第46話 香りを盗む
文緒は子どものころから香りに敏感だった。花の香りや深い森林のなかの樹木の香り。
大人になってからは香水を集めるのが趣味だった。いろんなタイプのコロンをその日の気分でつけかえた。
ある夜、仕事帰りに最寄駅を出て、夜道を一人で歩いていると、うしろから声をかけられた。
「いい匂いね」
女の声だ。
こういうことは、たまにある。
「その香水どこで買ったの?」と見ず知らずの女の子にたずねられたり。
じつは友達に化粧品メーカーの調香師がいて、まだ発売前の試作品をモニターとしてわけてもらっている。そこらへんに売っているものじゃないのだ。
ちょっといい気分で、何かたずねられたら「すみません。これ貰い物なんです」と答えようと考えていた文緒は、背後をかえりみて凍りついた。
ひとめ見て、まともな相手じゃないことがわかった。というか、ほんとに人間だろうかと思う。
肌は青ざめ、白を通りこして土気色。眼球が血走り白目の部分は完全に真っ赤だ。その目をギョロギョロ動かしつつ、唇がやぶれそうなほど強く噛んでいる。顔立ちは可愛いと言えなくもないが、どうしようもなく薄気味悪い。
文緒は腰をぬかしそうになった。
恐怖のあまりすくんで身動きがとれない。
すると、女が近づいてきた。
「すごくいい匂いがする。その匂い、ちょうだい」
文緒は何も答えられなかった。
くるりときびすを返し走りだす。
逃げなくちゃ。
逃げなくちゃ。
逃げなくちゃ。
必死に走るものの、女の足音はずっとそばを離れない。カツカツカツカツとヒールの音が、信じられない速さで迫ってくる。
やがて、女は文緒のよこにならんだ。走りながら、じっと顔をのぞきこんでくる。
「ねえ、その匂いちょうだい。ちょうだいよ!」
怖くなった文緒は助かりたい一心で、カバンからコロンの入ったアトマイザーをとりだした。
「ほら、あげる!」
アスファルトの上にアトマイザーをほうりなげる。
すると、女は方向転換し、闇のなかへ消え去った。
(助かった……)
その場にすわりこむほど、文緒は脱力した。
*
あの奇妙な女につかまっていたら、今ごろ自分は生きていなかったかもしれない。友達に貰った発売前の香水。お気に入りだったけど、あのくらいですんだんだから、まだよかった……。
そう思っていたのだが、翌日。
何もかもが変わってしまった。
家庭でも、会社でも、道を歩いていても、文緒は空気になった。
誰も文緒に気づかない。
話しかけても無視される。
まるで文緒の姿が見えていないかのように。
「おい、Aくん。辻浦くんは今日も無断欠勤か?」
「家にも帰っていないみたいです。電話でお母さんが泣いてました。事件じゃないといいんですが……」
「そうか……それは大変だな」
先輩のAと課長の会話を聞き、文緒は二人の視線のまんなかに割って入る。
「先輩! 課長! わたしはここです。ここにいます」
先輩の肩をつかんでゆすっても、
「あれ? なんか今、肩にあたった?」
「何言ってるんですか! A先輩! わたしですよ。辻浦文緒です!」
「……気のせいか」
やはり、文緒のことが目に入っていない。
家に帰っても、
「ああ……文緒。どこへ行ったの? 帰ってきて……」
「お母さん! わたしだよ。文緒だよ。どうして気づいてくれないのッ?」
あのとき、不気味な女が文緒から奪っていったのは、ほんとはなんだったのだろう?
フェロモン? 体臭?
それとも別の何か……?
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