第20話 白くなる(ロングバージョン)
※途中まで19話とまったく同じ内容です。結末を確定してみました。
朝、目を覚まして鏡をのぞいた
髪が、真っ白なのだ。
文緒はまだ二十五歳。
白髪になるには早すぎる。
それに、たった一晩ですべての髪が純白になってしまうなんて、そんなことがあるだろうか?
あまりのことに、しばらく呆然とした。もちろん、夜、ベッドに入って寝るまでは普通に黒かった。なんで、こんなことになってしまったのだろう?
髪は真っ白なのに眉毛は黒いままなので、なんだか異様だ。
とりあえず、会社には風邪と偽り休暇を願いでた。こんな頭で職場になんて、とても行けない。
しかたなくニット帽をかぶってコンビニへ行くと、ヘアカラーを買ってきた。病院へ行こうという考えは念頭になかった。体のどこかが痛いわけではなかったからだ。それに、突拍子のない事態で、現実に起こっている実感がわいてこない。
髪を染めると、いちおう、見ためは元に戻った。これなら明日は出社できる。
安心して、文緒は眠った。
ところが、翌朝。
起きると、今度は眉が白くなっていた。
いったい、なんだというのか。
白くなるなら昨日なっていれば、髪といっしょに染めたのにと、むしろ憤りを覚える。
しかし、どっちにしろ、これでは会社に行けない。二日めともなると、課長に電話をかけるのも、なんだか気がひけた。
「課長。すみません。今日も、その、ぐあいが……」
「インフルじゃないだろうね? 病院に行ったのか?」
「いえ、ただの風邪のはずですが、熱が下がらなくて……」
「時期も時期だし、ちゃんと病院で診てもらいなさいよ?」
「はい。すいません」
電話を切ったあと、文緒はため息をついた。明日は絶対に出勤しなければ、課長に嫌味を言われてしまう。
昨日の残りの白髪染めで、眉毛も染めた。これで明日は会社に行けるはずだ。
いくばくかの不安を抑えつけるようにして眠りについた。
翌朝……。
恐る恐る鏡の前に立った文緒は、ぶるぶる、体がふるえてくるのをどうしようもなかった。
白い。
右目が——
黒目の部分が消えてしまったように、白目と同化している。
ギャアアアッというカラスの鳴き声のような悲鳴が自分の口からあがるのを、文緒はどこか他人事のように聞いた。
おそらく失神したのだと思う。
気がつくと、かなりの時間が経っていた。電話が鳴っていたような気もするが、文緒は何もすることができなかった。暗い部屋のなかで、じっと小さくなって、ふるえていた。
闇が怖い。
いや、朝が来ることが怖い。
明日も朝になれば、体のどこかが白くなっているのだろうか?
窓の外が薄明るくなってきて、鳥の声が聞こえてきた。安堵したのか、少しのあいだ、うたたねした。目が覚めたときには、すっかり明るくなっていた。
文緒は勇気をふりしぼって、洗面台の鏡の前に立った。そこまで歩いていくのに一時間以上のためらいがあった。
ようやく鏡をのぞく。
右目は、やっぱり白い。白内障の人のように水晶体が濁っているわけじゃない。白目と同じ“白”なのだ。
しかし、左目は黒かった。
右目も見た感じ白いのだが、視力はあるようだ。とくに視野がせばまった感覚もない。
全身をくまなく観察したが、白くなっているところはないようだった。服も脱いで調べた。異常はない。
ほっと、文緒は息をついた。
そのとたん、呼吸をするのも忘れるほど、恐怖に凍りついた。
口のなかが、白い。
文緒はわけがわからなくなって泣きわめいた。
もうヤダ。
なんで、こんなことに。
なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで……。
このまま白くなり続けたら、自分はどうなってしまうんだろう?
白くなって、白くなって、白くなって、全身の色素がぬけおちてしまったら?
文緒はヘタヘタと床にしゃがみこんだ。
もう何も考えられない。
*
数日のあいだ、文緒の記憶はなかった。
部屋のすみで昆虫のように、じっとして、ほとんどの時間は寝ていたように思う。ときどき空腹にかられて、冷蔵庫のなかをのぞいたり、買い置きのパンをかじったり、水道の水を飲んだりした。
何日も自分の姿を鏡で見ていない。
見ることが怖い。
鳴りっぱなしの電話も、ときおり、ドンドンと叩かれる玄関扉やチャイムの音も無視して、何もかも考えることを放棄していた。
意識が
とつぜん、何人かの足音と騒がしい声が室内にふみこんできた。
「文緒! いるのかッ? いるんなら返事してくれ。何があった?」
郷里にいるはずの父の声だ。
「辻浦さん? いますか? 管理人です。事故でもありましたか? 警察、呼んだほうがいいですか?」
そんな声もする。
文緒が電話に出ないので、心配した父が田舎から出てきて、管理人に玄関をあけさせたらしい。
六畳一間のワンルームマンションなので、逃げ隠れする場所はなかった。玄関口のダイニングキッチンから、ビーズのすだれをくぐって寝室に入ってきた父と管理人は、次の瞬間、口々に悲鳴をあげた。
管理人はしきりに「化け物。化け物」とくりかえしている。
だが、父は尻もちをつきながらも、つぶやいた。
「ま、まさか……文緒? 文緒か? ど、どうしたんだ? その姿は? おまえ……色が、ないぞ?」
「お父さん……」
管理人が警察を呼んで待機させていたらしい。かけつけてきた警察官が、文緒を見て警棒をふりかざしてきた。
あわてて、文緒はベランダからとびだした。文緒の部屋は一階だから、裏庭を越えて街路へ逃げだすことができた。
「文緒! 文緒! 戻ってこい。お父さんといっしょに病院へ行こう。文緒ォー!」
父の叫び声が、しだいに遠くなっていく。
文緒は寒空の下、裸足で町をさまよった。人間に出会うと、決まってわめかれたり、おびえて腰をぬかされたり、傘や鞄で攻撃された。野良犬のように石をなげられたこともあった。雨にぬれた冷たいアスファルトをふむ足の感覚がない。
文緒はひとけのない細い道へ入り、路地から路地へと逃げまどった。
猫でさえ、文緒を見ると、「フギッ」と変な声を出して、一目散に逃げていった。
深夜になり、人通りがとだえた。
文緒は人目がないことを確認して、大通りをよこぎった。
これから、どうしたらいいのだろう。
ぜんぜん、わからない。
行くあてもない。
父の言うように病院へ行ったほうがいいのだろうか?
とぼとぼ歩きながら、ふと見ると、閉店後の服屋のショーウィンドウのガラスに、街灯の光が反射して、文緒の姿が映っていた。
頭のてっぺんから、つまさきまで、真っ白だ。色というものが、どこにもない。皮膚の色も、髪や眉やまつ毛や瞳の色も、舌も、口のなかも、どこもかしこも白い。
なんで、自分はこんなことになったのだろう。
「こんなの……人間じゃない」
ぼろぼろと涙がこぼれてきた。
熱い。
涙の通ったあとが異様に熱い。
見ると、顔にヒビが入っている。涙のぬくもりで皮膚が溶けて、そこから血がふきだしてきた。
(あッ——)
文緒は歓喜した。
血の色は赤い。
(わたし、まだ赤い。血の色は人間だ)
嬉しくて、涙を顔じゅうになすりつけた。もっと鮮血があふれた。
血のあたたかさが、さらにいろいろなものを溶かした。喉や胸が赤く染まり、頭部からポロポロ、崩れた。雪でできた人形のように、ポロポロ。ポロポロ。崩れて、溶けた……。
*
「先生! また白化病の急患です!」
救急車のサイレンがやむことなく響きわたる。
ストレッチャーに乗せられて、次々と患者が運ばれてくるものの、医者はすでに匙をなげている。
人間の体から色素がぬけ、そののち雪像のように溶け崩れるという、原因不明のこの奇病。
恐ろしい速さで
いったい、誰から始まり、いつのまに広まったのかもわからない。
パンデミックだ。
人類はこの病に対して、抗うすべがない。
やがて、世界から人が消えた。
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