『星』はアスパラも食べるかな
夕辺歩
第1話 八月二十二日
入道雲。
風鈴の音色。爽やかな夏の風。
緑
私の周りはこんなにも
そして何より、十日ほど前から続く、群馬との県境に当たる山の中で見つかった女子大生の遺体の話。
亡くした妻、
どこにどんな暗闇が口を開けているか分からない。
誰もがそう意識せずにはいられない世の中だ。
とはいえ、安定した今が大きく変わることなどそうそうないと高を括ってしまうのは人の
「ごちそうさま」
相変わらずの、何とも冷ややかな声だった。
佳奈が片付けるガラスの器にはまたキュウリが残されていた。
「河童にでもあげるのかい?」
からかい半分に尋ねると、ワンピースの肩越し、佳奈は私に
明らかな
「いつだったか、公民館で自治会長さんに聞いたんだよ。小学校の裏を流れてるあの川、昔は溺れる人が多かったんだって。河童がいたから」
聞こえよがしな溜息しか返って来なかった。私はしつこく話しかける。
「冷やし中華、美味しかった?」
「別に」
たとえそんな返事でも、それが返事であるだけで嬉しかった。
このところ何をしていても心ここにあらずな様子の佳奈と、こうしてやり取りが成立するのはおよそ一週間ぶり。遠く茨城県はひたちなか市まで足を伸ばしたという臨海学校から、彼女が戻って来て以来のことだったからだ。
「お皿、そこに置いといていいからね」
機嫌良く言ってあげたそばからシンクを叩く水の音が聞こえて来た。やれやれ。苦笑いの私は残りの麺を啜る。
女の子って難しい。そうつくづく思う。
私が同じくらいだった頃とはえらい違いだ。
小四の私はもっとずっと扱いやすかったと断言できる。
『母さんに打たれたくなかっただけだろ』
というのは私の中の私の声。嘲りを含んだその響きを、私は麦茶をあおって静かにやり過ごす。胸の中に今も残る傷付いた幼稚な部分が、ふとした瞬間、こうして顔を覗かせて私自身を戸惑わせる。
母さんなりに必死なことには当時からちゃんと気付いていたじゃないか。大人の私は幼い私をそう宥めてやる。それに、ワンオペ育児がどれほど大変なものか、今では嫌というほど分かっているだろう?
私と佳奈がこの山間の町へ引っ越して来たのは半年ほど前のことだ。
交通事故の辛い記憶が残る街で今まで通り会社員を続けるより、新しい土地で心機一転、これまでとは違う暮らしを始めてみてはどうか。智子の一周忌の席で、向こうの親戚の一人がそう声をかけてくれたことがきっかけだった。
自然豊かな田舎の水に、都会で生まれ育った私は自分でも驚くほどすぐ慣れた。
ある時は一人の農業従事者。またある時は『星空観光タクシー』の運転手。紹介されるどんな仕事も苦にはならなかった。
冬場は鹿狩りか猪狩り、他の時季はホウレンソウかアスパラガス。後はただ綺麗な星空の画像がネットで一度バズったくらい。辺鄙極まりない所だと誰もが口を揃えるけれど、そんなことはない。
こちらの事情を理解して、集落の皆さんは傷付いた佳奈が心を開くまで根気強く接してくれた。男手一つで娘を育てることの難しさに深く理解を示してくれた。私たち親子への声かけと協力を惜しまずにいてくれた。
そして何より小学校のクラスメイトたち。分けてもケン君だ。面倒見の良い彼に対しては、父娘共々、この先も足を向けては寝られない。
トラウマを受け身の姿勢で克服することはできるか。否だと私は思う。逃げずに向き合い、自ら進んで働きかけるのでなければ、心の傷が真に癒えることはないだろう。この場所から再出発。失われたものを取り戻す。そのために必要なのは揺るぎない日常。何気ない日々の暮らし。安定した足場だ。大地の支えなしに伸びる大樹などないのだから。
「行ってきます」
「待った!」
どれほど内省的になっていても、今の私は佳奈の声を聞き逃さない。
箸を持ったまま上半身だけを廊下に仰け反らせた。逆光の中、佳奈は玄関先でサンダルをつっかけ、引き戸に手をかけた姿勢で止まっていた。
「今日こそは、誰とどこで何をするか、ちゃんと言ってから出かけようね」
また言い付けを無視するつもりなら今日という今日は外出を許さないからね。
言外にそんな思いを込めて、私は返事を待った。
哀しいかな集落は一枚岩ではない。娘に対する私のスタンス(『田舎に都会ほどの危険はない』という今思えば大いに間違った認識に根差す放任主義)を、ある種のネグレクトと受け取る向きさえ一部にはあった。そのことに気付いたばかりで、私は少々ならず過敏になっていた。
俯き加減にこちらを向いた佳奈は観念したように溜息をついた。
「……ってるの。クラスの皆と」
かってるの、と聞こえた。
「飼ってる? クラスの皆と、何を?」
「……『星』」
私は思わず緩みかけた口元を片手で覆った。
まさかそんなチャーミングな答えが返って来るとは。そうか『星』か。『星』ね。この間の臨海学校で捕まえて、こんな山奥まで連れてきたわけだ。その世話をしに行くわけだ。
「場所は? どこで?」
佳奈は答えず、もういいでしょうとばかりに勢いよく出て行った。
このとき呼び止めて、詳しいことを聞き質していれば何かが変わっていたか?
分からない。今の私に言えるのは、どれほど土壌が豊かでも、木そのものが根腐れを起こしていてはどうしようもないということだけだ。
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