第9話 基本的な記号、用語
「ただいま」
湾が帰宅する。夜の6時である。
「おかえり。どうだった?」
「まずまずかな。とりあえず、次の仕事にはなりそうだ」
「何より。疲れてる?」
「ちょっとね。藍は?」
「今晩が楽しみで、今は疲れてられないな」
「そんなに?論理式ってそんなに楽しいの?」
「違うよ、湾と一緒にいるのが楽しい」
「嬉しいこと言ってくれるね」
「さて、まずは荷物降ろして、ゆっくりして」
「うん、ありがとう」
藍は湾をちゃぶ台の前に座らせる。
「こんなの買ってきたんだ」
「なに?おみやげ?」
「そう。紅茶」
「すごい、嬉しい。どんな紅茶なの?」
「セイロンティーたよ。スリランカのお茶で、単一産地銘柄」
「さっそく淹れるね。湾は座ってて」
藍は、ミネラルウォーターを沸かす。
「私はクッキーを用意しといたよ。別に私が焼いたわけじゃないけどね。バターの香りが素晴らしいの。紅茶と一緒に食べよう」
藍はクッキーを用意する。茶葉をポットに入れ、湧いたお湯を少しだけ冷ましてから優しく注ぐ。
「さて、早速だけど確認をしよう。まずは…自然数からだね」
自然数全体の集合ℕを次のように定義する。
ℕ:={0,1,2,3,…}
「ちょっと待って」
「どうしたの?」
「今朝、このカッコ{ }は論理式の記号じゃないって言ってなかった?」
「今夜は慣例的な記号も使うから、柔軟に対応してね、とも言ったよ」
「そうだった…けど、なら今朝のことはなんのためにやったのかな…」
「なんのためだったんだろうねえ」
「じゃあ、それは良いとして、自然数って0は含まないのでは?」
「0は自然数でないという立場もあるけれど、私たちは0を自然数にするよ。これは二人の決め事」
「そんなことしていいの?」
「0を自然数にする人たちは多いよ。まあ状況によって変わるから、自然数という言葉は誤解を生みやすいね。0を含まない場合は正整数、0を含む場合は非負整数、とか言ったりするけど、」
藍は湾の唇に指をあてて言葉をつないだ。
「私たちの約束」
藍はさらに続きを書く。
整数全体の集合ℤを次のように定義する。
ℤ:={…,-2,-1,0,1,2,…}
「ちょっと待って」
「どうしたの?」
「これはこれでいろいろツッコミどころがあるよね」
「たとえば?」
「テンテンテン"…"ってなんだよ、とか」
「でもわかるでしょ?」
「厳密ではないのでは」
「いいこと言うね。次いくよ」
藍は我関せずで先に向かう。
有理数全体の集合ℚを次のように定義する。
ℚ:={x/y|x∈ℤ∧y∈ℤ\{0}}
「ちょっと待って」
「どうしたの?」
「さっぱりなんですけど」
「それは説明してない記号があるから仕方ないね。でも有理数って言葉は知ってるでしょ」
「うん、整数分の整数だよね。1/3とか、-2/5とか、58/19とか。それから0とか-7とかも」
「分母に0が来ないことも言えばそれでオーケー。それを論理式で言っただけだよ」
「あー、そうなのか。でも知らない記号が…」
「差集合だけ説明しよう。逆スラッシュを使う」
A\Bを次のように定義する
∀x(x∈A\B↔(x∈A∧x∉B))
「とりあえず、AからBの要素を取り除いたものだと考えておけばよい」
「まあ、言いたいことはわかったよ」
実数全体の集合ℝを次のように定義する。
ℝ:={(A,B)|(A∪B=ℚ)∧(∀x∈A,∀y∈B(x<y))∧¬∃x(x=min(B))}
「ちょっと待って」
「どうしたの?」
「さすがにこれは意味不明ですよね」
「なんで丁寧語?」
「意味不明すぎて」
「意味不明」
「説明する気ある?」
「今はない。ところで実数ってどんなものか知ってる?」
「πとか0.12345…とか、4とか、-2.3912…とか、数直線上の全ての数、かな」
「まあ、そんな感じでいい。無限小数で表せる数全部、といっても楽しいかな」
「なるほど」
「実数はぼんやりと言うことはできるけど、厳密に作ろうとすると難しい。少なくとも今晩のメインディッシュ、イプシロン-エヌ論法を知らないと無理だな」
「わかったよ、とりあえず、Rみたいな記号が実数なのね」
「そう」
複素数全体の集合ℂを次のように定義する。
ℂ:={x+yi|x,y∈ℝ}
湾は黙っている。
「あれ?ちょっと待って、はないの?」
「なんか途端に簡単になったし、まあいいかって」
「ってことはこれは理解できたのね」
「この書き方でいいのかどうかはよくわからないけど、とりあえず、実数と、実数に虚数単位iを掛けたものを足したってことがわかる」
「そうだね。具体例は?」
「3とか、-πとか、2iとか、2.4-3.9iとか、0も」
「そうだね。それで良い。じゃあ、次の論理式は正しいかな?」
ℕ⊂ℤ⊂ℚ⊂ℝ⊂ℂ
「うん、正しいと思うよ」
「そうだね。だんだん数の集合が大きくなっている。それでは、まだまだ前菜、いくよ」
絶対値|・|の定義
絶対値とは、原点との距離であり、次の式で定義される。
|x|:=d(0,x)
ただし、d(a,b)はaとbの距離。
特に、次が成り立つ。
∀x∈ℝ→((x<0→|x|=-x)∧(x≧0→|x|=x))
「下の式の言いたいことは、実数xの絶対値はxが負だったら-x、xが正だったらxのまま、という意味だ」
「なんか今日は論理式多めだね」
「そうだよ、論理式の話をするんだからね。わかりそうなところは理解するのを頑張ってみればいいし、わからなさそうなところは飛ばしていけばよい。でも、いろんな論理式に触れて、実際に書いてみるのが、論理式に慣れるのに一番の近道だ」
「そうだと思う。頑張ってみるよ」
「楽しんでみて」
「うん」
集合の外延的定義
{x₀,x₁,x₂,…,xₙ₋₁}を次のように定義する。
∀t(t∈{x₀,x₁,x₂,…,xₙ₋₁}↔(∃m(m∈ℕ∧m<n∧t=xₘ)))
「これは集合のカッコ{ }をしっかり定義しようとしたもの。まあ、論理式は難しくても、言ってることは集合のカッコ{ }に書いてある項すべて、かつそれのみの集合になっている、ということだ。集合の要素を全部並べたものを集合の外延的定義という。あ、難しかったら飛ばしていいからね」
集合の内包的定義
{f(x)|φ(x)}を次のように定義する。
∀t(t∈{f(x)|φ(x)}↔(t=f(x)∧φ(x)))
「あのさ、藍」
「何?」
「さっきからわからないこと前提で書きまくってるでしょ。楽しそうでなによりだけど」
「そうだよ。でも、きっと、きっとね。うちらが勉強を続けていって、このページに戻ってきたとき、きっと簡単に読めるようになってるはずなんだ。今これがまったくわからなかったら、その感覚を頭の片隅に入れておいて。そして、力がついたときにこのページを読んで、全然違う見え方をする感覚を味わってほしいんだ。これは未来の湾へのプレゼントなんだよ」
「そういうものなの?」
「うん。でも集合の内包的定義はちゃんと知っておいてほしいから、補足説明するね」
{x|xをつかった論理式}
「という形で集合を書くことがある。このとき、"xを使った論理式"が成り立つようなxすべて、という集合だ。日本語を使うとたとえば、」
{x|xは正の3の倍数}={3,6,9,12,…}
「となるよ。論理式は無限を扱えるから、全て列挙はできない、つまり外延的に書けない集合も内包的には書けることがあるんだ」
「わかった。これも高校生のときにやったことがある気がするね」
「うん。とりあえず、イプシロン-エヌ論法の準備は整った。集合の外延的定義や内包的定義は使わないから安心して。そして、私の作った料理も食べてほしいな」
「料理って、教科書か何か作ったの?」
「違うよ、言葉のままの意味の夜ごはんだよ。今日のメニューは、海鮮サラダ・ホワイトシチュー・ローストビーフに…それからデザートもあるよ」
「すごいね。そんなに用意したの?」
「言ったでしょ、今日は楽しみにしてたって。食べたらイプシロン-エヌ論法だよ」
「なんだか楽しみになってきたな」
藍は満面の笑顔で食事の準備を始めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます