第2話 八月二十三日

 朝から夕方まで畑で過ごした。

 正直、都会育ちの貧弱な私に農作業は辛い。

 たまに任されるタクシー運転手の方がずっと楽だ。

 ただ一つ好ましいのは心が無になること。

 黙々とアスパラを収穫している間は辛い記憶を忘れていられる。


 くたくたになって帰ると、佳奈が居間で大好きな刑事ドラマの再放送を見ていた。

 驚くべきことに、バディ物の魅力は小四の女の子にもちゃんと通じるらしい。

 私がシャワーを浴びて戻る頃には、もう佳奈は自室に引っ込んでいた。

 テレビは付いたままだった。チャンネルが変わっていた。相も変わらずローカルニュースが伝えるのは事故、火事、熊、そして夜空に魅せられた憐れな女子大生の遺体の件。

 キラキラ光る星のストラップを摘んで、私はハンガーにかけた上着のポケットから自分の携帯を引っ張り出した。ネットのニュースを確認。県警は彼女が持っていたはずのスマホが見つからないことを問題視しているらしい。

 さて、と携帯を仕舞い、気持ちを切り替えて台所へ向かった。

 ただでさえ小食な佳奈がこれ以上痩せてしまってうっかりネグレクト疑惑が深まらないよう、食事にはそれなりに気を遣っている。今日も今日とて、私は倉庫からごっそりくすねてきたホワイトアスパラガスの調理に取りかかった。

 ホワイトアスパラガスは皮が厚い。私が管理を任されている畑のものもかなり厚い。T字のピーラーが熱を帯びそうなくらい立て続けに、一心不乱にアスパラガスの根元の皮を剥きまくる。大きな鍋で塩茹でにした、そのままでも全然いけるホワイトアスパラガスたちを尚のこといけるホワイトアスパラガスたちに仕上げていく。

 ホワイトアスパラガスのクリームソースがけ。ホワイトアスパラガスのバターソースがけ。ホワイトアスパラガスの濃厚チーズソースがけ。ホワイトアスパラガスのニンニク焼き。ホワイトアスパラガスのフランドル風なんちゃら。冷蔵庫のピクルスもホワイトアスパラガス。スープも付けよう。ホワイトアスパラガスとタマネギと固形コンソメと水と牛乳と――。どれも完璧にレシピの分量通り。そうそう何でもそうじゃないと。母さん中途半端が一番嫌いなの。分かる? あらどうしてこんな問題も解けないの? 初めからやり直し! だから言ったでしょう。やるなら徹底的に。クラスで三番? 貴方はいったい誰の子なの? 言いなさい誰の子だと思ってるの! できるまでお預け! はい駄目! 駄目! 駄目やり直し!


 パパ? と呼ぶ声が私を忌まわしい過去から引き戻した。


 振り向くと、シャワーを済ませたらしい佳奈が玉簾の向こうからひどく不安そうな目でこちらを見ていた。

「ごめんごめん、もうすぐできるからね」

 私は努めて明るく返した。柱時計を見ると午後九時を回っていた。いけないな、と内省する。こうして周りが見えなくなってしまうことがたまにある。

 最初の一皿はもうすっかり冷めてクリームソースがペースト状に固まっていた。


「ねえ佳奈、『星』はアスパラも食べるかな」

 遅い夕食を始めてからずっと私の語りかけをスルーしていた佳奈がようやく顔を上げた。八皿出したアスパラガス料理にもピクリとも動かさなかった眉を、今はきゅっと寄せている。

 怒るようなポイントがあったかな? 不安に思ったけれど、どうやらそうじゃない。佳奈は何かをしきりと考えている様子だ。けれどまとまらなかったらしい。俯いた。フォークで刺したホワイトアスパラガスの穂先だけをやけに慎重に齧った。

「食べると思うんだけどなあ、パパ。ネットで調べたら、少なくないらしいんだよね雑食の『星』」

「……雑食?」

「何でも食べるってこと」

 私も真似して穂先だけを囓った。

 甘いような苦いような、冷たい汁が溢れて下の歯の裏を濡らした。

「でも大抵は肉食みたいだね。見た目おっとりしてる割に凶暴で、人から嫌われてる奴もいるそうだから、佳奈も怪我とか気を付けないとね」

 カキやアワビの稚貝を食べるものやサンゴを主食にするものは、漁業者などから特に迷惑がられているらしい。

「多分、雑食」

 佳奈がそう小さく応えてくれた。

「あと皆、すごく嫌ってる」

 思いがけない言葉だった。『星』の飼育は先生の指示か何かで、本人たちが望んだものじゃないということだろうか。

「佳奈は、クラスの皆と、具体的にはどんなことしてるんだい?」

「……班を作って、動いてる。危なくないように」

「班か。班いいね。他には?」」

 その後、今日はもう返事は聞けないみたいだなあ、と私が諦めるほど長い間を置いて、秘密、と佳奈は言った。


 翌日、私はPTAの集まりの帰りに公民館の図書室から海の生き物の図鑑を一冊ちょろまかした。

 腕を切られても再生するどころか、切り離された腕から同じ個体が再生し、増殖する――。説明文の一節が私に強烈な生理的嫌悪感を与えた。

 そうして『星』の生態について改めて調べながら、何でもバランスを取るようにできているものなんだなあ、とぼんやり考えた。

 形のあるものもないものも、すべてはどこかで繋がっていて、互いに押したり引いたりを繰り返しながら世界の形を保っているようだ。

 眩い光は暗い影を落として当たり前。長閑な田舎道の遥か先で悲惨な玉突き事故が起きていても不思議はない。

 山火事の後には新しい草木が芽吹くに決まっている。人が活動域を広げればそれだけ熊との遭遇率も高くなる。

『海の星』なんて素敵すぎる名前を付けられた生き物は捕食動物としての浅ましさを思うさま発揮していい。そんな海棲棘皮動物の飼育に海なし県の山奥で暮らす小学生が挑んでも全然いい。

 好き嫌いなどなかった佳奈が母親の事故死を境になぜかキュウリだけ極端に苦手になってしまってもいい。同じように配偶者を亡くした私がなぜか重度の窃盗症になってしまってもバレなければそれはそれでいい。

 月に何度かはアスパラガスだけの日やホウレンソウだけの日があってもいい。世が世なら毒親と見なされたに違いない母の元で育った男が長じて後に非人道的な手段でもって心の傷を癒そうと試みたっていい。幼い頃に受けたDVとその後の育児放棄の記憶が我が子の自主性をできる限り尊重しようという殊勝な思いの根底に横たわっていたっていい。

『佳奈に嫌われるのが怖くて厳しくできないだけだろ』

「黙れ」

 だとしたら何だ。悪いのか。私にもあんな、母さんみたいな前時代的な、子象に玉乗りを仕込む冷血サーカス団長みたいな子育てをしろって言うのか。深く深く刻み込まれてしまってもう拭おうにも拭えない記憶が頭の奥で金属質な軋みを上げ始めた。母さんの声が脳裡に響き渡る。どうしてこんなこともできないのあんたバカなの? はい駄目もう一回。はい駄目もう一回。はい駄目もう一回はい駄目もう一回はい駄目もう一回――。

 大人の私は今にも叫び出しそうな子供の私を強く抱き締める。落ち着け。落ち着くんだ。母さんはもういない。もういないんだ。私が駄目になったら佳奈はどうなる。二代に亘ってか? あんな憂き目をあの子に味わわせたりさせられるものか。そうだろう? 私たちは克服した。辛い記憶に自分たちでけりを付けた。もう何もかも過去のことなんだからいちいち取り出して苦しむ必要なんてないんだ。

 その次の日だった。

 昨日までと同じように出かけた佳奈が、夜になっても戻らなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る