第6話 和集合
「今日はなんだかんだ結構歩いたねえ」
「もう昨日のことだけどね」
湾はちらと時計を見る。1時35分。常識的な時間で安心する。
湾は服を脱ぎながら、ふくらはぎを握りこぶしでトントンと叩く。いつもより歩いたのか少し張っているようだ。
湾は先に浴槽に入り、藍が横に並べるように空けておく。すぐに藍も入ってきた。
お湯の温度は39度。熱くはない。むしろぬるいくらい。
「それで、和集合と、共通部分は覚えてるんだね」
藍はおもむろに尋ねる。
「まあ、なんとなくだけどね。"カップ"がアルファベットのUみたいな形で、"キャップ"がその反対の形。どっちが和集合だっけ?」
「両方の要素をカップに入れるイメージかな…」
藍は曇ったガラスに指で書く。
∪ 和集合
∩ 共通部分
「でも、"和集合"と"共通部分"に名前の対称性はないね」
湾が言うと、壁を見つめたまま藍が答えた。
「共通部分には"積集合"という名前もある、けどいまは共通部分でいこう
さて、既にうちらは"かつ"と"または"を知ってるから、これを使って、和集合と共通部分を厳密にしてみない?」
「待って、和集合ってどんなのだったっけ?」
「和集合は、2つの集合のどちらか、あるいは両方に入っている要素を全て集めた集合。たとえば、{1,3,4}と{2,8}の和集合は、{1,2,3,4,8}になる」
「OK。あ、集合に順番は関係ないんだね」
「そう、順番は関係ない。それから、ダブリも無視する。たとえば{2,3}と{3,5,7}の和集合は、{2,3,5,7}だけど、これは実は{2,3,3,5,7}と等しい。まあ、ダブらせて書くことは無いけどね」
「わかったよ。あとは、空集合に和集合って考えられるっけ?」
「うん。どんな集合Sも、空集合との和集合はS自身になる。論理式で書くと、こう」
藍はガラスに書く。
∀S(S∪∅=S)
「ああ、これは読めるね」
「よし。じゃあ、和集合を論理式で定義できる?」
「やってみるか」
湾は考えはじめる。まとめよう。
2つの集合から1つの集合をつくるのが和集合だ。
新しくできる集合は両方の要素が、全部入っている。
全部…だから、∀を使うのかな?
2つの集合はAとBでいいか。新しい集合はCとでもしておく?
でも、∪の定義ってそもそもどうやって書き始めるんだろう。
A∪Bの定義、かな?あれ?そうしたらCはどうやって書くんだ?
「ヒント」
藍が言う。
「集合Aと集合Bから、集合A∪Bを定義する。A∪Bはまるで一文字のように扱う」
湾は考えていたことを見透かされたようで驚く。
「少しお湯に浸かりすぎた。身体を流そう。シャワーの時間は最もインスピレーションが湧く時間だ」
藍はさっさと浴槽から出てシャワーを浴び始める。
湾はそれを眺めながら広くなった浴槽の中で考え続ける。
A∪Bを一文字のように扱う、とはどういうことだろう?
とりあえず、藍の言うとおりにしてみよう。
集合Aと集合Bから、和集合A∪Bを定義する。…
さて、A∪BはAとBの要素全部、だから、∀(AとB要素)
かな?あれ?でも∀x(…)って形にしなきゃいけないんだっけ。全然わからんぞ。
まてよ、空集合を思い出そう。
∀x(x∉∅)
これが空集合。
空集合に入る要素xはどんな性質か、を述べてるのかな?とすると…
∀x(x∈A∪B…)
…近い気がする。あ、A∪Bにカッコいるかな?でも一文字扱いならいいか。
あと藍は、∨や∧を使って定義するって言ってなかったか?
あ!!わかってきたぞ。
A∪Bの要素は、Aの要素"または"Bの要素なんじゃないか!?
「A∪Bの要素は」の「は」は"ならば"かな。
∀x(x∈A∪B→(x∈A∨x∈B))
おお!それっぽいぞ!
全てのxに対して、xがAとBの和集合の要素であるならば、xはAの要素またはxはBの要素である。
暗算だとわからん…早く紙に書きたい…
「早くこっち来なよ」
藍が急かす。
「いま、わかった気がするんだ!早く書きとめたい!」
「いいから、身体流してあげる」
「まって、すぐ戻る!」
湾は急いで浴室を出てバスタオルで軽く身体を拭き、床が濡れないように裸のまま紙と鉛筆のもとに走った。
∀x(x∈A∪B→(x∈A∨x∈B))
「よし、覚えてた!」
つい湾は口に出してそう言った。
早く藍に見せたい、そして、できれば完璧だと言ってほしい、そして、論理式初心者なのによくここまでわかったと言って褒めてほしい!はやく風呂の時間が終ってくれ!
浴室に戻ると藍は浴槽に浸かりながらただただ鏡を眺めていた。
「和集合の定義の論理式、たぶんわかったんだよ、それを書き留めてた!急いで身体洗うから、少し待って」
しかし藍は立ち上がり、
「いや、私は先にあがる。ごゆっくり」
と言ってそのまま浴室を出てしまった。
湾は一人浴室で頭を洗い、顔を洗い、身体を洗っているが、頭の中は論理式でいっぱいである。きっとうまくいっているはずだ!と何度も何度も先ほどかいた論理式を反芻する。
そのままもうすっかりぬるくなったお湯につかりながら歯磨きも済ませた。
湾が浴室から出た時、藍はノートに向かって何かを書いていた。
「何書いてるの?」
「湾が書いた論理式にメッセージを残しておいた。私はもう寝るから読んでおいて」
「え、うん、わかった」
藍に直接褒められることを期待していた湾は、少し拍子抜けしながら、身体を拭いて寝巻に着替えた。
湾が
∀x(x∈A∪B→(x∈A∨x∈B))
と書いた下に、藍の文字が書かれていた。
これは和集合の定義として不適切。
仮に、
A={1,3}
B={4}
A∪B={1,4}
としよう。これはもちろん誤りで、実際はA∪B={1,3,4}になっていてほしい。
x∈A∪B
の条件のもとで考えるので、x=1のときと、x=4のときだけ考えればよい。
x=1なら、x∈AなのでOK
x=4なら、x∈BなのでOK
全てOKなので、この式は成り立つことになる。しかし実際は成り立ってほしくない。
正しい和集合の定義は
∀x((x∈A∪B→(x∈A∨x∈B))∧((x∈A∨x∈B)→x∈A∪B))
となる。長いが、
x∈A∪B→(x∈A∨x∈B)
∧
x∈A∪B←(x∈A∨x∈B)
だと思うとわかりやすい。
(X→Y)∧(Y→X)を、X↔Yと略記することにしよう。
X↔Yは「XとYは同値である」と読む。すると、
∀x(x∈A∪B↔(x∈A∨x∈B))
と書いてもわかりやすい。これなら先ほどの例はx=3の時に成り立たないので、この式全体も成り立たなくなる。
湾はがっくりきた。
渾身の論理式だと思ったのに、ひとことも褒めてはくれなかった。
一応頭の中で藍の書いた論理式のほうを確認しようとするが、夜も遅く頭が働かない。
もういいや、寝よう。…藍は先に寝たか。あれ?このまま藍の隣で寝るの、大丈夫かな?なんだろうこの違和感は。
論理式を思いついたときの興奮はすっかり冷めて、寝室への扉を開ける。扉からの光が暗闇を照らす。
「藍、ありがとう、メッセージ読んだよ。よくわかった」
「もうちょっと近くに来て」
藍に呼ばれてベッドに入り込む湾。藍がこちらを向いたのがわかった。
藍は一呼吸おいてから静かに話し始めた。
「論理式に初めて触れて、あれだけ書けるのはすごいよ。論理は感情も人柄もない。でも、しっかり論理に向き合って、自分で考えて書く湾のことは大好きだなあ。明日以降も、もうちょっと論理で遊んでみようね。嬉しかったよ、私」
藍はいとおしそうに湾の頭を撫でると、そのまま抱きついて、深い眠りについた。
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