第21話 想い

 とある平日の仕事終わり。

 私は意を決して、渡辺先生をお食事に誘った。


『あの、渡辺先生』


 放課後の職員室で声をかけた時は、すごく緊張した。

 心臓が飛び出そうなくらい、胸のドキドキが止まらなかった。


『はい、どうされました?』


 振り返った先生の顔を見ると、上手く言葉が出てこなくて。

 私は思わず、その場から逃げ出してしまいそうだった。


 でも——。


『も、もしよろしければ、この後お食事でも』


 あの時ちゃんと言葉にできたから。

 今こうして一緒にいることができる。


 あの時ちゃんと逃げなかったから。

 今こうして、渡辺先生の顔を見ていられる。


 そう思うと、なんだか嬉しくて。

 顔がだんだん熱くなってくる気がして。

 渡辺先生の方を、まっすぐ見つめることができない。


 どんな話をしたら渡辺先生は喜んでくれるかな。

 どうしたらもっと渡辺先生との距離を縮められるかな。


 そんなことばかりを考えて、考えて、考え続けて。

 今の私には、食事をするような余裕すらも有りはしなかった。





「……先生。音無先生」

「……は、はいっ!」


 ハッとして顔を上げると、渡辺先生と目が合った。

 先生は心配そうにしながら、私の様子を伺っている。


「お水、頼んでおきますか?」

「い、いいえ。私は大丈夫ですので」

「そうですか? それならいいんですが」


 顔がとろけちゃいそうなくらい熱い。

 頭がぽわぽわして来て、今にも倒れてしまいそう。

 それくらいに今の私は、平常心ではいられなかった。


(まだ、一杯目だよね?)


 酔っているのかとも思ったけど。

 私の目の前には、まだ一杯目のレモンサワーが半分くらい残ってる。

 お酒に弱い私でも、流石にこんなに早く酔ってしまうはずはない。


(なら……やっぱり私意識して……)


 そう思って渡辺先生の顔をちらり。

 すると不意に目が合って、優しい笑みで返される。


「……っこいい」


 抑えても抑えても抑えきれないくらい、顔が熱くなる。

 口を閉じて一生懸命力を入れてるけど、口元の緩みが治らない。

 私の気持ちが先生にバレているかもしれないと思うと、恥ずかしくて仕方がなかった。


(何でこんなに意識しちゃってるの私……)


 いつもなら、まだ気持ちを抑えられていた。

 渡辺先生を前にしても、なんとか平常心を保ててた。


 なのに今日は、全然気持ちが落ち着かない。

 胸のドキドキがずっとずっと止まらないし。

 先生のことがいつもよりも素敵に見えてしまう。


 どうしてなの?

 どうして今日の私はこう……浮ついているの?

 自分から誘ったんだから、もっとしっかりしないとなのに。


「あの、音無先生?」

「……は、はいっ」

「もしかして具合でも悪いですか?」

「えっ、あっ、いや、そんなことは……」


 ほら、渡辺先生が戸惑ってる。

 私がこんな感じだから、居心地だって悪いんだきっと。

 もっと……もっとしっかり先生の目を見て話をしないと。


「あ、あの。渡辺先生は、恋人とかいらっしゃいますか?」

「……へっ?」

「……へっ?」


 渡辺先生の動きがピタリと止まる。

 つられて私の動きもピタリと止まる。


「あれ、今私なんて……?」


 ひやりとして、今の言葉を思い返してみれば。

 自分がとんでもないことを口にしたことに気づかされる。


「……!?」


 顔が焼けるくらいに熱くなる。

 思考がぼやけるほどに困惑して。

 恥ずかしさのあまり、気づけば私は身を乗り出していた。


「す、すみません! 今のは何というか……無意識で……!」


 でも、もう遅かった。

 肝心の渡辺先生は、とても気まずそうに苦笑い。

 身を乗り出した私を見て、露骨に顔を引きつらせていた。


(死にたい……)


 切実にそう思った。

 恥ずかしすぎて、今にも落ちてしまいそう。

 いっそこのまま天に召されてしまいたかった。


「と、とりあえず落ち着きましょう……」

「……は、はい」


 おまけに渡辺先生になだめられる始末。

 私はもう、何も言えず着席するしかない。

 本当に恥ずかしい。


「えっと、何か飲まれますか?」

「……い、いえ。私はもう……」


 怖くて、渡辺先生の方を見れない。

 恥ずかしくて、もう顔を上げられない。


 多分今の私、相当酷い顔してると思う。

 こんな顔見られたら、なおさら先生に引かれる。

 そうなったらもう……立ち直れる自信がなくなっちゃう。


(なんであんなこと聞いちゃったんだろ……)


 思い返しても、少し前の自分の気持ちがわからない。

 そういう話の流れでもなかったし、本当にただの無意識だったから。


 でも無意識でそんなこと聞いちゃうなんて。

 もしかして今日の私はおかしいのかもしれない。

 いや、かもしれないじゃなくて、多分おかしいんだ。


 その後私たちの間には、しばらくの沈黙が続いた。

 私は俯けた顔を、もう二度と上げることはできなくて。

 きっと渡辺先生を更に困らせてしまっていたと思う。


 でも——。


「音無先生」


 沈黙を経て、渡辺先生は私の名前を呼んでくれた。

 突然のことに少し驚きつつも、勇気を振り絞って顔を上げると。

 先生は何事もなかったかのように、普段通りの表情を浮かべていた。


「さっきの質問の答えなんですが」


 そして少し照れ臭そうにしては。


「私には恋人と呼べるような相手はいません」


 と、はっきりとそう言ったのだ。


「渡辺先生には恋人がいない……?」

「はい、お恥ずかしい話ですが」


 思わず繰り返してしまった私。

 渡辺先生は困ったように苦笑いを浮かべる。


「もういい歳なのに、情けないですよね」


 あはは、と笑ってみせる先生。

 一瞬何が起こったのかわからなかったけど。

 すぐに正気を取り戻して、私はその言葉を否定した。


「全然そんなことはないと思います! 私も恋人いないですし!」


 なんだか余計な一言まで追加した気がするけど。

 渡辺先生が情けない人だって、今まで一度も思ったことはない。


「あ、ありがとうございます。音無先生」


 すると渡辺先生は、一瞬戸惑い顔を浮かべたが。

 すぐさま表情を笑顔に変えて、


「でも音無先生は、私なんかよりも十分素敵ですから」

「……えっ!?」


 と、思わぬ不意打ちを仕掛けてきたのだった。




 * * *




「音無先生。今日もありがとうございました」


 お店を出ると、渡辺先生は私にお辞儀をした。

 その紳士的な態度が、いつにも増して素敵に見えて。

 挨拶を忘れてしまうほどに、私は見惚れてしまっていた。


「……わっ、私の方こそ、いつもご一緒していただいて」


 ハッと正気を取り戻して、慌ててお礼を述べる。

 すると先生は、流れるようにちらっと時計を確認し。


「それじゃ今日もお開きにしましょうか」


 と、解散を告げる言葉を一つ。

 私もそれに頷いて、今日の食事の場は解散となった。


「帰り、お気をつけて」


 そんな優しい言葉を残し、先生は歩き去っていく。

 その背中を見ていると、なぜだがとても寂しくて。

 もう一度今日をやり直したいって、考えてしまうほど。


(このまま家に誘わなきゃ)


 ずっと渡辺先生と一緒にいたい。

 その想いからか、私らしくない思考も浮かんでくる。

 でもそれを言葉にすることは、今の私では叶わなかった。


「また私、何もできなかった……」

 

 苦々しい感情だけが残ってしまう。

 いつもと変わらず、私はダメダメだったって。

 きっと今日も、家に帰ったら落ち込んじゃうと思う。


 でも——。


『先生は、私なんかよりも十分素敵ですから』


 あの言葉を思い出すと、心がほっこりした。

 嬉しくて嬉しくてたまらなくて、顔に熱が登った。


「初めて……かも……」


 この感覚はきっとそう。

 ずっと前から気付いてはいたけど。

 今日改めて、実感させられてしまった。


 これは多分私の初恋。

 私は渡辺先生のことが”好き”なんだと思う。

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