第2話 西方騎士団
オフィスで残業していたはずなのに、うたた寝から覚めてみたら知らない森の中にいた。しかも、すぐ真後ろには攻撃体制の巨大な熊。
何? 何? どういうこと???
何がおこっているのか、さっぱり頭がついていかない。
昔、動物園で檻に入ったヒグマを間近でみたことがあったけれど、その熊はそれよりもさらに二回り以上大きく見える。
しかも、熊は右手を大きく振り上げていた。
黒光りする黒水晶のような瞳が、こちらを見下ろしている。でも、その目からは何の友好さも感じられなかった。あるのは、目の前にある無防備な食料への食欲だけかもしれない。
何が何だかわからないけれど、パニックになりそうな頭の中をなんとかギリギリのところで正気につなぎとめる。そのわずかに残った理性が警告してくる。あの腕で殴られたりしたら一溜まりもないって。
いますぐ逃げなきゃ。そう思うものの、ぺたんと座り込んでしまった下半身は、へなへなと力が抜けてしまって動けない。
「や……やめて……助け……」
命乞いの言葉が口から溢れるけれど、巨大熊はその丸太のように太い腕を容赦なくこちらに振り下ろしてくる。その瞬間、恐怖のあまり頭を抱えてぎゅっと丸まった。そんなことしても無駄だって心の奥ではわかっていたけれど、それ以外の行動なんてなにもできなかった。
「いやっ……!」
死んだと思った。現に、その直後、ドーンっという大きな震動を感じたから。
これはきっと、殴られた衝撃なのね。そう思ったけれど、あれ? でも、思ったほど痛くない? そっか、もう死んでしまえば痛みを感じないんだっけ?
でも、夢なら死んでしまえば眼が覚めるんじゃないの? それともまた別の夢の中?
頭の中をぐるぐる色んな疑問が湧いてきては、答えを探すこともできずに疑問は降り積もっていく。
ただただ怖くて、震えも止まらなくて。頭を抱え蹲ったままでいたら、ポンと誰かに肩を叩かれた気がした。
怖かったのでそのまま無視していたら、今度はさっきより少し強く肩を叩かれる。そのうえ今度は肩を掴んで揺さぶられた。
「大丈夫か?」
「え?」
いつからそこにいたんだろう。熊のことで精一杯になっている間に誰かが近寄ってきていたようだ。顔をあげると、金色の髪に緑の瞳をした青年がこちらを覗きこんでいた。
「大丈夫? 君、麓の村の子?」
青年はすぐそばに膝立ちして、こちらを見ている。
「あ、えと……突然、大きな熊が……」
それだけなんとか口にすると、彼は「ああ」と笑った。
「グランドベアーなら、俺たちが始末したから安心して。ほら」
「え?」
彼は立ち上がって前方を指し示す。そこには、さっき巨大熊が仁王立ちになった体勢のまま仰向けに倒れていた。胸元や腹には何本もの剣や斧が刺さり、傷口からたくさんの血が滲み出て、赤黒く濡れたシミを作っている。
ふわんと、血なまぐさい匂いが漂ってきた。思わず、吐き気を催すような濃い臭い。
熊はもう絶命しているようで、ピクリとも動かなかった。
「だからもう大丈夫だよ。危なかったね」
そう言うと彼は子どもをあやすように、ポンポンと頭を撫でてくる。見知らぬ男性に頭を撫でられ、びっくりして固まった。
それに顔がとても近い。あまりの近さに、つい目のやりどころに困って目を逸らすしかなかった。
なんなの? なにが起こってるの? この状況。
やっぱりこれは夢だと確信した。
だって、こんなに顔立ちの整った青年なんて現実にいるはずがない! いや、世界的に人気な映画俳優くらいの人になるといるのかもしれないけど、今までの人生の中でこんな美形に出会ったことなどない。
それほど、彼は整った顔立ちをしていた。
ほどよく日焼けしているけれどきめの細かいなめらかな肌に、高くすーっと通った鼻立ち。
絶妙のバランスで整った顔の造作は、意志の強そうな大きなエメラルド色の瞳によってさらに引き立てられている。
けれどその魅力的な双眸は、いまは心配そうに眉を寄せて気遣うようにこちらへ視線を向けている。
次々と訳のわからないことが続いて頭の中がオーバーフロー寸前。つい彼の顔をボーッと見ていたら、急に彼は両手に嵌めていた
え!? 何!? どういうこと!?
びっくりしていると、そのままひょいっと彼に抱き上げられてしまう。
「クロード。この子、様子がおかしい。怪我してるかもしれないから救護班に連れて行く」
お姫様抱っこで軽々と抱きかかえられていた。えええ!? ちょ、力持ちですね!!! 私、165センチもあって大柄だし、決して細い方じゃないのに。彼は特に重そうな素振りもなく私を抱きかかえていた。
お姫様抱っこなんてされたの始めてだから、なんとも気恥ずかしい。彼の端正な顔がすぐ近くにあるのも目のやりどころにこまる。仕方なく外に視線を向けると、一人の男性がこちらに近づいてくるのが目に入った。周りには彼の他にも何人かいたが、名を呼ばれて側に来たということは彼がクロードという名の人物なのだろう。
「救護班なら、少し前に通った大岩の傍でテントを張るといっていたぞ」
こちらは銀色の長い髪を緩く束ねた細身の青年だった。サファイアのような切れ長の青い瞳が、眼鏡の奥から鋭く見つめてくる。まったくにこりともしないその表情は銀ナイフのよう。私を抱きかかえている彼とは優劣付けがたい美形だった。
そして彼も、その周りにいる他の人たちも皆、白地に金色の装飾が施された甲冑のようなものを身につけ、そのうえに青色のマントをつけている。それがまた、よく似合っているのだ。
一体、何なの!?
なんで人生二度と見ることはないだろうレベルの美形に立て続けに出会うの!?
やっぱりこれは夢なのね。夢……そう、きっとそうなのよ。
明らかに会社とは違う場所。どう見ても日本人には見えないイケメンたち。
夢以外に説明が付かないから夢だと思い込もうとしたのに、自分の意思とは裏腹にぐーとお腹が情けない音を立てる。
そうだ。今日は忙しくて残業の合間に間食すらする暇がなかったんだ。お腹がすくのも無理はないのだけど、会ったばかりの若い男性にお腹の音を聞かれて恥ずかしさにカーッと顔が熱くなる。なんて情けない初対面なの。これ以上鳴らさないようにしなきゃ。必死にお腹へ意識を集中させて腹筋に力を入れていたら、ぷっという吹き出すような声が聞こえてきた。
見上げると、私を抱っこしている彼の肩が小刻みに震えていた。笑いをかみ殺しているようだ。しかしそれも無駄な努力だったようで、すぐに彼は耐えきれずに破顔した。笑った彼の表情は、少年のようなあどけなさをどことなく残している。
「ご、ごめん。ハハ。大丈夫、あとでちゃんと分けてあげるよ。もうすぐ夕飯の時間だから、いっぱい食べるといい」
「は、はい……」
顔が火を噴いたように熱くなって、それを答えるだけで精一杯だった。
彼はクロードに礼をいうと、私を抱っこしたまま森の中をずんずん歩いて行く。
運ばれながら、頭を巡るのは今自分が置かれた状況のことだった。
お腹がなるってことはやっぱりこれは夢じゃないんだろうか。
だとしたらここはどこで、彼らは何者なんだろう。
「あ、あの」
「ん? 何?」
彼は何か鎧のようなものを着ているようで、歩く度にガチャガチャと音がする。
規則正しい歩みを止めずに、彼は視線をこちらに向けてきた。
「ここはどこで、あなた方は何者なんですか……?」
失礼にならないように言葉を選びながら尋ねる。言葉を選び……あれ? 私はいま何語をしゃべっているんだろう。すらすらと何のひっかかりもなく自分の口から出て来たけれど、聞こえた音はよく知っている日本語ではなかった。英語でもフランス語でもない、聞いたことのない言語。
彼も同じものと思わしき言語で返してくる。そして不思議なことだが、聞き慣れないはずの彼の言葉が、日本語と同じような自然さで完璧に理解できていた。
「ここはウィンブルドの森。ウィンブルドの街から半日くらい歩いたところにある森だよ。そして、俺たちは西方騎士団。毎年来てる魔物討伐の途中で立ち寄ったんだ」
言葉はわかるのだが、聞いたことがない単語ばかりだった。
彼なら自分がこんなところにいる理由を知っているんじゃないかと期待したのだが、彼の言葉に益々頭の中は疑問符でいっぱいになるだけだった。
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