第45話 光る窓



 文緒はいつもどおり、日が暮れてから自宅マンションに帰った。

 独身のワンルーム。

 職場に近いので、ここを選んだ。


 玄関ドアをあけてすぐに電気のスイッチを押した。が、照明がつかない。

 どうやら蛍光灯が切れているようだ。

 しかたない。予備がクローゼットのなかにある。つけかえようと思い、部屋のなかまで入った。


 いつもは消灯している状態で外を見ることは、ほとんどない。

 なので、暗闇のなかでカーテンを閉めようとした文緒はハッとした。

 窓ガラスに何か映っている。

 どこかよその部屋の窓だ。その部屋の照明が文緒の部屋の窓ガラスに反射しているのだろう。


 光のなかには、やけに古風な文机のある室内が見える。和室のようだ。このマンションは全室フローリングのはずだが、きっと自分好みに改装したのだろう。


 文机の前には一人の女がすわっていた。つややかな黒髪を長く伸ばした、これまたひどく古風な美女だ。なにしろ着物をまとっている。


 今どき、こんな暮らしをしている人がいるのか。なんだか、あの光のなかは大正あたりで時間が止まっているみたいだ。


 なんてキレイな人だろうと、文緒は思った。女がこっちに気づいていないのをいいことに、ぼんやりと見とれていた。


 が、五分か十分も経ったころだろうか。

 女が文机の上のランプに手を伸ばした。カチカチと紐をひく音さえ聞こえてきそうな仕草で照明を消した。

 とたんに窓のなかの風景は消えた。


 文緒はガッカリした。

 あの女性にもう二度と会えないかと思うと、むしょうにさみしくなった。



 *


 だが、翌日には文緒は気をとりなおしていた。よく考えたら、あれは文緒の部屋の近くのどこかが映りこんだのだ。

 つまり、あの女性はご近所さんだ。となりかもしれないし、はすかいかもしれない。いつか、マンションのエレベーターでぐうぜん出会うことがないとは言えない。


 そう思うと胸がはずんだ。

 それに、その姿を見ることだけなら、毎日だってできる。


 文緒はそれからというもの、帰宅したときに電気をすぐつけず、窓辺に行くことが習慣になった。暗闇のなかで、ぽつんと光る黄色く四角いあの部屋の風景。どこか遠い世界の幻影のようだ。


 文緒が帰る時間帯に、ちょうど文机に向かうのが、その女性の日課なのだろう。日記でも書いているに違いない。

 いつも決まって、そのころになると机に向かい、五分か十分くらいで明かりを消す。

 文緒はそれをながめる。

 そんな毎日が続いた。


 日に日に、窓のなかの女性への想いが募っていく。長い髪を耳にかける仕草、書き物をしながら少し首をかしげるようす、女性のちょっとした動作の一つ一つがすべて可愛らしく思えた。


 あの人と話したい。

 どうにかして自然な出会いができないだろうかと考えた。

 怪しく思われるかもしれないと危惧はしたが、角度的に窓の光の映りそうな部屋のナンバーを調べ、住人の出入りをそれとなく観察した。


 しかし、あの人はいない。

 外に出るときは着物ではないかもしれないので、入念に顔を盗み見たものの、やはり、それらしい人はまったく見あたらなかった。


 いったい、あの光る窓はどこの建物の部屋が映っているのだろう?


 帰宅したとき、マンションの外から自分の部屋のある七階の周辺をながめた。窓ガラスに映る女性の部屋にはカーテンがかかっていなかった。ということは、外から見ればその部屋のようすが見えるはずだ。少なくとも電光が外にもれているだろう。


 だが、見あげても文緒の部屋の周辺には、どこもそれらしい光がない。照明がついていてもカーテンで覆われていて外からは薄暗く見える。


 変だ。まわりに映りこむような部屋がないなら、あの光はなんなのだろう?


 念のため、道路の向かい側や左右なども確認した。やはり、“あの窓”はない。


 だが、そのとき、文緒は自分のマンションの最上階の部屋が一室だけ、こうこうと明るいのを認めた。

 いったい何がどうなって、あの位置の部屋が文緒の部屋の窓に反射するのか。ちょっとありえない気もしたが、カーテンも閉めずに光を発しているのは、周囲すべてを探してもそこしかない。


 文緒は急いでマンションに入った。エレベーターで最上階にまで上がり、廊下を見まわす。あの窓の位置なら、ここだという部屋の前に直行すると、迷うことなくチャイムを鳴らした。四、五回連打したあと、すばやく廊下の角まで走る。いわゆるピンポンダッシュだ。


 しばらくして、ガチャリと鍵のあく音がした。そっと顔を出したのは、あの人とは似ても似つかない、でっぷり太った中年の女だった。あの美女の母とは思えない年齢だし、かと言って祖母というにはまだ若い。何よりも血縁関係があるとは思えない容貌だ。


(違う。あの人じゃない……)


 文緒は呆然と立ちつくした。



 *


 あの人はいったい、どこのどういう人なのか。

 ほんとに、この世の人なのか?

 それとも幻?


 文緒は暗い部屋に一人で帰ってきた。

 暗闇の向こうに小さな光がある。


 あの人だ。

 あの人は今日もそこにいる。

 たしかに見えるのに、どこにもいない。ふれられない。微笑みをかわすことも、その声を聞くこともできない。


 文緒は我知らず泣いていた。涙が止まらない。明かりをつけず、そのまま窓辺に向かった。


 すると、いったいどうしたことだろうか?

 これまで彼女はただの一度も文緒のほうを見ることはなかった。文緒の存在に気づきもしなかった。

 それなのに、この瞬間、彼女はふりかえった。

 そして文緒と目があい、微笑んだのだ。

 彼女は優しい笑みで手招きする。


(呼んでる……あの人が……)


 行かなくちゃ。

 今すぐ、あの場所へ行かなくちゃ。



 *


 翌朝。

 路上に倒れた投身自殺の遺体が一つ。

 そのおもてには、さも幸福そうな微笑……。

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