第一章 始まり


     Ⅰ


 夕陽に照らされた鮮やかな草原が、穏やかな風に揺れている。

 山々に囲まれた盆地は、雨に恵まれ、今年は葡萄の育ちもいい。

 その葡萄に、下から必死に手を伸ばしている少年がいた。

 キズナ・エニシ。

 この家族経営のワイナリーのひとり息子で、亜麻色の巻き毛の頭を太陽に照らして輝かせている。

「エニシ、帰るぞ。終わったか?」

 遠くで父の野太い声が聞こえる。エニシは慌てて、小さく跳んで葡萄の蔦を掴んだ。

 だがぶちりと千切れ、地面に尻餅をつく。

「あはははは! 何してるの」

 それを一部始終、意地悪く空から見ていた少女が、声を上げて笑った。

 エニシは俯き頬を赤く染めて、慌てて尻を叩きながら立ち上がる。

「魔術を使えばいいのに。どうして使わないの?」

 そう嘯いて、つんと澄ました顔をしながら扇を振った。

「ヤオロズ、風早」

 ふわりと彼女の体に風が巻き付き、手から放たれて葡萄畑に広がっていく。

 その風が蔦を切り、落ちた葡萄を載せ、彼女の前まで運んできた。

「どう?」

 得意気に言う彼女の視線を頬掻きながら俯いてかわし、エニシは笑った。

「黙ってないで、何か言いなさいよ。私が魔術を使うのが、そんなにおかしい?」

 急に不機嫌になった少女に、エニシは顔を上げて急いで違う、違う、と手を振る。

「羨ましいな、と思って。ほら、僕は使えないから……」

「ほんっと、呆れた。あんたが使えないわけないんだから。やろうとしてないだけでしょ? そんなこと言うなら、やってみなさいよ」

 少女はこの後キズナ家に食事に招かれており、お腹が空いて我慢できなくなってきたから急かしているのだが、それを言うことはない。悪いのは、もたもたしているエニシなのだ。

 エニシは困ったようにまた俯いてへらへらしていたが、「エニシ!」と少女に叱られて、やっと腰から小柄を抜いた。

「……怒んないでよ、オトハ」

「え?」

 もう何も言うまいと体を縮こませ、エニシは小柄に向かい、小さく囁き始めた。

「エイス・ワイス・トラルド……」

 少年の呟きに、静かに風が舞いはじめ、オトハの髪が吹き上がったように感じる。

「クラッセル!」

 小柄を抜く。

 だが訪れたのは、静寂。

 何も、起こらない。

「何してんのよ」

 少女・オトハが冷たい視線を寄越すが、エニシは困ったように眉を下げて顔を向けた。

「だから言ったでしょ?」

「何がよ。これの、どこが本気なの?」

 少女の怒りは理不尽だが、エニシは頬を掻くばかりだった。

「だって、本当に魔術が使えないんだもん」

 ぼやきながら、小柄を払い、鞘に納める。

「エニシー、どうしたー」

 父が、再度急かしてくる。

 葡萄は、オトハが集めてくれたもの含めても、まだまだ足らない。

「あーあ、しーらない」

 オトハがどこか嬉しそうに葡萄を集めた籠の中を見て言った。

「うう……だから嫌だったのに」

「エニシ、何かあったのか?」

 痺れを切らしてやってきた父が、籠の中の成果を見て、優しく笑った。

「まあ、しょうがないな。エニシはまだ背も小さい」

「ごめんなさい……」

「この分は、オトハちゃんが手伝ってくれたのかな?」

「はい!」

 元気よく胸を張るオトハの頭を撫でつつ、父はエニシの頭も、乱暴に撫でてやった。

「気にするな。魔術でできる分は魔術を使えるものがすればいい。魔術があってもできないことこそ、できるようになるのが人に必要なことだ。エニシなら、自然に従っていければ、いずれ何でもできるようになる」

 そう言うと、父は胸元のテントウムシのブローチを手に取り、放り投げた。

「エイス・ワイス・トラルド、クラッセル!」

 ブローチから風が巻き起こり、風の道が葡萄畑を駆け抜ける。

 収穫しそびれた葡萄を、風の道が運んでくる。そうして一息に集めると「さ、帰ろうか」とまた息子の頭に手を載せて、葡萄が目一杯入った籠を担いで道を先に立った。

 それに、萎れるエニシがとぼとぼと付いていく。宙に浮かびながら見守っていたオトハが、楽しそうに笑った。


 エニシとオトハは、共にこの盆地で魔術師の子供として生まれ育った幼馴染だった。

 周囲には他に同い年の魔術師の子供はおらず、必然的に仲良くなる。

 エニシの家族はワイナリーを経営し、〝魔術〟を使った効率化と管理により、味を評価され健全な黒字化を達成していた。

 一方オトハの家族はこの地に長く残る神社の神主である。遥か昔に九尾の狐と呼ばれる魔物をこの地に封じ、以降代々護り続けていると言い伝えられている。

 この国に魔術が広まってから、三百年ほどが経った。古から伝わるものと、魔導士が広めた魔術に、もう、その境目に偏見も境界もないが、やはり地方では古くから残るこの国元来の魔術の方がありがたがられる傾向にあり、系統によっては対立構造にある場合もあった。

 しかし二者は、キズナ家がこの地にワイナリーを開くために引っ越し、できた酒を奉納して以来、両家で行き来をして、良い関係を築いている。

 ここで、魔術の由来を簡単に説明しておこう。それにはまず、魔導士という存在を語らずには通れない。

 魔導士は、〝魔〟をこの世に〝導く〟存在が故に、その名を〝魔導士〟と呼び、彼らが道筋を作ったことで、この世に〝魔術〟が生まれた。

 その魔術は、〝魔〟を、〝術〟として整備し、体系化して使えるようにしたもののことを言い、その使用者のことを〝魔術師〟と呼ぶようになった。

 魔導士は、この世に魔術を生んだ偉大なる創始者の七賢人、そして爆発的に魔術を増やした三英雄が有名だが、各時代に四~六人ほどが存在すると言われており、現代の魔導士では五芒星と呼ばれる彼らが最も名を知られている。

 必然的に彼らは大きな権力を得、世界を動かす役割を求められるのだが、そういった役割とは無縁の普通の魔術師は、世界に三百万人ほどいると言われている。今の世界人口が六十億なので、二千人にひとり、〇.〇五%という計算だ。その中でもプロ、魔術師を生業にしている人間は一万人弱だ。

 魔術は、術を唱えれば自動的に使えるわけではなく、〝魔〟と通ずる能力が必要だった。だがそれは、わかっているのは先天的なものではないか、ということだけで、科学的に解明されてはいない。ただ、その力を持ち、魔術を使える者こそが、魔術師なのである。

先天的なものであることから、血や遺伝が関係するのでは、と言われ、実際魔術師たちは特徴を持った見た目だったり体形をしていることが多いが、それは魔術師という自由で特権的なものが故で、後天的な理由かもしれず、確たる証拠とは言えない。

しかし、その一般的な魔術師の特徴である大柄、骨太、剛毛、筋肉質をものの見事に表しているエニシの父、キズナ・トモが晩餐に赤ワインをかっこみながら豪快に笑う。

「今年の葡萄は随分出来がいい。エニシが手伝うようになってくれたお蔭かな?」

「うん……」

「どうした? 元気を出せ! エニシの丁寧で細やかな気遣いは、葡萄を育て、ワインを作る上で欠かせない資質だ。魔術なんかより、何倍もな! ほれ、だから気にせず飲め飲め!」

「こら」

 静かで、優しい、と言ってもいいほどの声音だったが、トモは大袈裟に体を竦ませ、息子に勧めていたボトルをゆっくりと引いた。

「未成年にお酒は勧めない」

「はい……」

「エニシはこんな野蛮になっては駄目よ? 魔術なんか使えても使えなくても、そもそも人倫にもとることをするような人はどうしようもないんだから。世の中のためになることをしましょうね」

 そう語り掛けるのは、エニシの母であり、トモの伴侶、ミナであった。長い豊かな金の髪が印象的で、涼やかな目が意志の強さを示している。吸ってもいないのに手に持つ金の煙管がまた様になっていた。

「……でも僕は、お父さんのお仕事、尊敬してるよ?」

「あらまあ」

 ミナが口を押えて目を丸くし、そうしてから微笑んだ。

「そうね。それはいいことだわ」

 父に似てくるくると巻いている茶色い髪を撫でる。エニシは頬を赤くしながらミナの得意料理であるワインで煮込んだビーフシチューをすくい、頬張った。

「ところで、オトハちゃんは進学先は決めたのかい?」

 トモが尋ねたのはこの春からのことで、彼らは翌年になると小学校を卒業する。行く先によっては葡萄の収穫を終えた冬に受験をしなければならない。

「はい。私は、魔法専門学校に行きます」

 手伝いの礼に家族の晩餐に招かれていたオトハが、口を拭き、背を伸ばして応えた。

「そうか。きっと、いい魔術師になる」

 魔術を扱う素養を持って生まれた者には、ふたつの道が用意されていた。専門学校に行くか、普通に一般の中学校へ行くか。

 魔法専門学校は、勿論受験はあるが、魔術師としての血があれば、ほぼ問題なく入学できる。国家としても、希少な魔術師は大事に育て、国に役立ってほしいのだ。

 この国の人口が一億二千万人ほどなので、世界の平均から簡単に計算すれば、この国の魔術師の数は六万人。その中でもプロと呼ばれる人々は、千五百人となるだろう。実際登録されている数は千五百八十八人で平均より少し多いが、これに無登録や闇の魔術師なども加えれば更に増えるだろう。世界でもまだまだ途上国では登録が整備されていないので、先進国であるこの国では平均より多いのは当然かもしれず、そう考えると少ないくらいかもしれない。

 そして出生数はおよそ百万人であることから、一学年に生まれる魔術師の卵の数は、五百人。その中で、魔術師になりたいと思うものが、北・首都・南の三か所にある国立の魔術専門学校に通う。各学校の定員は百名。私立や塾のような場所もあるのだが、おおよそ毎年三百名が魔術師の扉を叩くのである。

「ありがとうございます」

「将来のこととか、考えてるの?」

 ミナが訊くと、向きを変えてオトハが優美に笑いかけた。

「家はお姉ちゃんが継いでくれそうなので、私はプロを目指してみようかと」

 その、魔法専門学校に通った者の中からでも、プロになれるのは一学年のうち三十人程度と言われている。地元に戻ってオトハの家、コトノハ家のように魔術と関わりの深い家業につく者も多いので一概には言えないが、それでも十分の一の狭き門だ。

 そもそも、魔術師の〝プロ〟が何を指すかというと、国がいざというときのために魔術師の技術向上・訓練のために設立したリーグに所属している者を指す。

 普段はその魔法を使い国の仕事に従事しているが、平均して週に一度行われるリーグ戦に参加し、国民にその勇姿を見せることで、国威啓発に寄与している、とみなされ、国から給与を支払われていた。

「プロ……ねえ」

 だがその答えにトモはどこか懐疑的な反応だった。あまり快く思っていないのかもしれない。

「あれ? ……あまり、お勧めじゃないですか? トモさんも、ミナさんも、プロだったんですよね……?」

「いや、オトハちゃんが目指すなら止めはしない。ただ、結局のところ見世物だし、危険もある。親としてはね……」

 おずおずと尋ねるオトハに、トモは正直に思いを打ち明ける。ぐいとグラスを空け、更にワインを注ぎながら呟いた。

「まあ、それに関してはミナの方がわかると思うが」

「そうね。でも私は、オトハちゃんがやりたいなら、目指すべきだと思うわ。いずれ目標が変わろうとも、それを目指して努力することは、何物にも代えがたい資産だから」

「そうですよね!」

 オトハが目を輝かせて身を乗り出した。しかしその熱意をいなすように、ミナは微笑んでみせる。

「私のは事故だったし、あれ以降同じようなことは起こってない。そこまで心配することじゃないんじゃないかしら? ただし、目指すなら、本気で学ばなきゃね。それは、プロになる、ということの意味も」

「はい……」

 テレビで大きく取り上げられるが故に、ただ憧れでプロになりたい、という人間はやはりいる。オトハがそうだとは言わないが、それでも居を正し、座り直した。

「それでも、元プロから言わせてもらうと、刺激的で楽しい毎日だったわよ?」

 オトハが我が意を得たり、というように目を輝かせて何度も首肯する。

「勿論、今の生活が最高に幸せで楽しいけどね」

 そう言って横の夫の肩に手を置いた。大柄の旦那は嬉しそうに顔を緩ませ、杯を更に傾ける。

「ご馳走様です」

 とその光景に頭を下げ、年齢らしからぬ応対をしてみせたオトハは、視線を横の少年に向けた。

「それで、エニシはどうするの?」

 エニシは彼女のひとつ年下であり、来年、彼もまた岐路に立たされることになる。彼女は少年がこういった質問をされるのを嫌がっているのを知った上で、それでも聞かずにはいられないのだった。

 エニシは食事をしていた手を止め、顔を上げてはっきりと言った。

「僕は、地元の農業高に行くよ」

 トモもミナもひとつ頷き、その言葉に何かを言うことはない。

「やっぱり、そうなの?」

 不満そうなのはオトハだけだ。

「そうだよ? 父さんの跡を継がせてほしいし、だったら知識を得るのに早いに越したことはないでしょう?」

「でも、お父さんとお母さんが立派な魔術師だったんだから、エニシが使えないのってやっぱり何かあるんだと思う。それを調べてもらってからでも――」

「オトハちゃん」

 トモが太い、優しい声でオトハの言葉を遮った。そして首を、ゆっくりと横に振る。オトハはそれに、ただ項垂れるしかできなかった。

 話を聞いたことはないが、ふたりから魔力を持たない子が生まれて、悩んだことは想像がつく。それが、悲しい記憶と繋がっているのかもしれない。それでも。

「……私と、一緒にいたくないの?」

 これまでずっと、家族のように過ごしてきた。これからも、少年が自分の後を付いてくるものと信じて疑っていなかった。それが今現実に裏切られた結果、どこか急に心細いものを感じているようであった。

「そういうことじゃないよ。でも……」

 急にしどろもどろして両親に助けを求めるエニシを、ふたりは微笑んで眺めている。

「だったら、せめて一緒に来れないか調べるとか何とか、もうちょっと何かしなさいよ! この、意気地なし!」

 急に立ち上がり、食事も途中でオトハは家を飛び出していった。

 咄嗟のことで何の行動もとれず、困ったように両親を見上げるエニシに、ふたりは「行っておいで」と笑いかけた。エニシは神妙に頷き、立ち上がると星降る空の下へと駆け出した。

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