第16話 玩具

 ”朝ご飯、美味しかったぞ”


 せんせーは、確かにそう言ってくれた。

 他のせんせー達もいたから、声には出さなかったけど。

 優しい目や、鼻や、口を見ていれば、それははっきりと伝わった。


 嬉しい。

 心から素直にそう思えた。


 嬉しくて嬉しくてたまらなくて。

 胸のあたりがドキドキって波打ったりもして。

 私は一言『ありがとう』とせんせーに伝えた。


(ああ、なんて幸せな時間なんだろう)


 せんせーといると、いつも私は思ってる。

 こんなに優しくしてもらっていいのかな。

 こんなに心が温かくなってもいいのかな。

 そうやって幸せを噛み締めてる。


 そして今日は、そんな幸せな時間がまだまだ続く。

 この後は急いで電車に乗って、佐伯さんのお店でアルバイト。

 お客さんの笑顔やありがとうの言葉を、たくさん感じられる。


 だから私も精一杯、みんなのために頑張るんだ。

 お客さんの笑顔のために。佐伯さんの笑顔のために。

 そしてせんせーの、笑顔のために——。


「よしっ」


 私は両手で頬を叩き、下駄箱を開けた。

 中から靴を取り出して、パタンと床に置く。


「なあ美羽」


 すると突然、後ろから名前を呼ばれた。

 私は靴を履く手を止めて、屈んだまま振り返ると。


「み、三浦くん……」


 そこにいたのは……同じクラスの三浦くんだった。

 彼はだらしなくシャツを出し、微笑み混じりに私を見下ろしている。


「ちょっと話あんだけどさ」

「は、話って何かな……?」


 そう言っては、私の元に歩み寄って来る。

 そんな彼の耳には、小さめのピアスが付けられていた。

 アクセサリー類禁止のうちの学校では、歴とした校則違反だ。


「いやー、そんな大した内容じゃないんだけどさ」


 不気味に微笑む三浦くんは、私の隣に並んだ。

 そしてしゃがんでいる私の耳元に、こんな言葉を残す。


「最近我慢できないんだよね、俺」


 何を言ってるのか……。

 何を言ってるのかわからなかった。

 わかりたいとすらも思わなかった。


 ただ全身に寒気が走り。

 底知れぬ嫌悪感を感じさせられる。


 ”気持ちが悪い”


 切実にそう思った。

 彼の吐息が耳に触れる。

 その瞬間が嫌で嫌で仕方がなかった。


「どう、今日暇?」


 そして彼は、続けてそう尋ねてくる。

 なので私は、彼を振り払うように言った。


「ごめん。私今日バイトだから」

「バイト? 美羽ってバイトしてたっけ?」

「うん、最近始めたの。だから今日は暇じゃない」


 三浦くんには、私のことを何も教えていない。

 だから彼は、きっと私のことを勘違いしている。

 いつでも都合良く使える、融通の利く”玩具”だって。


「そっか、そりゃ残念」


 そんな声を漏らしては、私に近づけていた顔を引いた。

 今まですごく嫌だったので、これでようやく落ち着ける。

 このままどこかへ行ってくれたら、私としてはもっと嬉しい。


「ならさ、バイト先教えてよ」

「えっ……?」


 でも、私の思い通りにはならない。

 むしろ今度は、一番聞かれたくないことを聞かれた。

 私の隣にしゃがみ込んで、上っ面だけの不気味な笑顔で。


「今日バイト何時まで?」

「な、何時までって言われても」

「俺、迎行くからさ。教えてよ」

 

 ただただ気持ちが悪かった。

 彼の言葉、行動、表情、その全てが。


(帰りたい……)


 そう思ってる私のことを気にもせず。

 ただひたすらに自分の用件だけをぶつけてくる。

 それはまるで、あの仕事をしていた時のお客さんのよう。


「なあ、教えろって」


 それが嫌で嫌で仕方がなくて。

 振り払いたいけど、そうもいかなくて。

 私はただ、黙って耐え凌ぐことしかできなかった。


 そう、少し前の私は——。


「おっ、やっと教えてくれる気になった?」


 靴を履き終わり立ち上がると、三浦くんの表情は綻んだ。

 でも、あいにく私にはそんなつもり更々ない。


「ごめん。もう三浦くんとの時間は作れないから」

「……はっ? お前金に困ってるんじゃないの?」

「もうそういうのはやめたから。ごめんね」


 きっぱりとそう言い切って振り返る。

 その時横目で見た彼の顔は、とても傑作だった。


 まるで意表を突かれた猛獣のような。

 おバカ丸出しの、とっても笑える表情。


(バーカ)


 心で呟いて、私はその場を去る。

 もう君と話すことはない、って。

 そんな雰囲気を出しながら、私は昇降口を出ようとした。


 でも——。


「写真」

「……えっ?」

「もし言うこと聞かないなら、あの写真ばら撒くけど」

「……!?」


 その言葉で、私は歩き去るのをやめた。

 ううん、正しくはやめるしかなかった。


「写真って……」


 胸の奥底から、不安が浮かび上がってくる。

 まさか……まさかあの時の写真がまだ……。

 まだ彼が所持しているとしたら……私……。


「ほらよ」


 そして提示されたケータイを見て。

 私の頭の中は真っ白になった。


(この写真って……)


 思い出したくもない過去が次々と蘇ってくる。

 頭が破裂しそうなほど痛んで、息ができないほどに絶望して。

 そしてようやく……この写真のことを、鮮明に思い出した。

 思い……出してしまった。


「お前の裸、ばら撒いてやってもいいんだぜ?」


 脅すようにそう言ってくる彼。

 その言葉を聞いた瞬間、一気に身体の力が抜けた。


 立っていることもままならないほどに脱力し。

 やがて私は、砂で汚れた床に力なく落ち伏せた。


 彼が提示したその写真。

 そこに写っていたのは、紛れもなく私だった。

 しかも……服は着ていない。


 下着も着用しているのは下だけで。

 上はもう、誰がどう見ても裸だった。


 そんなものをなぜ、三浦くんが持っているのか。

 それは私が以前、この写真を彼にお金で売ったからだ。

 

 確か金額は、これ一枚で2万円。

 お金を得るためだけに、私は自分を彼に売ったんだ。


 その時の私はお金に困っていた。

 だから2万円を貰えると聞いて心が揺れた。


 彼もおかずが欲しいと言っていた。

 最近夜がつまらないんだと、深刻そうに話していた。


 なら私が裸の写真を渡せば、お互いに満足できると思った。

 思ってしまったからこんな……こんな馬鹿な真似をしてしまった。


「どうしたよ。いいのかばら撒いて」


 それからというもの。

 何かと彼は、私に構うようになった。

 私の身体を欲するようになった。


 だから私はそれに答えた。

 答えたお礼に、追加でお金を貰った。

 そうやってなんとか、1人で生きてこれた。

 たった1人で、ここまで生きてこれたんだ。


「おい、聞いてんのか美羽」


 誰もいない昇降口に、彼の怒声が鳴り響く。

 放課後の少し遅い時間ということもあり、誰かが駆けつける気配はない。


(なんてゲスな人なの……)


 きっと彼はこの時間を待っていた。

 そして写真で私を脅して、主導権を握る。

 普通に考えたら、最低以外の何者でもなかった。


 でも。


 そんな人に弱みを握らせてしまった。

 何も考えず自分を売り渡してしまった。

 あの時の私が……今は一番許せない。


 だから——。


「……うん、聞いてるよ」


 だから私は目を瞑った。

 自分の気持ちから目を背けて、彼のことを受け入れた。

 受け入れるしか、私の前に道は残されていなかったから。


「なら、早くバイト先教えろよ」

「……うん。わかった、教える」


 そうして私は、言われるがままに全てを答えた。

 お店の名前、場所、バイトが終わる時間、その全てを。


 嘘をつこうかとも思ったけど。

 どうせバレると思ったからやめた。

 彼は意外と、そういうところに鋭いから。


「そんじゃ後で店行くからな」


 そう言って去り行く彼を、私は遠い目で見送る。

 もう二度と会いたくないとか、そんな感情すら浮かばなかった。


 残された私は、ただただ孤独で。

 誰かに利用されるだけの玩具でしかない。

 愚か者の私にふさわしい、相応の結末だと思った。


 ごめんね、せんせー。

 やっぱり私、普通の女の子にはなれないみたい。

 ドロドロに汚れた日常で、1人で生きていくしかないみたい。


 でもそれは全部私のせいだから。

 せんせーが気にする必要なんてないから。

 責任を感じる必要なんて、これっぽっちもないんだよ。


 私はもうどうなったっていいから。

 どんなことが起きても、もう覚悟はできてるから。

 だからせんせーは何も気にせず、自分のために生きて。


 もし今一つだけ願いが叶うとするなら。

 私は迷わず、せんせーの幸せを願うよ。


 せんせーにだけは、笑顔で生きてもらえますようにって。

 私頑張って神様にお願いしてみるからさ。


「……だからせんせ」


 せんせーの辛い顔、もう見たくないや。

 私のことはぜーんぶ忘れちゃっていい。

 だからこんな想いになるのは……もう。


 私だけで十分なんだ——。

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