騎士団の金庫番 〜元経理OLの私、騎士団のお財布を握ることになりました〜
飛野猶
第1章 騎士のお小遣い帳
第1話 気がついたら、森の中
「はぁ……終わんない」
しょぼしょぼした目で、自分の前にあるノートパソコンを睨む。会社から支給されている、そっけない業務用パソコン。
ディスプレイには交通費や経費を処理する社内システムが映し出されていた。
いつも仕事で使っているシステムの見慣れた画面が、最小限の照明しかつけられていない薄暗いオフィスでひっそり寂しく点いている。
ここは経理部で、私は経理担当なんだからシステムで経費を処理するのは当たり前ではある。
でも……でも…………。
「なんで、何か月も前の交通費やら経費やら出してくるのよぉぉぉぉ。しかも、三十件も? 何考えてんの? 忙しくて精算する時間がなかった? 来月、友達の海外結婚式で金が要るから次の給料日に間に合うようにちゃっちゃと精算してくれ? ふざけるなー!!」
なにもかも放り出したい気分でバンザイしつつ悲痛な声をあげると、自分しか残っていないオフィスにはやけに声がよく通った。
でも、慰めてくれる同僚も、労ってくれる上司もいない。みんな、私を置いて帰ったから。
どっと湧き上がってくる疲労感の中に沈み込みそうになりながら、職場のデスクに突っ伏した。
うう、今日は金曜なのに。
しかも今日は同期のみんなと女子会する約束してたってのに。
退勤直後にいそいそと帰り支度をしていたら、営業部の人がひょっこり経理部に現れたのを見たときは嫌な予感がしたんだよな。彼は大きな茶封筒を抱きかかえていた。案の定、中にはぎっしりと領収書。
それを見て、一緒に女子会にいく予定だった同期たちも「頑張ってね……」とかなんとか引きつった笑顔のまま、私一人を残してそそくさと帰って行ってしまったっけ。
あーあ、最悪の週末だ。
しかもこんだけ頑張って処理しても、終電までに終わりそうな気配がない。
でも、来月の給料に反映させようと思ったら今度の月曜日までに入力を終わらせなきゃ行けないのだ。そのうえ、この一年の間に料金改定した交通機関はあるわ、詳細の不明な飲食代はあるわ……。飛行機での、地方出張の領収書まであった。なんでこんな高級旅館に泊まってんだ、こいつ。無理だ。この土日も出勤しないと絶対無理だ。
「私が何したって言うのよ-」
はぁ、ため息しか出ない。
ふいに、なんだか急にむなしさが湧いてくる。
これまで、特筆するようなこともなく、目立つこともせずに平凡に生きてきた。
普通に大学の商学部を出て、普通に就職して、簿記の資格を持っていたことで経理部に配属になった。
特段反抗することもなく、波風立てることもなく。
就職してからはただひたすらに、領収書を処理する日々。
このまま平凡に結婚して平凡に子ども産んで老いていくんだろうなぁと思っていたのに、それが平凡な自分には案外ハードルが高いことだと薄々気付き始めたのは、二十七の誕生日を過ぎた最近になってのことだ。
合コンにも何度か出てみたけれど、ああいうお互い値踏みしあっているようなギラギラした雰囲気はどうも自分には合わなかった。
街コンにも友人に誘われて参加してみたけれど、結局仲よくなった女性たちと楽しくお酒を飲んで終わってしまった。あれはあれで楽しかったけど。
そろそろ婚活サイトに登録してみようかなとも思うけど、入会金の高さと、知らない人とやり取りをすることへの億劫さで二の足を踏み続けている。
なんだかもうこのままずっとお一人様でもいいかなぁ、なんてことも思い始めてはいるけれど、そうなると、今のこのひたすら伝票や領収書を処理する毎日が定年まで続くことになるんだよなぁ。
それもなんだか、寂しい気もする。
「あーあ……どっちつかずだなぁ、私って……」
平凡に生きるのは、案外難しい。
「どっかの石油王が迎えにきてくれないかなぁ……もういっそ、イケメンに拾われるだけでもいい……どっかにいいイケメンいない……か……な……」
デスクに突っ伏していたら、ついうとうとと眠気が増してくる。やばい、このまま寝てしまったら仕事が……。
頑張って起きようと目を見開いたら、目が乾燥。いてて、最近ドライアイ気味なんだった。乾いた目を潤そうとぎゅっと目を閉じたのを最後に、そのまますーっと溶け込むように意識が遠のいていった。
「やばっ、領収書片付けなきゃ……て……え……?」
うっかり寝ちゃった!
仕事しなきゃ!と、慌てて起き上がろうとして、はたと動きを止める。
あれ? いつのまにディスプレイの壁紙変えたんだっけ?
視線の先では、柔らかな日差しが幾重にも折り重なった枝葉の間から、まだら模様のようにキラキラと輝いている。こんな柔らかな日差しの中で森林浴したら気持ちも身体もリフレッシュするのになぁ。
「て、ちょっと待って。…………ここ、どこ?」
目に見えているのがパソコンのディスプレイなんかじゃないと気がついて、慌てて起き上がる。髪や服についていたものがパラパラと剥がれ落ちた。手に取ってみると、柔らかな落ち葉。いつの間にか、落ち葉が折り重なってフカフカと絨毯みたいになった地面の上に寝転がっていた。
頭上を見ると、背の高い広葉樹が折り重なるように枝葉を伸ばしている。
ここは、まるで森の中のよう。
視線を下げてきょろきょろと周りを見渡してみるも、辺り一面、木々しか見えない。
え……これは、夢なんだろうか……。
それにしては、指に触れる落ち葉も、ひんやりとした空気もやけに実感を伴って感じられる。ここまではっきりした夢を見たのは初めてだ。
さっきまでオフィスの自席で突っ伏していたはずなのに。たしか大量の領収書を前に途方にくれていて……。
「は…………くしゅっ」
なんだか記憶がぼんやりしてるなぁ。それに、ひんやりどころか、段々寒くなってきた。腕に走った鳥肌を撫で、両腕で身体を抱くようにして擦っていると、
グルルルルルルルルルル
何かの低い音がすぐ間近から聞こえてきた。パソコンのファンの音? それともエアコンの室外機? いや、それにしてはハァハァという別の音も一緒に聞こえてくるし。
グルルルルルルルルルル
また、あの音だ。どこから聞こえるんだろう。と、後ろを振り返ってみると、急に視界一面を茶色いモノで覆われた。
茶色く、もさもさとした毛がビッシリ貼りついた、壁のようなものが自分の後ろを塞いでいる。
なにかしら、これ?
さらに、ぽつりと雫のようなものが落ちてきて、おでこにたらっと垂れた。生温くどろっとした雫。
「え…………?」
上から吹きかけられる生臭く暖かな風。
見上げると、いつのまにかそこには巨大な獣の顔があった。熊!?
壁だと思ったのは、巨大な熊の身体だったのだ。熊は黒水晶のような円らな瞳でじっとこちらを見おろしている。ハァハァ吐く白い息が顔に当たる。
「へ…………え? ひゃ、ええええええ!?」
自分のものとは思えないくらい、変な声が出た。
え? 森と熊さんと私?
熊さんは無機質な目でこちらを見つめたまま、
ガァァァォァァァ
喉から咆哮をあげて右手を振り上げた。
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