第25話 女子高生
とある日の夜。
俺は部屋のテーブルで、持ち帰った仕事を片していた。
2学期も中盤に差し掛かった今日この頃。
徐々に気配を現し始めたのは、まごうことなき中間試験。
青春を謳歌する学生にとっての、高く大きな壁となる存在だ。
誰もが試験勉強を嫌い。
誰もが簡単であることを望み。
ただひたすら残された時間だけを、無意味に数え続ける。
そんな日々を、昔の俺も経験した。
故に試験が近づく生徒たちの気持ちもよく理解できる。
しかしだ。
そんなことをしたところで、試験は無くならない。
かと言って逃げ出すかと言われても、そうすることもできない。
なぜなら2学期の成績は、どの学年にとっても大事な成績であるからだ。
1年生の場合。
せっかくの良いスタートダッシュを無駄にすることになる。
2年生の場合。
成績を落とせば、中だるみとバカにされる。
3年生の場合。
進路に大きく影響するので、何があっても落とせない。
それぞれの学年で、それぞれの目標のために戦う。
それが2学期の中間試験というものなのだ。
とはいえ。
辛いのは生徒だけとは限らない。
中間試験をするためには、当然試験問題が必要だ。
そしてそれを作るのは、紛れもなく俺たち教師の役目。
それ故今の時期の教師は、血の滲むような日々を送っている。
普段任されている通常業務に加えて。
試験期間は、試験問題作成の仕事も食い込んでくる。
そのためほとんどの教師は定時ではあがれない。
定時で帰ったとしても、家に持ち帰ってやるのが一般的だ。
そしてそれは、科学教師である俺も例外ではない。
今年度、全学年合わせて5つの担当クラスを持っている俺にとって、定期考査の時期は、年度末の切り替え作業ばりに仕事量が跳ね上がる。
幸い次回の中間試験では、他の化学の教師が1、2年生の試験問題を作ってくれることになっているため、俺が作るのは3年生のみの問題だけで済むが。
仮にこれがひと学年だけじゃなく、全学年の問題を作ることになっていたとしたら、多分俺は今頃、気が狂って舌でも噛みちぎっていたと思う。
そのくらいに今は、大変な時期というわけだ。
間違っても、気の抜いていいような時期じゃない。
「よし、とりあえず表はこれで良いか」
真っ白なB5の紙に、ペンで問題を書き込んでいた俺。
大問3まで進んだところで、ようやく表面の試作ができた。
「あとは大問4と5を裏に……」
今日中に大まかな配置は決めておこう。
そう思って、再びペンを走らせようとしたが。
「ん」
ペンのインクが、どうにも上手く出てこない。
(詰まったのか?)
そう思い、思いっきりペンを振ってみたが。
一向にインクが出てくる気配が見られない。
しばらく別な紙の上で、ぐるぐるしてみてもダメ。
ペン先を軽くテーブルに叩きつけてみてもダメ。
「まさか……」
嫌な予感がして、俺はすぐさまペンの持ち手を回した。
そしてインクがあるはずの中身を取り出してみると。
「インク切れ……マジかよ……」
案の定、黒のインクは底を尽きていた。
これではもう、作業を進めることができない。
「はぁ……勘弁してくれ」
力ないため息が漏れる。
せっかく人がやる気を出していたというのに。
どうしてこう……タイミングが悪いのだろう。
「どうしたの、せんせ」
「ああ、和泉。実はインクが無くなってな」
「インク? もしかしてこれ、次のテスト?」
「あっ、おまっ……!」
和泉にそう言われ、俺は慌てて問題を隠す。
「見ちゃダメだろ……!」
「大丈夫大丈夫。まだなーんにも見てないから」
一応怒ってはみたものの。
和泉は平然とした表情で、ひらひらと手を横に振る。
「本当に見てないだろうな?」
「ほんとほんと。嘘じゃないよ」
「ならまあ……よしとするか」
和泉のことを疑うわけじゃないが。
生徒に問題を見られては、試験の意味がなくなってしまう。
これに関しては、家でやるしかない場合も多々あるし。
一緒に暮らしている以上、今後はより一層気をつけなくては。
「あ、そうそう。晩ご飯の用意できたよー」
「お、もうそんな時間か」
そう言われて時計を見ると、もうすでに20時を回っていた。
今日は和泉のバイトが無く、俺が仕事をしている間にも、進んで家事をこなしてくれていたみたいだ。
「今日はビーフシチューにしてみましたー」
「うほっ、美味そ」
運ばれてきたのは、熱々のビーフシチュー。
食欲をそそる香りの奥には、食べ応えがありそうな牛肉がゴロゴロ。
これにビールを合わせれば、ガッツポーズが出ること間違いなしだ。
「せんせーはご飯どうする?」
「ああ、俺はビール飲むからいらないかな」
「なら後でおにぎりにしとくから、気が向いたら食べてね」
「おう、わかった」
俺は頷いて、奮い立ったように冷蔵庫へ。
今日の朝から育てていた、キンキンのビールを入手して。
食器棚から透明なグラスを出して、元いたテーブルへと戻る。
「今日はコップ使うんだ」
「ああ。泡を盛りたい気分だからな」
「何その気分。全然わからなーい」
「わかってたまるか。これは大人の特権だからな」
誇らしげにそう言い放った瞬間。
小さな声で「私、子供じゃないし」と聞こえた気もしたが。
正直今は、そんな不確定な要素に構っている暇は微塵もない。
カポッ。
このなんとも愛くるしい音。そして縁から流れ出る黄金の滝。
コクコクコク……という音と共に、見る見るうちにグラスを満たす。
そして。
「よし、完璧だ」
7:3で構成されるビールと泡。
これぞまさに黄金比率と、全世界に宣言したいくらいだった。
「それじゃ、いただきます」
「はい、召し上がれー」
そうして和泉とテーブルを囲い。
俺は思いのままビールを喉に流し込む。
「カァァァ!!!!」
これぞ至高にして頂点。
そう思えるほどに、仕事後のビールは最高だった。
* * *
「ねえせんせー」
「ん」
350mlの缶を1本飲み干した頃。
和泉は茶碗を持ちながら、ボソッとそう呟いた。
「この前あげた映画のチケットなんだけど」
「……!?」
そして何を言うのかと思えば。
口にしたのは、まさかまさかの映画の話。
「もしかして皐月せんせーと一緒に観に行った?」
「……ごほっ……ごほっ……」
しかも全てを見透かしたように、そう言うのだ。
これには俺も、不意を突かれて咳き込んでしまった。
「やっぱりそうだったんだ」
「いや、違うぞ。そういうんじゃなくてだな……」
露骨にムッとした表情を浮かべる和泉。
その威圧的な態度に、俺は思わず後ずさりする。
気づけば額からは、冷や汗と思われる液体が流れ。
心臓の鼓動も、明らかに正常とは思えないほど激しい。
(てかなんで知ってんだよ……)
近所の映画館だったとはいえ。
その場を見られてしまったとも思えないし。
仮に見られたとしても、さほど問題ではないはずなのだが。
「結局せんせーは、皐月せんせー推しなんだ」
なんて言いながらへそを曲げている和泉がいる以上。
俺とて気にせず晩酌を続けるわけにはいかなかった。
「推しってなんだよ。アイドルじゃないんだから」
「せんせーはアイドルが好きなの?」
「好きじゃない。むしろ知らん」
学生時代に、アイドル好きの知り合いがいたせいで、うっかり推しという単語に反応してしまったが、断じて俺は、アイドルが好きというわけではない。
「じゃあやっぱり皐月せんせーが良いの?」
「はぁ……」
残念ながらそれも違う……と思う。
確かに音無先生は、若くて美人ではあるが。
だからと言って好きかと言われたら、多分違う。
「俺と音無先生は、ただの仕事仲間だ。それ以上でもそれ以下でもない」
「でも映画は一緒に行ったんでしょ?」
「それはまあ……そうだな」
「ふーん」
鼻を鳴らした和泉は、訝しげな視線を送ってくる。
あれは明らかに納得できていない時の顔だ。
「なんだよその顔は……」
「別にー」
俺が指摘すると、和泉は不機嫌そうにシチューをパクリ。
そっぽを向きながら、もぐもぐ! と乱暴目な咀嚼をする。
(そんなに怒ることか?)
なんて、俺が不思議に思っていると。
不意に和泉は、シチューをゴックン! と飲み込んで。
「たださー、せんせーさー。チケットあげたのにさー、私には何もくれないからさー、それはどうかと思ってさー」
変わらずそっぽを向きながら、俺に向けてそう言ったのだ。
「ん、何か欲しかったのか?」
「別にー。そう言うわけじゃないけどさー」
「じゃあなんだよ……」
思わずツッコミを入れる。
何もくれないって自分で言ったのに。
何か欲しいのか? って聞くと、『別にー』って。
本当に女子高生という生き物はわからん。
まるで別世界の何かと会話している気分だ。
「でもさー、皐月せんせーとは映画行くしさー。私だけ何もしてもらえないのはさー、ちょっとずるいなーって思ってさー」
「まあ確かに。チケットくれたのは和泉だしな」
「それは別に良いんだけどさー」
「いや良いのかよ……よくわからん」
全く気持ちが理解できず、俺は思わず嘆息する。
しかし和泉はいつまでたっても不機嫌なようで。
ぶすっとした表情のまま、お皿に盛られたビーフシチューを、スプーンでぐるぐるとかき混ぜていた。
「結局お前は俺にどうして欲しいんだ」
そんな現状に我慢ならず、俺は率直に尋ねてみた。
するとぐるぐるしていた和泉の手がピタッと止まり。
「じゃあさ」
俺のことをビシッと指差してくる。
「今度私と買い物行こ」
「……はっ!?」
「買い物?」
「うん、買い物」
「俺と和泉が2人でか?」
「そう」
一体何を言われるのかと身構えれば。
あろうことか和泉は、俺と買い物に行きたいと言い出したのだ。
「待て待て……なんで突然そんな話になる」
「だってせんせーが『俺にどうして欲しいんだ』って言うから」
「だとしても。買い物はちょっとまずくないか?」
「どうして?」
「ほら、一応俺たち教師と生徒だろ」
動揺混じりに俺が言うと。
和泉は「ああー」と納得したような声を漏らした。
しかし。
「別に買い物くらい大丈夫じゃない?」
と、すぐさま考えを改める。
その安心は一体どこから出てくるのか。
俺は心底不思議で仕方がなかった。
「せんせーが心配してるのってさ、買い物中にうちの高校の誰かに会うことでしょ?」
「まあ、端的に言えばそうだな」
「それなら多分大丈夫だよ。だって私が行こうとしてるところ、うちの高校の人はほとんど行かない場所だもん」
すると和泉は、不意にケータイを手に取った。
と思ったら、何やら高速で指を動かし始める。
「ほら、せんせーこれ見て」
「ん」
そしてほんの数秒足らず。
黙って待っていた俺に、その画面を見せてきた。
「なになに。アウトレット幕張……幕張!?」
「うん、幕張」
するとそこに表示されていたのは。
とあるアウトレットのホームページ。
しかもその場所は、千葉の幕張だった。
「幕張って……ここからだと随分かかるぞ」
「それも調べたけど、電車で1時間くらいだって」
「マジかよ。1時間で幕張まで行けるのかよ」
てっきり2時間くらいかかるかと思った。
どうやら俺の想像以上に、日本の交通機関は優秀らしい。
「にしても幕張って。もっと近くにその手の場所はいくらでもあるだろ」
「だから言ったじゃん。うちの高校の人はほとんど行かない場所だって」
「あー、なるほど……そういう」
確かに幕張なら、学校関係者と会うことはまずない。
俺と和泉で買い物するなら、これ以上にない絶好の場所ではある。
だが。
「でもいいのかよ」
「え、何が?」
「ほら、俺と買い物に行ったって楽しくないだろ?」
年頃の和泉が、30近いおじさんと買い物だなんて。
普通に考えれば、和泉にとっての利点は何もないはず。
「友達と行った方がいいんじゃないのか?」
だったら友達と、近場に買い物に行く方がよっぽどいい。
趣味も近いだろうし、高校生同士だからできることもあるだろうから。
と、俺は思ったのだが。
「いいの。私はせんせーと買い物に行きたいんだから」
あろうことか和泉は、一切の躊躇なくそう言ったのだ。
そう言われたからには、俺とて何も口出しすることはできない。
「それともせんせーは、私と買い物に行くのが嫌なの?」
「んん…………」
一緒に行くのが嫌なのかと聞かれると。
聞かれる側としても、少しばかり胸が痛くなるもの。
故に『そんなことない』と、言うしかなくなってしまう。
「別にそういうわけではないが……」
「なら決まりね」
案の定、俺がそう言った瞬間。
和泉は『待ってました』と言わんばかりの笑みを浮かべた。
「それじゃ明日、一緒に幕張にいこー!」
「はぁ……」
上手くやられた。
と、俺も諦めるしかない。
明日は1日休みだから、仕事の続きをしようと思っていたのだが。
行く気満々の和泉がいる手前、今更それを口にすることはできなかった。
(ほんと、女子高生ってのは……)
こういう駆け引きに関しては、侮れないものがある。
俺は今日、女子高生に関する認識を改めたのだった。
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