第10話 人喰い熊



 文緒は二十七のときに、その村に嫁に来た。旦那の実家が山奥だとは聞いていたが、なかなかの、ど田舎だ。となりの家に行くのに自動車じゃないと困るくらい近所も離れている。

 夫は毎日、ふもとの町まで働きに行く。専業主婦で、畑仕事をちょっと手伝うくらいなので、のんびりやの文緒には、けっこう居心地がよかった。


 ただ、このあたりには昔から熊が出るので気をつけろと、姑たちに言われていた。


 近所に文緒より少し年上のお嫁さんがいて、年齢が近いので親しくなった。その人も以前、山菜をとりに行ったときに、熊を見たとふるえていた。その怖がりかたが、あまりにもひどかったので、文緒の印象に残った。


「熊ってそんな怖いんですね? あんな大きな体の動物が鋭い爪や牙で襲ってきたら、人間なんて、ひとたまりもないですもんね。わたしも用心しなくちゃ」

「……そう。熊。あれは怖いよ。前にも人を喰ってるから」

「ああ、人間の肉の味を知った熊は何回も襲ってくるって言いますもんね」

「うん。そうね……」


 文緒は最初のうちは山のなかに一人で入ることはなかった。山菜やタケノコをとりに行くときも、必ず姑や夫と行くことにしていた。


 だが、数年が経ち、村の生活にも慣れたころ。夫は休日出勤、姑が風邪をひいてしまい、いっしょに行く人がいないときがあった。舅はすでに亡くなっている。


 夫の稼ぎだけでも充分、暮らしていけるのだが、山菜はけっこういい副収入になる。今の時期なら、わらびやふきがよく採れる。明日からはしばらく雨の予報だし、今日のうちに、どうしても採りに行きたい。


 文緒は姑が自分の世話はできそうだったので、一人で山のなかへ入っていった。ほんの一、二時間で帰るつもりだった。


 だが、思いのほか、よく採れて、つい夢中になってしまった。


 山中に一軒の廃屋があった。

 以前、一家が熊に襲われてから放置され、今は誰も住んでいない。一家は全員、熊に殺されたのだそうだ。


 その廃屋には近づくなと、村のみんなに口やかましく言われ続けていた。

 だから、そこに行く前には帰るつもりだったのに、気がつけば廃屋のところまで来てしまっていた。


 さすがに、しまったと文緒は思った。

 あわてて、くるりと、きびすを返す。


 と、そのときだ。

 ガサリと、背後で物音がした。

 獣だろうか?

 ウサギか狸? イタチとか?

 でも、音はけっこう大きかった。もっと大きな動物だったような?


 文緒はゆっくりと、うしろをかえりみた。もしも熊だったら、どうしようと怯えながら。

 ゆっくり。ゆっくり。

 ふりむく。


 半壊になった廃屋の出入り口の引き戸から、何かがこっちを覗いていた。

 それは文緒と目があうと、いきなり、こっちに走ってきた。


 文緒は悲鳴をあげて逃げだした。

 山道を無我夢中で駆け続けた。何度も石や木の枝に足をとられて転んだが、痛みも気にならないほど必死になった。


 捕まったら殺される。

 まちがいなく、殺されて喰われる。


 それは執拗に文緒を追い続けた。

 一度でも人間の肉を食べたなら、味をしめて、その肉を求めないではいられなくなる。とくに女の肉は柔らかい。とても美味いらしい。以前、テレビで見た人喰い熊の話で、人間を襲った熊を退治した猟師がそう語っていた。


 三十分。四十分。

 一時間経ち、二時間もすぎる。

 草深い原っぱや雑木の密接する森。

 走り続けたが、文緒は息が切れて、もう限界だった。このま肺がやぶれそうだ。涙と鼻水で顔がグチョグチョになるのが、自分でもわかる。


 それの足音が迫ってきた。


 足がもつれて倒れた文緒は、もうここまでだと観念した。でも、心のどこかで生きたい気持ちが残っていたのだろう。それが迫ってきたとき、無意識にかまをつきだしていた。山菜をとるための鎌だ。


 何かに鎌の切っ先が当たった。

 うおーッと咆哮があがり、それは去っていった。


 後日、仲のいい近所のあのお嫁さんに会ったとき、文緒はその話をした。


「Aさん。あれ、熊じゃなかった」

「熊だよ。一家を殺して、その肉を食べてたんだ。熊雄。餓死したはずなのに、まだ出てくる」


 そうか。あれの名前は熊雄だったのかと、文緒はぼんやり考えた。

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