第29話 順序数 和の定義

湾が先頭に立って歩くと、藍は自分の腕を湾の腕に絡ませた。

「湾、少し姿勢が良くなった」

「えっ?」

「自信がある感じがする」

「そうかな、あんまり自分では感じないけど」

「順風満帆?」

「えっと…」


湾は最近の自分を振り返る。プロジェクトの進行、良し。健康、良し。論理式、楽しい。


「うん、順風満帆と言っていいかも」

「それは羨ましいね。夕飯、どうしようか」

「今何時?」


藍は携帯電話で確認する。


「17時42分」

「今日は何か出前を取るってのはどう?」

「出前?珍しい」

「実はいままでやったことないでしょ」

「確かに」

「やってみようよ」

「新しさのための出前か。悪くない」

「それに、論理式のために割ける時間が長くなりそうだしね」

「そんなに論理式気に入った?」

「というより、順序数すごい。推移的と整列って言葉だけでこんなに広がるんだなって」


駅に着き、そのまま電車に乗り込む。


「ノイマンの定義は集合の性質をズバッと言い表しているから、捉えやすいけど、実は和を定義するのも大変なんだ」

「そうなの?+1も定義できたことだし、ペアノ算術をうまくいじればできそう」

「ペアノの和は言ってみれば片方が0になるまで-1をし続けるという発想だけど、順序数でそれはできない。なぜなら、ω-1は定義されないからだ」

「そんなことってあるんだ」

「そう。順序数κ(カッパ)が全ての順序数αに対して、κ≠α+1となるとき、κを極限順序数という」

「書かないとわからないな」

「それはそうだね。ところで今日は、少し太った上弦の月だ」

「ほんとうだね。明るい」

「満月とも三日月とも半月とも違う、中途半端な形だけど、こういう月も綺麗でいいと思わない?」

「うん。月と暗闇の境目がぼやけてるの、なかなか風流だよね」

「風流…か、その使い方が正しいかどうかはわからないけど、良い言葉」

藍はぴったりと湾に身体を寄せる。


家に着いたのは、19時。

「何を頼む?」

「出前と言えばピザだよね」

藍は無言で携帯電話で検索する。


「よし。このスペシャルとかいうのでいいか」

「完璧だ!」

「じゃあこれで注文できたから、まず、これからの議論のために、αは順序数である、という述語の記号を決めよう」

藍は早速ノートを取り出して書く。


αが順序数であることをα∈ONと書き、次のように定義する。

α∈ON:↔

(αは推移的集合)∧(αは∈に対して整列集合)


「ただし、ここでものすごく注意してほしいことがある」


⚠ ∈ON で一つの記号である


「どういうこと?」

「順序数全体の集合というものは存在しないから、本来ここに"属する"という記号は使えないんだ。だから、"∈ON"で一つの記号のようにみて、ノイマンの定義を満たすということだけを条件にする」

「順序数全体の集合は存在しないってどういうこと?例えば」

湾はノートに書く


∀x(x∈A↔xは順序数)


「こういう式を作ればAを定義できそうだけど」

「実は次の命題が証明できる」


¬∃A∀x(x∈A↔xは順序数)


「うっ」

「しかし、ここには今は踏み込みたくないので、とりあえず"順序数である"という記号を作った。そして、極限順序数の定義がこう」


κを順序数とする。

∀α(κ≠α+1)

を満たすとき、κを極限順序数という。


「例えばどんな集合が極限順序数だろう?」

藍はペンを置いて尋ねる。

「ペアノ算術を思い出せば0だね。あとさっきωもそうだって言ってたね」

「そうだ。いま知っている極限順序数はその二つ。まあ、0は極限順序数に含めない流儀もあるけどね。さて、それでは順序数の和を定義しよう。これは、ノイマンの定義でない方を基礎にしているよ」


α,β∈ONとする。

α+βを以下のように定義する。

αと順序同型な整列集合を(A,<)

βと順序同型な整列集合を(B,≪)

とし、A∩B=∅となるようにA,<,B,≪を定める。

ここで、二項関係◁を、以下のように定める。

∀x,y(

(x,y∈A→(x◁y↔x<y))

(x,y∈B→(x◁y↔x≪y))

((x∈A∧y∈B)→x◁y)

)


このとき、

α+β:=

ord(A∪B,◁)


「ふう。これが和の定義。湾の第一印象を聞きたい」

「めっちゃ簡単」

「ほう」

藍の瞳が獲物を見つけた獣のように光った。


「嘘です。これだけで一晩過ごせそう」

「まあ、実際そこまで難しいわけじゃない。これに一晩はかけたくないな。まずはいつも通り具体例と一緒に、一行ずつ見ていこう。まずは好きな順序数を2つ、挙げてみて。簡単でいい」

「じゃあ、3と4とか?」

「いいね。では一緒に見るよ」


α,β∈ONとする。


「α=3、β=4とすれば、ここはOK」


α+βを以下のように定義する。


「3+4を定義するよ」


αと順序同型な整列集合を(A,<)

βと順序同型な整列集合を(B,≪)

とし、A∩B=∅となるようにA,<,B,≪を定める。


「ここが1つ目のポイント。3と4にそれぞれ順序同型な整列集合を作って、しかもそれが共通部分を持たないようにしよう」

「どんな集合でもいいの?」

「いいよ」

「よし。ならこれは?」


3={0,1,2}に順序同型

A={a,b,c}

<:アルファベット順


4={0,1,2,3}に順序同型

B={あ,い,う,え}

≪:五十音順


「完璧中の完璧と言っていいね」

「ほんとになんでも良いんだね」

「これくらいのほうがわかりやすい。では本丸に突入だ」


ここで、二項関係◁を、以下のように定める。

∀x,y(

(x,y∈A→(x◁y↔x<y))

(x,y∈B→(x◁y↔x≪y))

((x∈A∧y∈B)→x◁y)

)


「これは3つに場合分けしている新しい大小関係の定義。なので、一個ずつ見ていこう」


x,y∈A→(x◁y↔x<y)


「これはどう読む?」

「とりあえず、Aに属している要素は、三角と小なりが同じ意味だよってことだよね」

「そう。具体例は?」


A={a,b,c}

<:アルファベット順

なので、

a<b

だから

a◁b


「そんな感じ。では、次」


x,y∈B→(x◁y↔x≪y)


「さっきのAがBに、小なりが二重小なりに変わっただけだ。だから、例をつくれば」


B={あ,い,う,え}

≪:五十音順

なので、

い≪え

だから、

い◁え


「なんか簡単だぞ」

「よし。最後」


(x∈A∧y∈B)→x◁y


「これはどう読む?」

「今回の例なら、xがアルファベットで、yがひらがなだったら、常にyのほうが大きいってことかな」

「三角に対して、そういうこと。例は?」


a◁い

c◁あ


「よし。ではゴールしよう」


このとき、

α+β:=

ord(A∪B,◁)


「えっと、簡単そうにみえるけど、なんか難しそうだな。まず、AとBの和集合か」


{a,b,c,あ,い,う,え}


「これに対して◁で整列集合を作るってことだね」

「その通り。というより、◁で整列集合になることの確認かな」

「まあ、当たり前だけどこうなるよね」


a◁b◁c◁あ◁い◁う◁え


「当たり前と言ったけど、AとBの要素なら常にBの方が大きいっていうことが二つを一つの記号で並べるための方法として重要になってる気がする」

「私の言いたいこと全部湾が言ってくれてしまった。ではこの順序数は?」

「えっと、明らかに7だけど、一応定義に戻ってみる」


集合Sと二項関係<が整列集合を成すとする

このとき、定義域をSとする関数Gを次のように定義する

G(x)={G(a)|a<x}

このとき、(S,<)の順序数をord(S,<)と書き、次のように定義する

ord(S,<)={G(k)|k∈S}


「散々やってきたから楽勝だよ」


G(a)=0

G(b)=1

G(c)=2

G(あ)=3

G(い)=4

G(う)=5

G(え)=6


ord({a,b,c,あ,い,う,え},◁)={0,1,2,3,4,5,6}=7


「湾、やったね!できたよ、順序数の和」

「なんかこの定義、AとBをつないだ感じがすごく良く出てて良い」

「ついに湾も論理式から感覚を受け取るようになったか」

湾は少し考える。


「でもアルファベットやひらがなだと使いきっちゃったら困るな。絶対文字を使い切らない保証ってあるかな?」


そのときインターホンが鳴って、ピザが届いた。

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