第11話 ε-N論法 式の解釈

小さなちゃぶ台に所狭しと並ぶ藍の料理。

本当に力が入っている。

「これはまるで何かの記念日だな」

「そう、今日は記念日だよ」

「あれ?そうだっけ」

「ε-N論法を知ることになる記念日」

「それはいいけど…」

「何か不満?」

「記念日だったら、今日中に理解しないといけないよね。そんなこと可能かな?」

「絶対できる」

藍は湾の手に手を重ねて言った。

「私がいるから」


「そもそもいつε-N論法なんてできたんだろう」

「1860年頃、カール・ワイエルシュトラウスによって完成された。微分積分学はニュートンやライプニッツによって17世紀後半にはすでに作られていて、もちろん物理学などで非常に役に立ったけれども、一つ大きな問題があった。それは無限という概念をはっきりさせずに使っていたことだ。ニュートンは実数と同じように扱える無限小という概念を使って微分を扱っていたが、無限小は実は実数ではない」

「あ、そうなんだね。実数でないことはどうやってわかるの?」

「たとえば、0より大きい実数は、どんなに小さな実数でも、有限回足すことによって1より大きくなる。でも無限小は有限回の範囲内で何回足しても1より大きくなることはない」

「なるほど…、それで実際に問題があったからε-N論法が発展したんだね」

「そう。しばしば間違った結果が導かれてしまうことがあったので、ワイエルシュトラウスは、極限を、無限小とか無限大とかいう実数ではない概念を用いることなく、実数の範囲内で、しかもある意味では有限に落とし込むことで厳密な議論にすることに成功した」

「ん?ε-N論法って有限の理論なの?」

「後で見ればわかるけれど、εは無限小の代わりに用いた正の実数。Nは無限大の代わりに用いた自然数だ。量化記号、全て、存在、を使っていくらでも小さいεを考えたり、いくらでも大きいNを考えたりすることができるけど、でも、いくら小さくしてもεは実数、Nは自然数であることを保証する」

「まだパッとしないな」

「大丈夫。まだまだ時間はあるから、ゆっくり見ていこう。まずは私の料理を楽しんでね」


非常に繊細に作られた料理をしっかり堪能しながら、湾はくつろいでいた。しかし、まだ未知の世界であるε-N論法に少しの恐怖を抱きつつ、一刻も早く解き明かしたい、という気持ちでいっぱいであった。


「まずはε-N論法をもう一度確認しよう」


数列{aₙ}が収束するとは次の論理式を満たすr∈ℝが存在することをいい、このときのrを極限という。


∀ε>0,∃N∈ℕ,∀m∈ℕ(m>N→|r-aₘ|<ε)

これを

lim[n→∞]aₙ=r

と書く


「慣習的な書き方の確認をする」


∀ε>0


「これは、"全ての0より大きいεに対して"と読めばよい。このとき、書かれていないけど、εは実数だ。だから、省略しないで書けば、こうだ」


∀ε((ε∈ℝ∧ε>0)→( … ))


「ただ、これだと非常にカッコが多くなり、煩雑だからまとめた」


∃N∈ℕ


「これは、"自然数Nが存在し"と読めばよい。これは次の式の省略だ」


∃N(N∈ℕ∧( … ))


「あれ?これは"ならば"が出てこないんだね」

「そう。ここには"すべて"と"存在"の非対称性があるね。どちらも、量化記号に制限を与えているという点では同じなんだけど。ただ、ここら辺の話は楽しいけど、いま深く踏み込むと帰ってこれなくなってしまう。今は日本語を借りて意味の解釈をしよう。少し戻るよ」


数列{aₙ}が収束するとは次の論理式を満たすr∈ℝが存在することをいい、このときのrを極限という。


∀ε>0,∃N∈ℕ,∀m∈ℕ(m>N→|r-aₘ|<ε)


「さて、具体例と並べながら見ていこう。まずは、日本語の部分の解釈だ。数列{aₙ}は収束する列にしてみよう。例えばこれはどうだろう」


a₀=1

a₁=1.4

a₂=1.41

a₃=1.414

a₄=1.4142

a₅=1.41421

a₆=1.414213

a₇=1.4142135

a₈=1.41421356

a₉=1.414213562


「これはどういうルールかわかる?」

「わかるよ。√2の小数をどんどん増やしていくんだね。a₈のところまでしか覚えてないけど…」

「そう。この数列は実数√2に収束する。ということはこのε-N論法の論理式を満たすことになる。そして、√2を極限と呼ぼう」

「わかった」

「では、いよいよ論理式に取り掛かる」


∀ε>0,∃N∈ℕ,∀m∈ℕ(m>N→|r-aₘ|<ε)


「日本語で読み下すとこうだ。


全ての正の実数εに対し、自然数Nが存在し、全ての自然数mに対し、mがNより大きいならば、r-aₘの絶対値はεより小さい


もちろんこれでは意味はわかりづらい。けれども、まず初めに重要なのはここだ


∀ε>0,∃N∈ℕ,

全ての正の実数εに対し、自然数Nが存在し、


たとえば、後でわかるように、先ほどの数列の例では、ε=1を選ぶと例えばN=0が存在する。ε=0.0001を選ぶと例えばN=3が存在する。毎回例えば、と言っているのは、ε=1を選んだ時に、別のN=100でもいいからだけど、とりあえず、εを決めると、それに対してNが一つ以上あることが大事なんだ」

「なるほど。でも、どんなNでも良いわけではないよね?」

「もちろん。どんなNなら良いのかは、その次で説明している」


∀m∈ℕ(m>N→|r-aₘ|<ε)


「この部分がNの条件だ。例えば、ε=0.0001を取ってきたとしよう。その時にどんなNがふさわしいかを見てみよう。極限、つまり今回の収束先はr=√2だから、これも代入する」


全ての自然数mに対し、m>Nならば、|√2 - aₘ|<0.0001


「どう考える?」

「極めて複雑だ…」

「ここでは、まず、この部分に注目だ」


|√2 - aₘ|<0.0001


「√2の値は1.41421356237…だ。そして、次の不等式を考えてみよう」

|1.41421356237… - x|<0.0001

「このxの範囲は何だろう?」

「なんだか懐かしい感じだな。えーと、差の絶対値が0.0001未満、これは場合分けだね」

1.41421356237… - x<0.0001 (1.41421356237… - x ≧0のとき)

1.41421356237… - x>-0.0001 (1.41421356237… - x <0のとき)

「これを計算すると、上のほうでは」

1.41421356237…≧x>1.414 1 1356237…

「下のほうでは」

1.41421356237…<x<1.414 3 1356237…

「二つ合わせると」

1.414 1 1356237…<x<1.414 3 1356237…

「大切なところを少しだけ目立たせておいたよ」

「いい感じだ。さて、この条件に合うaₘを見つけよう」

「ちょっと目がちかちかするな。先ほどの表を見ると…」

a₀=1

a₁=1.4

a₂=1.41

a₃=1.414

a₄=1.4142

a₅=1.41421

a₆=1.414213

a₇=1.4142135

a₈=1.41421356

a₉=1.414213562

「a₃は小さすぎてだめだけど、a₄ならちょうど真ん中あたりにあっていい感じだね」

「その通り。そして、a₄以降はどうだろう?」

「小数第4位まで変わらないから後はずっと大丈夫じゃない?」

「そう、その通り。では」


|√2 - aₘ|<0.0001


「この不等式を解くとmの範囲はなんだろう」

「mが4以上ならいいわけだから、こうだね」

m≧4

「mが自然数であるという条件のもとならこう書いても納得できる?」

m>3

「うん、問題ないよ」


∀m∈ℕ(m>N→|r-aₘ|<ε)


「じゃあ、この論理式…改めまして不等式、解ける?ただし、ε=0.0001、r=√2、{aₘ}は"√2の小数第m位まで書いた数"とする」

「えっと、…これ、不等式?」

「この部分"∀m∈ℕ"は、mは自然数と言っているだけだと思ってくれていい。解きたいのはmの範囲を示すNだ」

「さっきやったやつだね。m>3だったから、N=3だ」

「おめでとう。では故郷に帰ろう」


∃N∈ℕ,∀m∈ℕ(m>N→|r-aₘ|<ε)


「この式は成り立つか?ただし、ε=0.0001、r=√2、{aₘ}は"√2の小数第m位まで書いた数"とする」

「Nが存在するかどうか、聞いているってことだよね」

「そう、一つ以上Nが存在すればいい」

「なら成り立つよ。なぜならN=3で成り立つから」

「完璧だ!じゃあ、これに戻ろう。最後の凱旋だ」


∀ε>0,∃N∈ℕ,∀m∈ℕ(m>N→|r-aₘ|<ε)


「これは成り立つだろうか、ただしr=√2、{aₘ}は"√2の小数第m位まで書いた数"とする」

「εの条件が消えたね…」

「そう。さきほどε=0.0001のときに成り立ったけど、どんな正の実数εでも成り立つだろうか?」

「さっきの理屈を思い返すと、εって小数第何位まで一致してくれているか、だよね」

「そう。√2との誤差をどこまで大きくしていいか、がεだから、εが小さければ小さいほどNの取り方は厳しい」

「でも大丈夫だよ。たとえば、ε=0.000000000001、にしてもN=10で大丈夫だね。εが小数第k位まで0が続けば、そのkをNにすればOKだ」

「ということは先ほどの式は成り立つ?」

「成り立つ」

藍はとてもうれしそうだ。こんなに子供のように無邪気にはしゃぐ藍を見るのはいつぶりだろう。

「では、成果発表をしよう」


数列{aₙ}が収束するとは次の論理式を満たすr∈ℝが存在することをいい、このときのrを極限という。


∀ε>0,∃N∈ℕ,∀m∈ℕ(m>N→|r-aₘ|<ε)

これを

lim[n→∞]aₙ=r

と書く


「今の例で言えば、

数列{aₙ}:"√2の小数第m位まで書いた数"

は収束する。なぜなら次の論理式

∀ε>0,∃N∈ℕ,∀m∈ℕ(m>N→|r-aₘ|<ε)

を満たすr=√2が存在するからだ。よってこの数列の極限を√2という。これを」


lim[n→∞]aₙ=√2


「と書く」

「あれ?ちょっと待って」

「どうしたの?」

「結局これって」


∃r∈ℝ,∀ε>0,∃N∈ℕ,∀m∈ℕ(m>N→|r-aₘ|<ε)


「が本物で、∃r∈ℝが本体だったりしない?」

「その通り。湾は極限を理解した」

「いや…ちょっと待って、今のは論理を具体例で追っただけだよ、まだ全然つかめてない気がする」

「それはそうだね。いくつか練習しないといけない。ところで、今回の例でした計算ってどんなものか覚えてる?」

「えーと、不等式の計算と…、あれ?それくらいだっけ」

「そう、実は不等式の計算しかしていない。無限は一切出てこないよね」

「でもそれはεが0.0001で決まってたから計算できたんでしょ、εが変わったら毎回計算しなおさないと」

「そう、その点では無限に計算しなきゃいけない」

「rだってそうだよね。今回はrが√2になることを織り込み済みだったからrについてはよく考えなかったけど、rを探すのも難しい数列だったら大変そう」

「その通りだ。じゃあ、後でそれは計算練習してみることにして…まずは、ε-N論法を読み切ったお祝いにケーキを食べよう」

「そこまで用意してるの!?」

「もちろん、今日は記念日だ!」


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