそしんでいた。まじめなので仕事ぶりは勤勉なのだ。
店内には小銭だけでなく、いろいろなものが落ちている。そのほとんどはゴミだ。お菓子の外箱だの、くしゃくしゃになったレシートだの、最近は使いすてのマスクが落ちていることも多い。二度と持ちぬしがとりに現れないゴミたち。
それを見つけたとき、てっきりそうしたゴミの一つだと思った。大きさから言って、レシートか使用後のクーポン券かと。
ひろいあげると、それは宝くじだった。数字を自分で選ぶロトのようだ。あとで事務所に届けるつもりでポケットに入れた。そのまま忘れてしまっていた。制服を洗濯するときになって、ポケットを点検して宝くじが入れっぱなしだったと気づいた。
どうせハズレくじだ。きっと持ちぬしもジャマになったからすてたのだろうと思い、文緒はそれをゴミ箱にほうりこんだ。
ところがだ。
さて、晩食にしようとテレビの前に座ると、なぜか座卓の上にあの宝クジが置かれていた。
不思議に思い、よく見る。
抽選日が昨日になっている。
文緒はなんの気なしに新聞に手を伸ばした。当選番号とてらしあわせて確認してみる。
なんと! 当たっている。一等だ。
前後賞はつかないが三億円の当たりクジだ。
文緒はふるえた。全身がガクガクして、自分でもおかしいくらい止まらない。
(ど……どうしよう。でも、これ、拾ったクジだ。わたしのじゃない……)
葛藤したものの、けっきょく、自分で買ったことにして銀行へ引き換えに行った。どこで買ったのかなど、いろいろ聞かれたものの、てきとうに答えていたら、案外すんなりと運んだ。
ほとんどは銀行に預金してきたが、三千万だけ現金で貰ってきた。
文緒には夢があった。
バカバカしいかもしれないが、札束風呂に入ることだ。バブルを経験してきた世代だから、札風呂は金持ちの象徴のようなイメージがあった。
というわけで、せまいアパートのみすぼらしい浴槽に新札をあふれんばかりになげこんだ。
一人暮らしだから誰かに見られる心配はないというのに、浴室に鍵をかけ、いそいそと浴槽に沈む。
きれいな札束の香ばしいような香りがした。
文緒は涙が出るほど嬉しかった。
ああ、もうこれで働かなくてもいいんだ。安定した老後を豊かに送ることができる。
うっとりしながら、十分も二十分もそうしていた。
もっともっと、このお金が増えればいいと、あらぬことを妄想した。
すると、気のせいか、お金のかさが増してきた。
(ああ、嬉しい。わたしのお金。もっと増えろ。もっともっと。溺れるほど、たくさん増えろ)
まるで文緒の思いにこたえるように、カサカサと音がして、またたくうちに一万円札が倍増した。文緒の首まですっぽり札で埋まる。
(もっともっと。もっともっともっと……)
カサカサ。カサカサカサカサ……。
札束は増え続ける。
やがて、文緒はしゃがんでいられなくなり立ちあがった。
新札が浴槽からあふれてこぼれだす。
それでも増殖は止まらず、浴室の床は見る見るうちに札でいっぱいになった。
さすがに怖くなってきた文緒はあわてて浴室からとびだそうとした。が、鍵があかない。ポチッと押しこむだけの鍵だ。ドアノブをまわせば自然に外れる。それが、何度ドアノブをガチャガチャさせても外れない。鍵がこわれた。
そのあいだにも一万円札はものすごい速さで増える。もう文緒の腰の高さまで札束で埋もれている。それでも止まらず、胸、喉まで……。
このままでは札束のなかで窒息してしまう。
すっぽり埋もれても、水よりは長く息ができるかもしれないが、圧縮された紙の重みで、いつかは体をつぶされる。
「た、助けて! もう増えなくていいから。充分だから!」
文緒の願いはお金には届かなかった。
じわじわと、無情に増え続ける……。
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