第4話 部分集合
街を当てもなく散歩して、電車に乗る。
「今日そっち泊まっていってもいい?」
湾が聞く。
「いいよ」
藍は答える。
「ありがとう」
席は空いていない。並んで立つ二人。
特に話すことはない。何も話さなくても、何も気まずくなることはないのだから、これでよい。
お互いがまったく別々のことを考えていても、なんの問題もないんだから。
藍の最寄駅に着くと、厳しく尖った三日月が輝いていた。
「綺麗な月だ」
湾が呟く。
「私は"月が綺麗ですね"は嫌いだ」
「"我、君を愛す”のほうがいいか?」
「比較的良いけど、わざわざ文語で言わなくても良い」
「愛してるよ」
「おっと、月が綺麗なことを言いたかっただけだろうに、別の言葉を要求してしまったな」
「そうかもね」
「ありがとう」
家までの道のりは500mほどだ。
「ところで湾は高校数学覚えてる?」
「まずまず、かな…」
「それは覚えてるとは言わないな。じゃあ、部分集合ってなんだっけ?」
「ある集合の一部分だけとってきた別の集合…とかかな」
「湾はそれで満足?」
「どういう意味?」
「集合{1,2,3}の一部分をとってきた別の集合{1,2}は確かに部分集合だ。では、集合そのものをとってきた別ではない同じ集合{1,2,3}は部分集合か?」
「部分集合だね」
「そして、一部分すらとってこない空集合{ }は部分集合か?」
「部分集合だね」
「厳密にしたいと思わないの?」
「思うよ」
「じゃあ、今夜の晩酌のネタは決まったな。飲み物が必要だからコンビニに寄ろう」
コンビニの会計では湾が全額払う。宿泊費のようなものだ。藍は会計している間にすでに外に出て待っている。
家に着くと、ビールと日本酒と、いくばくかのおつまみをひろげる。
「さて、部分集合をしっかり定義しよう…、湾ならどうする?」
「そうだな、
集合Aが集合Bの部分集合であるとは、Aの要素は全てBの要素であること
なんてのはどうだ?」
「最高だ。じゃあ論理式にしよう」
そうして藍はノートに書いた。
部分集合の定義
集合Aが集合Bの部分集合であることを次のように定義する。
A⊂B:↔∀x(x∈A→x∈B)
「どう?質問は?」
「まず、右向き矢印がわからない」
湾は→を指差す。
「これは、"ならば"という記号だ。この記号のルールを説明するのにはまだ少し知識が足りない。今は、
X→Y
は
XならばY
と読み、
Xが成立するという条件のもとでYが成立すること
という意味で捉えよう」
「OK。なら、これは…」
湾は指でなぞりながら考える。
∀x(x∈A→x∈B)
「全てのxに対して、xがAの要素ならば、xはBの要素でもある」
「そのとおりだな」
「少なくとも例がいくつかほしいな」
「もちろん、練習だ」
藍はノートに書く。
{2,4,5}⊂{1,2,3,4,5}
「これを確かめてみよう」
「わかった。まず、全てのxを考えるけど、x∈{2,4,5}の条件のもとで、x∈{1,2,3,4,5}が成り立つかを考える、ってことだね」
「そのとおり」
「ではxが2か4か5のときだけ考えればよくて、xが2のときは2∈{1,2,3,4,5}だからオーケー。4のときも5のときもオーケー。だから成り立つ」
「いいね。私にビールついで」
「オーケー」
「よし。じゃあ、
{3,4}⊂{1,2,3}
は成り立つか?」
「ふむ。これは、xが3のときと4のときを考え、
3∈{1,2,3}
はOK。
4∈{1,2,3}
はどうやら成り立たないな。なので、{3,4}は{1,2,3}の部分集合ではない」
「そのとおりだ。それを式にすると?」
「これを式に?」
「成り立たない、ということを式にできない?」
「そんなの知らないよ、成り立つとか成り立たないとか記号があるの?」
「いや、私が悪かった。単純に、成り立たない式を否定する式を作ろう」
「ああ、わかった」
湾は次のように式を書いた。
¬({3,4}⊂{1,2,3})
「うん、いいよ。じゃあ、
∅⊂{1,2}
はどう?」
「えっと、調べるべき集合が見当たらない…」
「X→Yを否定できるときは、Xが成立する条件のもとでYが成立しないときを探せばいい。見つからなければ成立する」
「なるほど、これを否定できる集合xが見つからないから成立か」
「そのとおり。ついでに
{1,3}⊂{1,3}
はどう?」
「xが1でも3でも成立。だから成立だ」
「そのとおり。私は酔いました」
藍は気付けば結構飲んでいる。湾の首に絡んでそのまま倒れ込む。湾は仄明るい照明が少し邪魔に感じられて、ぎりぎり手を伸ばして照明を消し、しばし目を閉じることにした。
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