Ⅱ


 鮮烈な空気の中、先を走るオトハの背を追ってエニシは駆けた。葡萄畑を抜け、丘の方へと向かっていく。コトノハ家の神社とは、逆の方向だ。

「オトハ! 待って!」

 声を掛けるが、少女は止まることなくその後ろ髪をなびかせながら走り続ける。

 身体能力はそれほど変わらないはずだが、魔術を使っているのか、それとも怒りからの力か、距離はどんどん離れてゆく。

 目の前に現れた森に突っ込み、舗装されていない土道を登ってゆく。出っ張る木の根や石が邪魔をするが、やはり魔術を使っているようで、気にもかけない。エニシは器用に避けながら追ってゆく。

 やがて森を抜けると、丘の先端に辿り着いた。木々はなく、開けた土地に切り立った崖がある。その先で、月が丸く輝いていた。そこで、オトハは荒い息を吐きながら、膝に手を置いている。

 エニシも直にそこに現れ、姿を認めると、その歩を緩めた。

 ゆっくりと、様子を伺いながら近づく。

「オトハ?」

 声をかけるが、彼女は顔を上げない。もう一歩近づこうとエニシが足を踏み出したところで、声だけが聞こえてくる。

「わかってる。エニシに魔力がなくて一番苦しかったのはミナさんで、色んなことはもう試してて、皆みんなそれを受け入れて、今やっとここにいるんだって」

 エニシは歩みを止め、オトハを見守った。

「でも、悔しいじゃない。あんたがどこかでやっぱり魔術を使いたいと願ってることや、ふたりを尊敬していることを知ってるから。ふたりが遠慮して魔術を使わなかったり、あんたが気を使って魔術のことを喋らなかったり、仲のいい家族なのに、もったいないじゃない。私はあんたが好き。ミナさんやトモさんが好きだからこそ、思うように生きてほしい」

 少しどきりとしながらも、そういう意味ではない、とエニシは頭を振る。そして、諭すように声をかけた。

「ありがとう。僕らも、それは感じてるよ。でも、これからも一緒に居て、一緒に仕事をしていく中で、そういったものと折り合いがつけていけるんじゃないかって――」

「嫌よ、そんなの!」

 オトハが、顔を上げた。月明かりに照らされたその横顔は、髪が汗で頬に張り付き、涙で濡れているのに、これまでエニシが見てきた表情の中で、一番美しかった。

「そんな我慢なんて、しなくていい! 人は、やりたいことがあるなら自由にできるべきよ。そんなの、間違ってる!」

「そんなこと言ったって、ないもんはしょうがないじゃない」

 オトハのあまりの我が儘っぷりに、思わず苦笑してしまいながらエニシは手を差し伸べた。

 彼女の無邪気な、だが純粋な思い遣りのお蔭で、今なら辛い本音も飾り気なく語り出せた。

「そりゃ、僕だって使えるもんなら使いたいよ。使えないせいで、ふたりの本当の子供じゃないんじゃないか、ってまで言われるし」

「そんなこと――!」

「オトハは言わないし、言わせないってのもわかってる。でも、言う人はいるんだ。今はもう、血が繋がってなくたって、僕はふたりの本当の子供なんだ、って胸を張って言えるけどね」

「エニシ……」

「そんな辛そうな顔しないで。僕は、大丈夫だから。それに、ワイン作り、葡萄作りは、実際魔術に頼らない僕の方が、父さんより小さな変化に気づけたりするんだから」

 笑うエニシに、オトハは切ない表情を変えることはできなかった。

 どうしても、彼のその繊細さが、魔術師として備わっていたら、と思わずにいられない。だが人は、今あるもので、人生を切り拓いていかななくてはならない。

「だから僕は、魔術師の両親の元、魔力を持たない子供として生まれてきたことに、誇りを持ってる。持たないからこそ、持つふたりができないことができるからね」

「だから、敢えてもう、魔力を手に入れられる方法を探さない、ってこと?」

「そういうこと! ま、できることはもうお母さんが大体全部やってくれてるしね」

「それもそうか……」

 オトハが、肩を落とす。

「そんなに落ち込んでくれなくても。ありがとう。オトハって、必死な顔が――」

「何」

 鋭い視線をエニシにくれたオトハの顔に、影が差す。

 ふたりが振り返ると、月に大きな入道雲がかかっていた。

 雲ひとつない星空に浮かぶその雲は、急に現れた人工物のようにすら感じられた。

 入道雲が完全に月を隠す。

「この時期に、珍しい」

 そう言って視線を戻したオトハが、言葉を失った。エニシが、胸を押さえてうずくまっていたのだ。

「どうしたの!?」

「わかんない、なんだか、急に――」

 苦しそうに顔を歪めるエニシを介抱しようとするが、何が原因かもわからないので背中をさするしかない。

 それでも、月が雲から徐々に顔を現すにつれて、エニシも症状が緩和していくようだった。

「大丈夫?」

「うん、だんだん、良くなってきた」

 言いながら脂汗を流してはいるが、確かに表情は幾分か柔らかくなってきている。

 オトハは胸を撫で下ろし、「とりあえず、帰ってミナさんに聞いてみよっか」と道の先へ目をやったところで素っ頓狂な声を上げた。

「あら?」

 エニシと同じように、地面に蹲っている小さな白い獣がいたのだ。

「どうしたんだろ」

 エニシが顔を歪めながらも駆け寄り、もこもことしたオコジョのような獣を見やるが、苦しそうに横たわっているオコジョに何もしてやることができない。すると、後から来たオトハがすぐさま何の躊躇もなく持ち上げ、オコジョをさすった。

「危ないよ。野生の獣は、どんな病原菌を持っているか、わからない」

「大丈夫よ、魔術があれば」

 言いながら、オトハは苦しそうにするオコジョの横にしゃがむ。

「暑いからね。バテた?」

話しかけながら、詠唱した。

「ヤオロズ、解夏」

 夏の暑さから解き放つ、不調全般に効くと伝えられる魔術だ。

 オコジョを包んでいた光が消えると、横たわっていた獣はぱちり、と目を開け、すっくと立ち上がった。そしてすぐさま俊敏になると、オトハに纏わりついてから森へと駆けて行った。

「……魔術が使えるといいってことは、否定しないけどね」

「別に、エニシの言った通り、全部ができるわけじゃないわ」

 スカートの裾を払いながら立ち上がり、オトハが言う。

「お互いできないことを補い合えれば――」

 言いかけたオトハが、言葉を失う。

「ん? 何?」

 エニシはまだ胸を押さえながら、顔だけで振り返る。

 そこには、真っ白な毛をした、だが巨大な――ビル五階分はありそうな――獣がいた。

「どこから」

 ここに、と言い終える間もなく、その獣は姿を消す。

 速い。

 ふたりが声を上げる間もなく、その獣は脇をすり抜け、崖の先に立っていた。そして、爪先から血を垂らしながら、ゆっくりと振り向く。

「え?」

 同じ言葉しか発せられないオトハが、その血と、自らを見比べた。どこにも、傷はない。ということは。

「エニシ!」

 エニシが、胸に深い三本線の傷を受けて、跪いていた。

「何だろうあいつ、キツネみたいな、テンみたいな」

「そんなこと言ってる場合じゃないでしょう! 見せて!」

 叱咤しながら押さえている手をどかし、傷口に自らの手を当てる。

「ヤオロズ、癒恵」

 ぽうと淡く光り、傷口が閉じていく。ように見えたが、すぐさま元に戻った。

「どうして!?」

 オトハが口にした魔術は、治癒魔術である。普段なら、これぐらいの傷でも瞬時に治してしまえるはずであった。

「そもそも、どうしてあんな大きな獣がここに!? 何かの魔術!? 誰かの魔獣!?」

「落ち着いて、オトハ。そのことは、後で考えよう。今考えるべきは、どうやってここから逃げるか、だよ」

 血を押さえながら、エニシは左右に目を巡らし、獣を見据えた。

 ――相手は前。こちらは後ろに逃げたいのだから、普通なら一目散に走り出せばいい。でも、敢えてあいつが動かないのは、それを待ってるから。あの速さだ、逃げたところで、無防備な背中を狙ってくるつもりだろう。ただ、前に急に回りこまないとも限らない――

「オトハ」

「何!?」

 暢気に欠伸をして後ろ足で喉を掻いている獣に苛立つオトハに、囁くように告げる。

「幸い、あいつの後ろは崖だ。このまま落としてしまおう」

「どうやって!」

「しっ、静かに。オトハは、魔術師でしょう? だったら、魔術に決まってるじゃない」

「そんなこと言ったって――」

「あいつは、僕らが逃げるのを待ってる。それを利用するんだ」

 エニシが、早口で作戦を伝える。背中を見せた途端、そこにあの爪を振り下ろそうとしているはず。だったら、背中に当たったら吹っ飛ぶような魔術を用意しておけばいい。

「後ろに飛べば、遮るものはない。後は、真っ逆さまだ」

「なるほど」

 現実的な作戦を付与され落ち着きを取り戻したオトハが、吟味するように何度も頷き、やがて顔を上げた。

「やってみよう」

「よし! オトハが魔術師でよかったよ。後、追い越されないように念のため道の左右にもそれを張り巡らせる?」

 エニシの笑みに複雑な表情を見せつつ、オトハが詠唱する。

「ヤオロズ、波留」

 ふたりの背中に柔らかな風がまとわりついた。

「それじゃあ、行くよ」

 オトハが頷き、ふたりは三つ数えて、唐突に踵を返し、走り始めた。

 それを認めた獣が顔を撫でて細めていた眼を薄っすらと開き、ちろりと舌なめずりをしたかと思うと、弾かれるように飛び出した。

 一秒数える暇もなくすぐさま追いつき、その爪を振るう。

 と思われた直前、エニシがオトハの背に触った。

「エニシ!?」

「逃げて、オトハ!」

 エニシが後ろに吹き飛び、獣にぶつかる。オトハはその勢いに耐えられず前方へと弾き出され、獣はエニシの背中に用意していた魔術で後方へと飛ばされる。だがエニシの勢いは弱まらず、エニシと獣が崖の先へと放り出された。

「エニシー!」

 たたらを踏みながらやっとのことで止まったオトハが、急いで崖へと駆け戻る。

 下を覗くと、地面に横たわった獣の腹の上にエニシが倒れこんでいる。

「エニシー!」

 もう一度声をかけると、もぞもぞと動いてみせた。どうやら獣の柔らかさに助けられたらしい。ほっと息を吐き、慌てて崖下への道を探す。

 一方、気を取り戻したエニシは、傷口を押さえながら、獣の顔を見た。

 それを待っていたかのように、獣が眼を開き、ぶるぶると顔を振る。

「お前、この高さでも、その程度なの?」

 ぱちりと開いた眼が、一瞬きょとんとする。

「あれ?」

 だが、瞬時に赤く染まり、再び牙を見せた。

「だよなあ」

 立ち上がる獣に落とされ、地面で体勢を整えながら、どうするべきか思案した。しかし、その思考がうまくまとまらず、視界がぼやける。

「嘘でしょ。ここで?」

 足元が定まらない。獣が、口を開けた。真っ赤な口腔が見え、笑っているように見える。

「ちくしょう、死にたくないなあ……」

 ふらつきながら、オトハの言葉が頭の中で甦る。

――人は、やりたいことがあるなら自由にできるべきよ!――

自分のやりたかったことは、何だろう。美味しい葡萄を作り、ワインを作ること?

それは、そうだ。

でも、それ以上に、やりたかったことがある。

本当は、家族三人で魔術を使い、それを両親に教えてもらいたかった――。

きっと目を見開き、獣を睨みつけた。

「やっぱり、やりたいことは、できるべきだ。やるよ、オトハ」

 だからこんなところで死ねない。

 エニシは周囲を見渡し、状況を把握した。狭い盆地のような地形。前横後ろが切り立った崖で、狭い隙間のような谷が前方、獣の後ろ。自分の後ろには狭い道が上へと続いている。

 獣の大きさを考えれば、その谷に身を潜らせれば追ってはこれまい。これしか、生き抜く道はないだろう。

 獣が身を低くし、エニシに狙いを定める。エニシは、崖を背にし、距離をとりながら半円を描くように移動を開始した。獣は先程のオトハの魔術を警戒しているようだ。今のうちに、少しでも谷に近づきたい。

 だが、獣が満を持して飛び掛ってきた。大きな爪を振り上げる。その爪が、崖に引っかかった。

「しめた!」

 狙い通りの展開に、すぐさま脇を抜けて谷へと飛び込む。

「ガアッ!」

 しかし、獣は無理矢理、その爪を崖の土ごと抉って振り抜いた。一歩間に合わず、エニシの爪に深々と爪が立てられる。

「ぐあああああっ!」

 叫びながら転がる。谷は目の前だ。後少し身を伸ばせば。しかしこれ以上体を動かすことができない。

 体から温かいものが流れ出し、力が抜けていく。

 ――嫌だ、死にたくない。

 必死に指先で土を掻くが、一ミリも動かない。

 ゆっくりと、白い獣が近づいてくる。爪先で生死を確認しつつ、反撃要素がないかも調べている。

 きらりと、牙が月に光った。

 同時に、風が舞った。

「失礼」

 優雅に舞い降りた白いローブの御仁がエニシの前に立つ。

 獲物を遂に口にできる、という正にその瞬間に邪魔をされた獣が、怒りに吼えた。

「吼えるな、やかましい」

 声からすると、男だろうか。力がなくなりつつある体を、必死に起こして見上げた。

 月に照らされた金色の髪がたなびいている。

 男が杖を向けるだけで、獣は何かに押し潰されるように地面に這い蹲らされた。

「少年、大丈夫か」

 今度は倒れたエニシに杖をかざす。光に包まれ、エニシの傷が癒えてゆく。

「リンチンのようにすぐに治せればよいのだが、私の得意分野ではないのでな。応急処置になることを許せ」

 そう言いながら、白い獣に向き直る。

「さて、君はどうしようか。一体全体、どうして急に君のような魔獣が生まれたんだい?」

 見上げる金髪が緩やかに揺れる後ろで、まだ呻き声が聞こえた。

「うん? どうしたんだい?」

 振り返ると、確かに治癒魔術をかけたはずの少年が、まだ傷だらけのまま倒れこんでいる。

「……どういうことだ」

 眉根を寄せた男に、獣が吼え、爪を振るった。しかし彼が纏う何かによって、それは届くことなく、逆に根元から切られてしまった。

「ガアッ!?」

 金髪の男の周りを良く見ると、薄い膜のように風が音を立てて丸く包み込むように凄まじい勢いで流れている。これが彼を守ったのだろう。

「エニシっ!」

 そこに、崖上からの道を降りてきたオトハが姿を現す。

 金髪にどう手を出していいものか逡巡していた白い獣が、新たな獲物の登場にそちらに狙いを定める。

「おやまあ、間の悪い」

 男が言いつつ杖をかざすと、風に巻き取られたオトハが男の下へ連れてこられた。

「きゃあっ」

「失礼、淑女よ。君はこの状況を説明できるかい?」

「えっ? あっ、その、そもそも、あなたは――」

「そうだな。急に言われてできるはずもない。では少し動かずにいてもらえるかな」

 男はオトハの頭に手を置くと、眼を瞑った。

「ふむ、なるほど。大体事情はわかったが、どうしてこんな偶然が重なったのか――」

 顎に手を当て考えるその男に、遠くから白い獣が吼えた。全身の毛を逆立て、額の前になにやら風の渦を作り始めている。

「おいおい、もう順応し始めているのか。しかし」

 言いながら倒れているエニシに目をやる。

「まずはこちらが先だな。淑女」

「オトハです」

「うん、オトハ。それでは彼に〝解夏〟をかけてやってくれたまえ」

「〝解夏〟を!? どうして今更。そんな気休めの魔術――」

「魔術に気休めのものなどない。それは、魔術師としてしっかり理解しなさい」

 急に厳しく言われ、オトハが身を縮こませる。

「おっと、すまない。大丈夫、とにかくやってみればいい」

 促され、オトハはおずおずと、エニシに向けて、詠唱した。

「ヤオロズ、解夏」

 かけられたエニシの体が、ぽうと光り、浮いた。そして、傷がみるみる内に癒えてゆく。

「えっ!?」

「よし、じゃあ次は――」

 と、振り向いた男に向けて、白い獣が咆哮を放った。それに併せて、風の弾が飛んでくる。

「わお」

 男が纏う風の膜が打ち消すが、息つく暇なく連続で打たれてくるため視界が晴れず、男も対応に困っていた。

「さて、どうしたものか――」

 そう呟いた男の隣に、少年、エニシが立った。

「おや少年、気がついたか」

「……」

 視点の定まらぬ瞳で白い獣の咆哮をぼうっと見ていたエニシが、何かを呟く。

「ん?」

「エイス・ワイス・トラルド……」

「なんだい?」

 男が微笑みかけるが、エニシは反応しない。ただ、ぶつかってくる風の弾をじっと眺めている。徐々に、視点が定まってきた。そして拳を握り締め、不敵に笑った。

「エイス・ワイス・トラルド!」

 小柄を抜き、獣へと奔らせる。

「クラッセル!」

 獣のものとは比べ物にならない大きさで、風の道が唸りを上げて獣へと飛んでいった。

「ガアッ!?」

 獣は巻き込まれ、ずたずたになる。

「それはやりすぎだ」

 目を丸くし、感嘆の声を上げながら、男は獣へと寄っていった。

 エニシは満足そうに微笑み、その場に倒れこむ。

 オトハが開けた口に手を当てながら、それを見下ろしていた。

「エニシ、どうして――」

 丸い月が、彼らを照らしている。大きな入道雲が、その隣をゆったりと、漂った。

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