第22話 気遣い

「ただいま」

「おかえり、せんせ」


 俺が玄関を開けると。

 部屋着姿の和泉が浴室からひょこっと顔を出した。

 よく見るとその手には、洗剤とスポンジが握られている。


「風呂掃除ご苦労さん」

「せんせーこそ、お勤めご苦労様ですっ」


 ニコッと笑う和泉に、俺は小さく微笑む。

 玄関で靴を脱いでは、顔を出す和泉の元へ行き。

 頭にポンと優しく手を置いて、部屋に鞄を置いた。


「夜ご飯は食べたのか?」

「うん、肉じゃが作ってみた。せんせーの分も残してあるよ」

「そうか。それじゃ明日にでも頂こうかな」


 そんな平凡な会話を交わす俺たちは、まるで夫婦のよう……。

 だなんて一瞬考えてしまうほど、随分とこの生活も定着した。


 とりあえずは着替えから先に済ませよう。

 そう思い、俺がおもむろにジャケットを脱ぐと。

 和泉は自然と浴室に顔を引っ込めてくれた。


 そして何事もなかったかのように、風呂掃除を再開する。

 あの子はいつも、こうした気遣いを俺にしてくれるのだ。


 俺は手早くスーツを脱いで。

 用意されていた部屋着を手に取る。


「洗ってくれたのか」


 綺麗に畳まれていたそれは、なんと洗濯済みだった。

 今日朝一で洗濯機を回していたから、その時洗ってくれたのだろう。

 こうして家事を率先してやってもらえるのは、本当に有難いことだ。


「和泉らしいな」


 嬉しさ混じりにそう呟いては、スーツをハンガーに掛け。

 消臭剤を数回吹きかけた後、クローゼットの中にしまう。


「もうお風呂入れるけど、せんせー先入る?」


 その頃になると、和泉の風呂掃除も終わっていた。

 浴室からひょっこり顔を出して、いつも通りそう聞いてくる。


「いや、和泉から先入っちゃえ」


 だから俺も、いつも通り答える。

 おじさんの後に入るのは嫌だろう。

 俺なりの些細な気遣いの一つだった。


「もしかしてせんせー」


 すると和泉は、悪戯な笑みを浮かべ。


「私が入った後の残り湯を堪能したいのかなー?」


 なんて、くだらない冗談を言ってきた。

 こればかりは流石に、いつも通りではなかった。


「あのな……俺はお前の中で一体どんなイメージなんだよ」

「あははっ、せんせー怒ったー」

「いや……怒っては……」


 俺を軽くおちょくった後。

 和泉は「逃げろー!」と言いながら、浴室の中に消えていく。


「まったく……」


 1人部屋に残された俺は、ため息をついて。

 よっこいしょのリズムで、クッションの上に腰掛ける。


「にしても。ほんと過ごしやすくなったよな」


 最初こそ、お互いに気を張りあっていた俺たちだが。

 最近になって、ようやくその辺りの隔たりが無くなったと思う。


 なんだかんだ言って和泉は、俺を頼ってくれるようになったし。

 俺だって最近は、任せられることは和泉に任せるようにしている。


 そうなれたのはきっと、お互いのことを理解し合っているから。

 気を遣われることが、良い意味で当たり前になってきているから。


 誰かと一緒に暮らすことを想像すらしていなかった頃に比べると、これは相当大きな進歩と言える。

 そしてこの進歩は、俺たちのことを必ず良い方向に導いてくれると俺は思う。




 * * *




「そういえばせんせー」


 お互い入浴を済ませ、俺がテーブルでPCを眺めていると。

 隣で寝転がっていた和泉が、不意に何かを差し出してきた。


「これ」

「ん?」


 訳のわからないまま、とりあえずそれを受け取る。

 そして一通り目を通してみると。


「映画のチケットか?」

「うん、今日クラスの子に貰ったの」


 どうやらそれは、映画のチケットのようだった。

 しかも最近よくCMで見かける、今話題の恋愛もののようだ。


「これを俺に渡してどうするんだよ」

「せんせーそういうの好きかなーと思って」

「いやいや……どう考えても無縁だろこれは」


 見当違いな言葉に、俺は思わず嘆息する。


「私そういうのあんまり興味ないから。せんせーにあげるよ」

「あげるよって言われてもな……」


 再びチケットに目を落としては、困り果てた。

 あいにく俺も、こういったジャンルには疎い。

 なんなら和泉の方が、興味を持ちそうな内容だと思うのだが。


(前に気になる人どうこう言ってたしな)


「その友達と観に行けばいいんじゃないのか」

「その子も興味ないんだって。こういう映画」

「今時の女子高生は随分と大人なんだな……」

 

 てっきり誰もが色恋ものを好むのかと思ったが。

 最近の女子高生は、意外とそうでもないらしい。


「とはいえ……俺1人じゃ行けないからなぁ」

「せんせーも誰か誘ってみればいいじゃん?」

「こんなおっさんに誘われる方も嫌だろ……」

「そうかな? 私せんせーとなら観に行くけど」

「はっ……!?」


 思わぬ言葉に、俺は肩を弾ませる。

 動揺した面持ちで和泉に目を向けると。

 含みのある笑みで、悪戯な視線を向けてきていた。


「冗談だよー」

「…………」


 静かに和泉を睨みつける。

 すると和泉は、ケラケラと満足そうに笑っていた。

 いい歳して女子高生にもてあそばれるとか、普通に恥ずい。


「はぁ……教師をからかうな、まったく」

「ごめんごめん。どういう反応するかなと思って」


 嘆息する俺に、和泉はペロッと舌を出して誤魔化す。

 こういった言動は、やはり女子高生なのだと改めて思う。


「とにかく。たまにはせんせーにも癒しは必要でしょ?」

「癒しねぇ……」


 果たして恋愛映画が癒しと呼べるのか。

 すこぶる疑問ではあるが、まあたまにはいいのかもしれない。


 そもそも最近は、映画自体観る機会がなかったし。

 恋人がいない俺にとって、この手の映画はとても新鮮だ。


 教師が生徒に促されて恋愛映画……。

 なんて、少しばかりダメな気もするが。

 せっかくチケットがあるなら、行かないのは勿体無い。


 それに、正直なところ。

 少しだけ興味があったりもする。


 全くもって観たい訳じゃない。

 だが、本当の本当に少しだけ。


「……一応貰っとくか」

「うんうん。貰っちゃって貰っちゃってー」


 このまま悩んでいても埒が明かない。

 そう思った俺は、仕方なく和泉からチケットを受け取った。


 その際の和泉の含みのある表情が少し気になりはしたが。

 反応すればまたバカにされるので、俺は必死に感情を殺した。


 とはいえ。

 多分観には行かないと思う。


 そもそも1人では行けないし。

 冷静になると、俺はすでにおじさん。

 恋愛映画とは、あまりにも無縁すぎる歳なのだ。


(誰かに渡そ……)


 密かにそう思い、俺はチケットを財布にしまった。




 * * *




 翌日の昼休み。

 俺は使わなくなった道具を、北校舎の多目的室に運んでいた。


 まあ多目的室とは言っても、ただの物置部屋。

 大抵の不用品は、決まってこの教室に持ち込まれる。


 そのためいつ見ても、教室の中はめちゃくちゃ。

 進んで掃除をする人もいないため、どこもかしこも埃だらけだ。


「ん」


 そんな汚部屋と化した多目的室を廊下から覗くと。

 真っ暗な教室の中に、他の誰かがいるのがわかった。


(教師か?)


 そう思いつつも俺はドアを開ける。

 ゆらゆらと揺れる人の陰に気を取られつつも。

 壁に手を伝わせて、教室の明かりのスイッチを押した。


「ひゃっ……!!」


 小さな悲鳴が聞こえた。

 ……と思った次の瞬間。


 椅子に乗っていたその人は、突然バランスを崩し。

 そのまま後方に倒れるようにして、椅子から転げ落ちてしまう。


「危ない……!」


 とっさに走り出した俺。

 ガラクタだらけの床を跳ね避けて。

 死に物狂いで、倒れたその身体に手を伸ばす。


(間に合え……!)


 こんなに冷やっとしたのは久しぶり。

 それくらいにタイミングはギリギリだった。


 間一髪、俺の手は倒れてきた身体を支え。

 なんとか無事に、その人を救助することができたのだ。


「大丈夫ですか!?」


 胸に抱えるようにして、なんとか受け止めきった俺。

 慌ててその人の顔を見ると、なんと音無先生だった。


「す、すみません……大丈夫で……」


 脱力している様子の音無先生は、ゆっくりと目を開く。

 そして俺の顔を確認するやいなや。


「……へ、へっ!?」


 突然に目をぱちくりと広げ。

 まるで化け物を見たかのような表情になった。


「わ、渡辺先生!?」


 顔がみるみるうちに赤くなる。

 なぜか身体も発熱して、触れている部分が熱い。


「ど、どうして!?」

「い、いや。私も用事がありまして」


 いきなりの事態に状況を飲み込めていないのか。

 音無先生は、随分と動揺しているように見えた。


「それよりも、お怪我はないですか?」

「は、はい……お陰様で」

「それなら良かったです」


 とりあえず体勢を戻し。

 仰向けの音無先生を、ゆっくりと起こす。


「それにしても驚きました。いきなり倒れられたので」

「す、すみません。どうやらバランスを崩してしまったみたいで」


 あのまま倒れていたら間違い無く大惨事。

 怪我をするだけでは済まなかっただろう。

 何にせよ、音無先生が無事で本当に良かった。


「椅子に登って何をされてたんですか?」

「は、はい。実はあの地球儀を取りたくて」

「地球儀?」


 音無先生の目線の先に、俺も目を向ける。

 するとそこには、棚の上に乗せられた地球儀があった。


「午後の授業で使うんです」

「なるほど」


 音無先生は世界史教師。

 ゆえに地球儀を使うのは、ごくごく自然なことだ。


「先ほど他の世界史の先生に、この教室にあることを教えていただいたのですが、どうにも高くて……」

「確かにあの高さは、先生の身長だと厳しいですね……」


 棚の上に積まれた古本の更に上。

 あれじゃ椅子を使っても、取るのは相当困難だ。

 逆にどうやってあそこに乗せたのか、不思議で仕方がない。


「ちょっと待っててください」

「……えっ?」


 しかし、俺ならギリギリ届く気がする。

 音無先生が先ほど使っていた椅子に乗って。

 曲がりきった猫背を、限界まで上に伸ばす。


「……っしょと。よし、届、いたっ……」


 すると、何とか地球儀を取ることに成功。

 それと同時に、背中に不自然な痛みが走る。


(……せ、背骨が……)


 明らかに歳だった。

 しかし、それを音無先生に悟られるわけにはいかない。


「ど、どうぞ……」

「す、すみません。ありがとうございます」

「いえいえ……これくらいなんてこと……」


 引きつりそうな表情を必死に堪え。

 無事地球儀を音無先生に渡すことができた。


(しかし……なんであんなところに……)


 実際に取ってみると、なおさら謎だった。

 確かに地球儀は、そう頻繁に使う道具ではないが。

 それでももう少し優しい場所に置いてくれてもいいと思う。


「木村先生だな……」


 なんて、小声で怒りを漏らしては。

 使った椅子を、元あった場所へと戻す。


「ふぅ、とりあえずこれで大丈夫ですかね」

「はい。本当にありがとうございました」


 ぺこりとお辞儀をする音無先生。

 俺は数秒背伸びしただけでもキツイのに。

 ずっと頑張っていただろう先生は、まだピンピンしているよう。


(若いな、本当……)


 俺も音無先生くらい若い頃は……。

 なんて、老いぼれみたいなことを思いつつ。

 今度は自分が持ってきた道具を、邪魔にならない場所に片付ける。


「あ、そうだ」


 その瞬間、ふと思いついた。


「確か財布に」


 懐から財布を出し、つかさず中身を探る。

 そしてお札の間に挟めていた、とある物を取り出した。


「あの、音無先生。これ、もしよろしければ」

「……へっ?」


 俺が差し出したそれを見て、音無先生は目を丸くする。


「映画のチケット……?」

「はい、昨日知り合いに貰いまして」


 俺が取り出したのは、映画のチケット。

 昨日和泉に貰った、今流行りの恋愛ものだった。


「あいにく私には無縁の品でして。もし宜しければ」

「これ……今すごく話題になってる作品ですよね?」

「はい。先生はこういうのお好きではなかったですか?」

「い、いえ! 全然そんなことはないんですけど……」


 音無先生は、手にしたチケットをまじまじと見つめる。

 やはりお若いだけあって、この作品に興味があるのだろうか。


「本当に頂いてもいいんですか?」

「もちろんです。こいつもきっとそれを望んでますよ」


 1人寂しく俺が観るより、そっちの方がよっぽどいい。

 それに映画だって、興味のない奴に観られるのは嫌だろう。


「それじゃ、有難く頂戴しますね」


 そう言うと音無先生は、チケットを綺麗に畳んだ。

 そして懐にしまおうとしたところで。


「……あっ」


 ピタッと動きが止まった。


「どうかされましたか?」

「い、いえ……その……」


 そして不意に目を泳がせては。

 モジモジと手を遊ばせながら、こう言った。


「もし宜しければ、ご一緒しませんか?」

「……へっ?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る