第8話 文法

藍は起き上がって、冷蔵庫からパンを取り出してオーブンで焼く。

湾は二人の目玉焼き、ベーコン焼きと紅茶を用意する。藍はその間に歯磨きも済ませている。藍は必ず朝食の前後に歯磨きをする。


朝食の準備をしながら湾は尋ねる。

「文法ってどういうこと?」

「文の書くときの決まりだよ。論理式は、どんな記号をどのように羅列してもいいわけじゃない。その決まりを知ってほしい」

「なるほど、それが∪と∨の違いとかの説明になるの?」

「今はすぐにはならないかもしれないけど、その前提にはなる」

「なるほど」


朝食の準備が整うと、藍はさっそくノートとペンを取り出した。


「清々しい朝のひとときだ、一番はじめからスタートしよう。覚えることが多いぞ」


変数記号

x,y,z,…は項である


「アルファベットとかまあその他の記号を使うことがあるけど、ほとんど全ての記号は項だ。そして、項が表したい意味はいつでも集合だ。

たとえば、2とか5とかの数は集合だし、+とか÷とかの四則演算も集合だし、fとかsinとかの関数も集合だし。ついでにいうと、三角形などの図形も集合だ。でも今はあまり深く考えなくていい。小文字アルファベットは項である変数記号、程度で」


カッコ

( 開きカッコ

) 閉じカッコ

「これはカッコだ。これに大した意味はないけど、カッコのなかをひとまとめにする意味を持つ。カッコは唯一( )だけを使う。ただし、これに厳密に従う場合、人間には読めなくなることもあるので、そのときは[ ]を使うときもある」

「あれ?集合を書いていた{ }は?」

湾はパンをかじりながら聞く。

「あれは、実は論理式の略記になる。少なくとも基本の論理記号ではない」

「よくわからないな」

「いまは、今までの知識は全部捨てて進めよう。とりあえず」

藍がゆっくり食べはじめ、紅茶を飲んで、ひと呼吸おいて、また話しはじめる。


関係記号

= イコール

∈ 属する

x,yが任意の項なら、

x=y

x∈y

は論理式になる。

「ここではじめて論理式が作れるようになった」


否定記号

¬ 否定

Aが任意の論理式なら

¬(A)

は論理式になる。

「Aは論理式ならなんでもいい。たとえば」

¬(x=y)

¬(¬(¬(x∈x)))

「これらは論理式になる」


量化記号

∀ 全ての

∃ 存在する

xが任意の変数記号、Aが論理式なら、

∀x(A)

∃x(A)

は論理式になる。

「Aは論理式だったらどんな式でもいい。例えば」

藍はとっくに朝食を食べ終わって紅茶を左手、ペンを右手に書き続ける。


∀x(x=y)

∀z(∃x(¬(x∈y)))

「これらは論理式になる」


論理演算子

∨ または

∧ かつ

A,Bが任意の論理式のとき、

(A)∨(B)

(A)∧(B)

は論理式になる。


「もう例はいいよね。ここまでの記号で十分な表現力があるけど、もう少しいろんな記号を見てみよう。これからの記号は全部、他の記号で言い換えが可能になる。実は量化記号と論理演算子はどちらか片方でもいいから既に省略可能だけど…」

湾は意味不明といった顔つきをしているのをみて藍は続けた。

「最後に言ったことは忘れてくれ」


→ ならば

↔ 同値

AとBが論理式なら、

(A)→(B)

(A)↔(B)

は論理式になる。


⊂ 部分集合

xとyが項なら、

x⊂y

は論理式になる。


∪ 和集合

∩ 共通部分

xとyが項なら

(x∪y)

(x∩y)

はこれ全体を一つのように見て項になる。

「ここはとても注意が必要で、(x∩y)は論理式ではない。だから」

(x∩y)→z

「これは論理式にならない。項でもないので、文法として誤りだ」


二人とももうすっかり食べ終わって紅茶を注ぎ足しながら話している。


「なるほど、わかってきたよ。"かつ"と"共通部分"の違いが。つまり、"かつ"は論理式と論理式から論理式を作る計算、"共通部分"は項と項から項を作る計算なんだね」

「そういうこと。"共通部分"の計算はさっき私が寝ている間に見てもらったように、論理式で定義できるから実は論理式の略記でもあるんだけどね。でも、今はこのように捉えておいて問題ないよ」

湾は頷きながら時計を見る。

9:15

まだ家を出るには早い。

「10時には家出たいけど、まだ少し時間あるな。とりあえず食器かたそうか」

「ん、ありがと」

二人は食器を洗いながら話す。

「ところで論理式って、厳密なのはいいけど、実際はどうやって使うの?」

「さっきみたいに、共通部分は?と問われたときとかね」

藍は少し機嫌が良い口調で応える。

「でもそれは基本的すぎることでしょ」

「うん。じゃあ、深入りしてみよっか」

「たとえば?」

「そうだな…、今夜も泊まっていく?」

「どうしようかな。明日の予定は何もないから泊まっていこう」

「嬉しい」

「嬉しいのはこっちだよ、ありがとう」

「だって論理式の話、できるからね」


二人は食器の片付けが終わって、歯磨きをする。藍は、朝食の前後に歯磨きをするのだ。


9:40


「そうだ。イプシロン-エヌ論法の話をしよう」

「イプシロン-エヌ論法?」

「そう。多分、論理式がとても便利になる話題だ。むしろ、論理式を使わないと、考えるのは不可能といえるくらい」

「そんなにか」

「無限が絡む話は論理式がないと人間に捉えることはほぼ不可能だ。有限なら全部列挙してしまえばいいけど、無限はそうはいかない」

「ということは、イプシロン-エヌ論法は無限の話なんだね」

「そうとも言えるしそうでないとも言える」

「具体的にどんなものなの?」

「そうだな、例えば」

藍はノートを開く。


0.9999...


「この数は何を表してるだろう」

「何、と言われると…1に近い数?」

「近いってなんだろう?等しいとは違う言葉かな?等しいとき、近いと言っていいのかな?」

「えっと」

「厳密じゃないと、嫌でしょ」

「たしかに」

「今夜のメニューはこうだ」

藍はうきうきしながらノートに書く。


前菜

基本的な記号の確認


主菜

ε-N論法


甘味

無限小数の意味


「どう?楽しそうでしょ」

「これは、フルコースだな」

「さて、今ここでやった文法に厳密に従うと、カッコは増えすぎるし、非常に読みにくい。だから、誤解が生じる心配がないときに、慣習的な書き方をどんどん使う。その度に説明するけど、ある程度は柔軟に、よろしくね」

「わかった」

「もう10時だよ。遅刻するのはよくないからね、行ってらっしゃい。私は家で仕事と」

藍は湾に抱きついて言った。

「今夜のフルコースの準備をしてるね」

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