第9話 角質



 角質をとるためのピーリングクリームを買ってきた。近ごろ年齢のせいか、肌がくすんできたのが、前々から気になっていたのだ。


 そのうえ、後輩のA子が「先輩、せっかく美人なのに、なんか暗いですよね。だから、男の人に敬遠されるんじゃないですか?」なんて失礼なことを言ってくれたので、これ以上、放置できない気がした。


 文緒はたしかに、子どものころから容姿は褒められてきた。でも、なんでかわからないが、鏡を見ることが苦手だった。


 もしかしたら、幼いときに見た変な夢のせいかもしれない。まだ三歳かそこらのときに見た夢だ。

 文緒は夢のなかで昼寝をしていた。

 父は仕事に出かけていて、家のなかには母しかいなかった。

 ふと、文緒が目をさますと、そばにいたはずの母がいなくなっていた、不安になって、母を探した。

 母は洗面所にいた。鏡にむかって、何かをしていた。

「お母さん」と言って抱きつこうとした文緒だったが、なぜか、そこで足がすくんだ。母のようすがおかしいと思った。子ども心に妙な感じがした。

 見ていると、母は鏡を見ながら、自分の顔を手でさわっている。耳元に両手をかけて、そこの皮をつまんでいた。

 そして——

 夢は、そこで終わっている。


 とびおきたとき、自分が泣き叫んでいたことを覚えている。

 あの夢のせいで、鏡が苦手なのだ。

 正確には、鏡を覗く女の顔が。


 だから、ふだん化粧をするのにも、ほとんど鏡を見ない。顔のことを男の人に褒められることさえ嫌な気分になった。婚期を逃したのは、そのせいだという自覚はある。


 でも、これではいけない。

 母一人子一人の母子家庭だったが、その母も前年、他界したし、父は文緒が三歳のころに亡くなったそうで顔も覚えがない。

 今は切実に家族が欲しい。

 苦手を克服して、いい相手を見つけようと、文緒は決心していた。


 その一歩が美容だ。

 造りは悪くないのだから、今からだって、ちゃんと手入れして自分を磨けば、それなりの人はつかまえられるだろう。


 文緒は使用説明書を読んだあと、洗面所に行って、ピーリングクリームを使ってみた。手の平でクリームを泡だて、顔に塗って数分待つ。優しくマッサージすれば、古い角質がとれて、肌がピカピカになるのだ。


 なるほど。泡の上から、そっと円を描いていると、ポロポロと角質がとれてくる。


 ポロポロ。ポロポロ……。


 ビックリするぐらい、よくとれる。

 けっこう高いクリームだから効果抜群だ。三十をいくつもすぎるまで、基礎化粧品以外使ったことがないから、角質もたまっていたのだろう。


(スゴイ。こんなに効くものなのね。クリーム落としたら、三歳くらい若返ってたりして)


 なんだか、心が弾んでくる。

 自然とマッサージに時間をかけていた。


 ポロポロ。ポロポロポロ。


 それにしても、いつまで、こうしていればいいのだろうか?

 いっこうに角質がなくなる気配がないのだが。


 ポロポロ。ポロポロ。ボロボロ。ボロン。ボロン。ボロボロボロボロ——


 まるで顔じゅうの皮膚が落ちていくみたいだ。ピーリングって、こんなものなのだろうか? 嬉しいというより、だんだん怖くなってくる。


(ちょっと、これは異常だわ。さすがにもう、やめたほうがよくない?)


 文緒はあわててクリームを水で流した。タオルで顔をふいて、鏡を覗く。


 そこに、あのときの顔があった。

 幼い日の悪夢のなかで見た母の顔が。

 それは、まるで……。

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