第3話 統括ヒーラーのサブリナ様
彼は私をお姫様抱っこしたまま、大岩の横に立てられていたテントへと向かう。テントというから、キャンプ用の小さなものを想像していたのだけれど、全然違った。確かに支柱を立ててそれに布を貼った簡易的なモノではあったけど、ちょっとした家くらいの大きさがある。
「失礼します!」
彼は入り口で声をかけると、垂れ下がった布を手で上げて私を抱いたまま中へと入った。
中には簡易ベッドが数台置かれていたけれど、ベッドには誰も寝ていない。奥にある小さな文机にただ一人、小柄な女性が座っていた。彼女はこちらに気付くと、すぐに立ちあがってゆっくりと歩いてくる。グレーの髪を後ろで綺麗に束ねてお団子にし、ネットをかぶせてある。きっちりしているのに、どことなく柔らかな雰囲気のある上品な年配の女性。黒いロングのワンピースに白エプロンという服装に、どことなくナイチンゲールを重ねたくなる姿をしていた。
「あらあら。どうされました?」
彼女はランタンを手にこちらにやってきた。
彼が私をそばの簡易ベッドに、そっと寝かせてくれる。
「グレイトベアーに襲われているところを見つけたんです。それで、怪我とかしてないか心配で……」
「け、怪我なんかしてないです。ちょっと驚いて腰が抜けちゃっただけで」
こんな重病人扱いをされるのは申し訳なくて、起き上がろうとする。そこを、ランタンをベッドの脇に置いたその女性に、トンと肩を押された。ちょっと押されただけなのに、なぜだろう。抗えないものを感じて、もう一度私はベッドに仰向けになった。
それを見て、彼女はにっこりと優しい笑顔を浮べる。
「ええ。怪我していないのは視ればわかります。でも、アナタはとても疲れている。それにあまり睡眠も充分にとれていないのではないかしら?」
彼女の声が心の中に染み渡ってくるようだった。穏やかな、そんなに大きいわけではない落ち着いた声。それが今は耳に心地良い。
「そう、かも……しれません」
ベッドに横になったからだろうか。とろんと眠気がぶりかえしてきた。彼女の傍らでは、私をここまで連れてきてくれた彼がオロオロと心配そうにしている。そんなに心配しなくても大丈夫なのに。彼の姿を見ていると、自然と口元が笑みの形になった。
「私は、ここ、西方騎士団でヒーラーをしています。救護班統括ヒーラーのサブリナ・トゥーリと申します。サブリナと呼んでくださいね」
そう言って、グレイヘアーのナイチンゲールは私の
とてもあたたかくて、優しい手だった。頭の中までじんわりと温かさが染みこんでくる。ヒーラーというのが何なのかわからなかったけど、とにかく彼女の手は心地よくてとても安心できた。
とぷんと、温かい湯船の中に使っているようなそんな心地よさが全身を包み込む。
え……? と自分の右手を掲げてみると、さっきまで寒くて白くかじかんでいた指が、本当にお風呂からあがったばかりのようにふっくらとしていた。指の先までじんわりと熱をもっている。全身の血行が突然よくなったみたいだ。
驚いて彼女の顔を見ると、彼女は「うふふ」と柔らかな笑みを湛えた。
「疲労を取り除いて、少し血の巡りもよくしておきました。本当は眠気もとってあげたいけれど、これはちゃんと寝て回復させるのが一番ですからね」
そう言って、彼女は私にウィンクをする。わぁ……もう、なんて上品で、そしてチャーミングなおばあちゃまなんだろう。
「サブリナ様は王国一のヒーラーなんだよ。王様に宮廷に残るように言われたのに、前線で傷ついている人々を癒やしたいっておしゃって騎士団に志願なさったんだ」
彼の口ぶりからは、彼女――サブリナ様を心から尊敬している気持ちが伝わってくる。
彼が手を差し出してくれたので、遠慮なくそれに掴まってゆっくりと上半身を起こした。
「そうだ。俺も自己紹介、まだだったよね。俺は、フランツ・ハノーヴァー。西方騎士団で正騎士をしてるんだ」
フランツ……と口の中で小さく繰り返す。私が彼の名を呟くと、フランツは嬉しそうに目を細めた。イケメンなのに笑うと途端に童顔にみえるのは目じわが愛嬌あるからなのね、とそんなことに感心していたら、彼の翠の目がじっとこちらを見つめていた。そんなに見つめられると、どぎまぎするから止めてよね。また顔が朱くなるんじゃないかと内心心配になりながら、慌てて目を逸らした。
「君の名前を教えてもらってもいいかな」
そう言われてはじめて、自分がまだ名乗っていないことに気付く。
「私は、カエデ。久保田楓……っていいます」
「カエデか。始めて聞く名前だけど、いい響きだね。それにしても、あんなところで何してたの? キノコ狩り?」
そうフランツに言われて、はたと悩む。自分自身でも、なぜあんなところにいたのかさっぱりわからないのだ。答えようがない。
「私、ついさっきまで大崎にある会社のオフィスで仕事していたはずだったの。でも、その……疲れが溜まって、ついウトウトしちゃって。たぶん、寝ちゃったんだと思う。でも、ハッと目が覚めたらこの森の中にいたの。自分でも、何が何やら」
もしかして夢遊病にでもかかって、近くの公園にでも
「そっか……」
フランツは、顎を押えてウームと唸る。
「ここは……日本、なんだよね? 大崎の近くかな?」
ずっと疑問に思っていたことを、おそるおそる口にしてみる。さっきフランツはこの森のことを『ウィンブルドの森』と言っていた。ウィンブルドの街から半日歩いたところにある森だと。
職場の近くにそんな名前の街や森があるなんて聞いたこともないし、そもそも半日も歩くってどういうこと? バスや電車じゃないの? とにかく、わからないことだらけだった。
「ニホン? オオサキ? このあたりは毎年来てるけど、聞いたことのない地名だなぁ」
フランツは不思議そうに首を傾げてしまう。
大崎はともかくとして、日本を知らない? どういうことなの?
考えがまとまらなくて、視線があちこちに揺らいでしまう。彼らの言っていることがわからない。私の言っていることも伝わらない。言葉は伝わるのに。そもそも、私がいま喋っているこの言葉はなんなの? 私、こんな言語、習った覚えなんてない。
混乱しまくっていた私の肩をサブリナ様が優しく抱く。
「落ち着いて、カエデ。ゆっくりでいいから息をはいて。そう、上手ね」
彼女に言われるままに息を吸って吐く。そうしていると、不安がぎゅーぎゅーにつまっていた肺の中が少し軽くなった気がした。
「彼女を最初に見つけたのは、従騎士のテオです。アイツが言うには、グレイトベアーを追っていたら、突然グレイトベアーの足下に彼女が現れた……って」
フランツの言葉に、サブリナ様は大きく頷く。
「それでわかったわ。……カエデ。よく聞いて」
「は、はいっ」
彼女の灰色の目が、私を見上げる。凜とした知性のたゆたう瞳。その瞳に吸い付けられるように彼女と目を合せた。
「あなたは、おそらく。異世界から飛ばされてきたの」
「…………い、異世界。ですか……?」
聞き慣れないワードに、思わず聞き返した。
「ええ。この森は、別名『迷いの森』といってね。時々、人がいなくなることがあるの。そして逆に、どこからともなく人が現れることもある。数十年に一度、くらいですけどね。おそらく、この森のどこかに時空の歪みがあって、それに触れてしまうと人はどこか遠くの世界に行ってしまうのではないかと言われているの」
そこにフランツが口を挟む。
「俺もそのお伽噺、小さい頃祖母から聞いたことがあります。だから、森の中で傍を離れちゃ駄目よって言われて。俺、すごく怖くて、それからしばらく森にいくときはずっと祖母にくっついてスカート握ってました」
「ふふふ。そうね。子どもたちが勝手に遠くにいかないように、教訓として幼い子に話して聞かせることもよくあるわね。でも、その話は単なる寓話ではないの。この森から人が消え、そして逆に現れることもあるのは事実。このお嬢さんのようにね」
そんな話、にわかには信じられなかった。あの大崎のオフィスから、別の世界に迷い込んでしまったということ? でも、あの巨大な熊に、日本人には見えない人々、知らない言語……どれだけ否定しようとしても、それらの事実が、自分が別の世界にきたのだと裏付けているように思えてしまう。
「じゃ、じゃあ。また、戻れるんですよね?」
つい語気を荒くして、サブリナ様に詰め寄ってしまった。しかし、彼女は申し訳なさそうに眉をさげる。
「それは、わからないとしか言えないわ。次元の歪みは、いつどこに現れるのかわからないの。次は三日後かもしれないし、五十年後かもしれない。それは……誰にもわからない」
「そんな……」
もう、帰れない? じゃあ、私はこれからどうやって生きていったらいいの? どうしたらいいのかわからない。目の前が真っ暗になるようだった。
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