第15話 指導方針
翌日の朝。
部屋を漂う良い匂いにつられて、俺は重い瞼を上げた。
「んん……」
ベットから身体を起こし、ゴシゴシと強めに目を擦っては、ぼんやりとした意識のまま、音のする台所の方へと視線を向ける。
「……和泉?」
「あ、せんせ。おはよー」
するとそこに立っていたのは、和泉だった。
和泉は俺が起きたとわかると、にへらと無邪気に笑う。
「何してんだ。こんな朝早くに」
「何って、朝ご飯作ってるんだよ?」
「朝ご飯?」
そう言われてよく見ると。
確かに和泉は、制服の上にエプロンを身に付けていた。
おまけに手にはお玉、鼻を凝らせば出汁のいい香りも漂って来る。
「どうしたんだよ。急に朝ご飯なんて」
驚いた俺は、おもむろにベットから起き上がる。
そして興味を惹かれるように、台所へと急いだ。
「せんせーいつも朝ご飯食べないで学校行くでしょ?」
「まあ、そう言えばそうだな」
「そんなんじゃ元気出ないよ」
「確かに。ぼーっとはするな」
俺は昔から、朝ご飯を食べない生活をしている。
シンプルに朝起きるのが遅いという理由もあるが。
何よりも朝の忙しい時間に、飯を食うのが面倒なのだ。
そのせいでいつも昼前には腹が鳴る。
とはいえ昼飯もがっつり食べるわけじゃない。
学校の購買部で、残り物のパンを適当に1、2個買うだけだ。
「せんせー痩せてるし、ちゃんと食べないと倒れちゃうよ?」
「それを和泉に言われると、なおさら耳が痛いな……」
自分の健康も守れない奴に、生徒は守れない。
そんなことを言われてる気がして、俺は思わず苦笑いする。
「だからこれからは私が朝ご飯を作るよ。そしたら少しはせんせーのためになるでしょ?」
「それはまあ……有難いが。いいのか? それで」
「うん、私せんせーの役に立ちたいから」
そう言うと和泉は、お玉でお鍋を優しくかき混ぜる。
中を覗くと、そこには具材たっぷりの味噌汁が確認できた。
(美味そうだな)
なんて、俺が味噌汁に見とれていると。
「はいっ」
「ん」
口元に小皿が寄せられた。
目をやるとそこには、味噌汁が少しよそわれている。
もしかしてこれは、俺に味見をしろということだろうか。
「熱いからフーフーしてね」
「お、おう」
そう促され、俺は控えめに息を吹きかける。
フー、フー、と味噌汁を冷ましている間、和泉はずっと手を伸ばして、味噌汁の乗った小皿を支えてくれていた。
その構図がなんだか照れくさくて。
胸のあたりに不自然なむず痒さを感じさせられる。
3回ほど息を吹きかけたところで。
和泉は俺の口元に、ゆっくりとお小皿を密着させる。
俺は為す術もなく、流れるままに味噌汁を口に入れた。
「どうかな?」
小首を傾げる和泉に、俺は素直に美味しいと頷く。
すると不安そうだった表情が、パッと明るくなって。
とてもわかりやすく、嬉しさを笑顔に表現していた。
「やっぱり、笑ってる和泉の方がいいな」
「えっ!?」
(あれ……今俺なんて……?)
「……ああいや! なんでもない忘れてくれ」
思わず本音が出てしまい、俺は急いで誤魔化す。
が、気付いた時にはもう、和泉の顔は真っ赤に染まっていた。
それには流石の俺も、ばつが悪くなり視線を逸らすしかない。
(沈黙が痛い……)
しばらく俺たちの間から言葉は消え。
気恥ずかしい沈黙ばかりが漂っている。
目の前の和泉をチラッと見れば。
頬を染めたまま味噌汁をかき混ぜてるし。
さてさて。
これはどう収拾をつけるべきか。
なんて考えているうちに。
どうやら朝ご飯が出来上がったようだ。
「はいっ、せんせ。お味噌汁」
「お、おう」
まずはお椀にたっぷりとお味噌汁をわけてもらい。
「ご飯はどれくらい食べる?」
「そうだな。普通盛りくらいで」
「わかったー、普通盛りねー」
続けてほかほかのご飯をよそってもらうのだが。
明らかに注文した量以上のご飯が茶碗に盛られていく。
「ちょっと多くないか?」
「これが私の普通でーす」
なんて言いながら、いたずら顔を浮かべている和泉。
俺がジト目を向けると、クスクスと意地悪げに笑っていた。
「はーい、普通盛りお待たせしましたー」
「おいおい……どう考えても特盛だろこれ」
「せんせーは痩せてるので、いっぱい食べてください」
「痩せてるからこそこの量はきついだろ……」
ご飯茶碗の上に、立派な富士山が一つ。
朝ご飯でなくとも、これを食べるのはなかなかに大変そうだ。
「おかわりもあるからどんどん食べてね?」
「有難いが、これ以上食べたら胃がパンクする」
一生懸命作ってくれたのはすごく伝わる。
だからこそできるだけ残さないように食べたいが。
正直久々の朝飯で、このご飯の量は、不安しか感じられない。
「とりあえずいただくな」
「うん、召し上がれ」
時間もあまりないので、俺は早速いただくことにした。
右手にご飯、左手に味噌汁を持ち、台所を去ろうとしたが。
ふと言いたいことを思い出し、一歩進んでは立ち止まった。
「悪いな和泉。気を遣わせちゃったみたいで」
「ううん、全然。私料理好きだし、どうってことないよ」
「毎朝は大変だろうから、気が向いた時にまた作ってくれな」
そう伝えて、俺は部屋のテーブルへと急いだ。
両手に抱えていた朝ご飯を置き、箸を取っては、心を込めて手を合わせる。
「いただきます」
こんな温かいご飯を食べるのはいつぶりだろう。
そんなことを思いながら、俺は熱々の味噌汁を啜った。
* * *
「それじゃあ今日は、先週の実験のまとめからやるぞー」
朝一で行われる3年生の科学。
俺が教卓で授業の開始を生徒たちに知らせるが。
全くもってクラスの話し声が治まることはなかった。
それどころか。
禁止なはずのケータイをいじっている生徒がちらほら。
机の裏に隠れて、ピコピコゲームをしている生徒も見受けられる。
(毎度毎度自由な奴らだな……)
いちいち注意するのも面倒なので、とりあえず授業に入る。
しかし授業に入ったとしても、ほとんどの生徒は雑談三昧で。
板書をノートにまとめているのは、全体でもほんの数人だけだった。
「よし、これわかる人ー」
ゲリラ的に質問を投げかけてはみるも。
答えが返ってきた試しは今までに一度もない。
たまには返してもらえないと、俺としても少し寂しい。
とは言え。
答えを強要することはしないようにしている。
無理やり答えさせたところで、何の意味もないからだ。
”意欲のない勉学ほど無駄なものはない”
そんな話を俺が学生の時にされた。
今でも俺は、その通りだと思っている。
ゆえに俺はこいつらを必要以上に注意しない。
いくらうるさくしようが。
授業中にケータイをいじろうが。
本人のやる気の問題だから仕方がいない。
ましてや科学なんて、よっぽどの専門に進まない限りは、将来何の役にも立たないただの予備知識でしかない。
だから無理やり授業を聞かせる気もないし、聞いていないからといって名指しで注意したりもしない。
聞きたい奴だけ聞けばいい。
面白い話だけ興味を持てばいい。
俺は昔からそういう教育方針でやってきた。
まあ普通に考えて、褒められた方針じゃないことは間違いないが。
「よし、とりあえず授業はここまでなー」
俺が終わりを告げた瞬間。
張ってもいなかった緊張の糸が更に緩んだ。
ずっとコソコソしていた雑談の声は、普通の話し声に変わり。
ケータイをいじり始める生徒の姿も、明らかに増えたように感じる。
(まさか他の授業でもこうじゃないだろうな……)
なんて、悲惨な現場に少しの不安を感じつつも。
予定していた通り、生徒に”とある物”の提出を呼びかける。
「先週の実験のレポート集めるぞー。後ろから回せー」
先週の今の時間にやった、アンモニア噴水の実験。
今日はその実験のレポートを提出してもらうことになっている。
「なべさんなべさん!」
「何だ。三浦」
と、ここで。
教室の後ろの方から、俺を呼ぶ声が飛んできた。
手を高々と上げていたのは、活発さが取り柄の三浦。
「レポート家に忘れてきましたー!」
三浦は、何の躊躇もなく大声でそんな告白をする。
その態度からして、忘れたことを悪びれる様子はない。
「三浦……またお前か」
「すいやせーん。やったんですけどー」
「はぁ……」
やったのに忘れた。
その言葉を聞いたのは、これで何度目だろう。
大抵生徒がこう言う時は、持ってきているけどやってない時だ。
「他に忘れた奴いるかー」
まあ別に提出できないのには変わらないから、意味ない嘘なのだが。
とりあえず他の生徒の提出状況を知るべく、俺は一言呼びかけてみた。
すると。
クラスのあちこちで、ちらほら手が上がり始めた。
目視できるだけで、5、6人といったところだろうか。
俺が聞かなかったら、黙っているつもりだったのかもしれない。
(まったく……頼むぞ3年生)
三浦1人だけならまだしも、これは流石に忘れすぎだ。
おそらくこの中には、持ってきている奴もいるのだろう。
だとするなら、お得意のあの作戦を使うのが手っ取り早い。
「待った待った。そんじゃこうしよう」
俺が手を叩くと、プリントを回す手が止まる。
「提出は今日の放課後まで。誰か1人がまとめて俺のところに持ってこい」
そう告げると、ちゃんとやってきた奴らは「えー」と不満を漏らす。
逆にやってきていない奴らは、わかりやすく安堵の表情を浮かべていた。
「忘れた奴は明日までにしっかり仕上げて持ってこいよ」
持ってきたけどやってない奴には、時間の猶予を与える。
忘れてしまった奴には、もう一度提出するチャンスを与える。
こうすることによって、面白いくらいに提出率が飛躍するのだ。
「わかったか、三浦」
「うーっす!」
まあこんな愚策、ほとんどの先生は使わない。
提出期限までに提出できなければ、それはアウト。
社会に出た時の常識として、それは当たり前のことだ。
しかしまあこいつらは、まだまだ子供なわけで。
学生だからこそ許される事実を良く理解してほしい。
社会の厳しさは教師が教えることではなく。
生徒が自身で実感しなきゃいけないものだ。
ゆえに俺は、他の教師みたく口うるさくは言わない。
社会に出た後、一発上司にでも怒られて、その時に実感すればいいのだ。
「よーし、そんじゃ休み時間にしていいぞー」
俺はそう告げて、教室を後にする。
チャイムまでまだ数分あるが、まあこのくらい良しとしてやろう。
* * *
放課後。
「失礼しまーす」
職員室にある第2デスクで、仕事をしていると。
レポートを抱えた和泉が、俺のことを訪ねてきた。
「せんせー、お仕事中すみませーん」
「おう和泉。わざわざすまんな」
「いえいえ。これくらい容易い御用ですよ」
そういって差し出されたレポートを、俺は受け取った。
そしてパラパラと数を確認し、現時点での提出状況を確認する。
「……37、38、39。ん、誰か1人出してないな」
「ああそれ、多分三浦くんだよ」
「あいつ……マジで忘れてやがったのか」
てっきりやってないだけかと思ったが。
まさか学校にすら持ってきていないとは。
流石は三浦と、呆れてやるしかなかった。
「まあ、他が出してるから良しとするか」
あの時集めていたら、もっと悲惨なことになっていた。
やはりこの作戦は、愚策ながらもなかなかの効力を発揮する。
今度からも積極的に使っていくことにしよう。
「ところで和泉」
「ん、どうしたのせんせ」
「お前、三浦と仲良かったりとかするのか?」
「えっ!?」
と、ここで。
和泉の表情が明らかに変化した。
俺は確かな違和感を覚えるも、特に指摘はしない。
「突然どうしたのせんせ!?」
「ああいや。あいつ他の授業でもあんな感じなのかなと思ってな」
「……あ、ああ。なんだそういうことか」
(なんだ……ってどういう意味だ)
違和感が更に大きくなる。
一瞬焦った顔をしたかと思えば。
今度は露骨に安心したようにひと息ついた。
「三浦くんが気を許してるのは、せんせーだけだと思うよ」
しかしそんな思考も、和泉の吐いた言葉で全て流れた。
「せんせーのこと”なべさん”って呼んでるしね」
「やっぱりそうなのか」
「うん、その証拠に他の授業だと普通に真面目だし」
「……あいつめ」
どうやら俺は、間違いなく舐められてるらしい。
他の授業であいつが真面目に受けている姿は想像できないが。
俺だけ教師として見られていないのは、今はっきりとわかった。
「どうしたもんかねぇ……」
頭を抱え、思わずため息をついてしまう。
そんな俺を見て、和泉はクスッと笑いをこぼし。
「せんせーは甘いからなー」
「うぐっ……」
「もっと怒ればいいのに」
「まあ……なんだ。温厚なんだよ、俺は」
なんて情けないことを言いつつも。
内心は、和泉の意見に反論すらできなかった。
俺の教育方針は、明らかに甘い。
どんな綺麗事を言って、自分を正当化しても。
方針が甘いという事実は、誰が見ても同じだ。
時々教頭に言われるように、俺は限りなく生徒に近い。
他の教師と比べて、お互いの間に引くべき一線が薄いのだ。
なんとかしなくては。
そう思って何度か対応を変えてはみたが。
生徒には冗談だと思われ、結局は何も変わらなかった。
だったら別に変える必要もないと思った。
今更俺が変わったところで、生徒に与えるのは戸惑いとストレスだけ。
いっそのこと、今の舐められたままの立場の方がよっぽど生徒のためになる。
「まあ俺は教師だから、いざとなったら怒るさ」
「せんせーの怒った顔、ちょっとだけ見たいかも」
そう言って笑う和泉に、つられて俺も苦笑する。
果たしてそんな時が来るのか、俺にだってよくわからない。
「それじゃせんせ。私帰るね」
「おう、サンキューな和泉」
ニコッと笑顔を浮かべ、和泉は踵を返す。
ひらひらと揺れるその艶やかな黒髪を見て。
俺はふと、今朝言い忘れていたことを思い出した。
「ああそうだ、和泉」
「ん、どうしたの?」
(朝ご飯、美味かったぞ)
「!?」
ここは職員室。
ゆえに声に出すことは
口の形だけで、そう伝えたところ。
どうやら和泉には、ちゃんと伝わったらしく。
照れ臭そうに笑っては、
(ありがとう)
と、同じく口の形で返事をくれたのだった。
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