第3話 空集合

「じゃあ、もう一度見てみようか」

藍はまたノートの∀x(x∉0)に視線を戻した。

「全てのxに対して、xは0の要素ではない、と言っている。これを満たす集合0は唯一空集合だけだ


空集合は、



とか、


{ }


と書くことがある。まあ、何も要素がない集合だ」

「まあ、それはそうだろうな。なにか要素がある集合なら、全てのxってことにはならないから…」

「そう。これで空集合は理解したか?」

「式では書ける。でも練習したい」

「私は湾のそういうところが好き」

藍はまた湾に視線を飛ばす。

湾は一瞬心臓が高鳴るが、ここで運ばれてきたチーズケーキと紅茶を並べる。ノートは開きっぱなし。クッキーとコーヒーはまだ来ない。

「よし、練習だ。

まずは、"属さない"という記号(∉)を使わずに書こう」

「よし…」

湾はノートに次のように書く。


∀x¬(x∈0)


「意味は通じる」

冷たく藍が言う。

「何か悪いところがあった?」

「"属さない"という記号(∉)は、次のような省略法だ。


x∉y:↔¬(x∈y)


さて、これを愚直に使って


∀x(x∉0)


を書き換える。意味は考えない、とにかく書き換える。すると、次のようになる。


∀x(¬(x∈0))


湾が書いたのとどう違う?」

「カッコが多いな…」

「そのとおり。もちろん湾のように省略して書いても良い。が、論理式の良いところは意味を考えなくても計算ができるところだから、愚直に練習するのも良いことだ」

「わかった。ところで、この記号すっとばしてたけど、何?」

湾は:↔を指差す。

「これは、定義する、という記号。特に論理式に使う」

「わかった。もう少し練習できる?」

「できる。¬記号のルールを使って遊ぼう。


¬(∃x( ... ))↔∀x(¬( ... ))


これで、↔の右から左、もしくは左から右に書き換えてよい」

「オーケー。これならできるよ」

湾は丁寧に式を書く。


¬(∃x(x∈0))


「ブラボー。完璧だ」


たった今運ばれてきたクッキーを即座にかじりながら言う。


「そして、これは読める?」

「えーと、xは存在しない、に対してxは0の要素である」

「はははっ!それじゃあ日本語の意味わからんな!」

「もともと数学の日本語特殊だからこういうのもありじゃない?」

「それもそうだけど、今回は


xは0の要素である、というxは存在しない


とでも読んでおこう」

「なるほど、たしかにそう聞くと0に何の要素も無いという意味で、空集合っぽいな」

「っぽいではなくて空集合」

「はい、すみません」

「これで練習はできた?」

「まあ、今のところは」

「いいね。ところでこのクッキー、なかなか良いな」

「美味しいってこと?」

「美味しくないクッキーは良くないだろ?」

「それもそうだ。コーヒーは?」

「酸味が強い。これはこれでよい」

「苦味のほうが好きかい」

「時による。さて、伝票を見よう。私は803円。湾は1045円」

「オーケー。どう払う?」

「私は803円払う。ちょうどある」

藍は500円玉1枚と100円玉3枚と1円玉3枚出した。

「じゃあこれで後は払っとくよ」

「よろしく」


二人はそのまま立つことなく、一時間ほど話したあと店を後にした。

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