第13話 歳
時刻は夕方の5時半。
俺にとっては、久々の定時あがりの今日。
駅のホームで帰りの電車を待っていると。
同じく帰宅途中だった音無先生と、偶然にも居合わせた。
「珍しいですね、こんな時間に」
「わ、渡辺先生!?」
横から声をかけると、音無先生は慌てた様子で後ずさり。
そして何を思ったのか、キョロキョロと周りを確認し始めた。
(ひょっとして……俺嫌われてる!?)
とは一瞬思ったものの。
流石にそれはないだろうと、すぐにその思考を払った。
「仕事の方は順調ですか?」
「は、はい。今日はなんとか上手く進みまして」
「なるほど。だから定時で」
いつもは帰りが遅いであろう音無先生だが。
今日はなんとか、定時で仕事を終わらせたらしい。
3年生の担任は大変なのに、本当に立派な先生だ。
「渡辺先生こそ、今日は何かご予定でも?」
「ああいえ。今日はたまたま仕事が早く終わったので。たまには定時帰りもいいかなと」
「そうでしたか。本当に偶然なんですね」
そう呟くと、音無先生は露骨に視線を下げた。
その横顔は、どこか赤らんでいるようにも見えて。
まるで俺と話をするのを、躊躇っているかのようだった。
(やっぱり嫌われてんのかな……)
沈黙が続けば続くほど、俺の中の不安は膨れ上がる。
以前までならこんな空気にはならなかったはずなのだが。
いつからか音無先生は、俺に対してよそよそしくなってしまった。
(そういえばあの時も)
俺はふと、以前食事した時のことを思い出す。
酔ってしまった音無先生を自宅まで送った時のこと。
確かあの時の先生も、今と同じような表情をしていた。
俺を呼び止めて、何かを言いかけていたが。
結局は何を伝えたかったのかわからないまま。
あの時感じた、妙に艶かしい不思議な雰囲気。
それを今の空気からも、どことなく感じられる気がする。
——間も無く電車が参ります。
と、ここで。
ホームいっぱいにアナウンスが響き渡った。
気づけば周りには、電車を待つ人の数も増え。
俺たちの後ろにも、少なからず人が並んでいる。
「意外と混んでますね」
「そ、そうですね」
沈黙を切り裂くように俺は呟く。
すると音無先生も、ようやく俯けていた顔を上げた。
「あ、あの。渡辺先生」
「はい、どうされました?」
ふと俺の名前を口にしたかと思えば。
おもむろに振り返り、上目遣いで俺を見上げる。
「……え、えっと。先生?」
確かな気まずさを感じている中。
音無先生は、振り絞るようにこう言った。
「この後、一緒に食事でもいかがでしょうか?」
「……えっ?」
思いもよらぬ誘い。
俺が不意をつかれたその瞬間。
ホームには勢いよく電車が駆け込んでくる。
その風で音無先生の髪は、きらびやかに揺れ。
控えめに髪を抑えるその姿が、妙に色っぽく感じられた。
「……食事ですか?」
「はい」
小さく頷いた先生の顔は、明らかに紅潮していた。
耳まで赤くなってもなお、俺を見上げるその瞳は綺麗で。
気を抜いたら吸い込まれそうなほど、まっすぐに俺を見つめていた。
「だ、だめでしょうか」
「い、いえ。ぜひ行きましょう」
そんな音無先生の姿勢に負け、俺は大きく頷いた。
すると一瞬だけ、先生の表情がパッと明るくなったが。
気づけばまたすぐに、頬を赤くして顔を背けてしまった。
(何なんだ、この感じ……)
音無先生といると、時より感じるこの雰囲気。
果たしてこれは何なのだろう。
そんなことを考えながら、俺は電車に揺られる。
目的の駅までの間、俺たちの間には何一つ会話は生まれなかった。
* * *
「それでは先生。今日はお疲れ様です」
「お、お疲れ様です」
カコンッ。
グラスがぶつかり合う軽快な音が鳴った。
その音に合わせて、俺は一杯目のビールを勢いよく喉に流し込む。
「……ハァァ」
時刻はまだ午後6時。
少し早めの乾杯ではあるが、変わらずその味は最高だった。
お通しで来ていたポテトサラダも、味が濃厚でお酒に良く合う。
「すみません、何度も食事に誘ってしまって」
音無先生は、控えめにビールを一口飲んで。
何を思ったのか、申し訳なさそうにそう言った。
「いえいえ。私の方は何も問題ありませんので」
「そ、そうですか。それなら良かったのですが」
「それよりも先生。料理、何か頼まれますか?」
「あ、はい。そうですね……」
俺が店のメニューを広げると。
音無先生は、戸惑いながらもそれを眺めた。
「うーん……えっと……」
しかしなかなか決められないようで。
メニューの上で視線を彷徨わせては、困ったように喉を鳴らす。
おそらく先生の性格上、ズバッと決めるのが難しいのだと思う。
「これとかどうでしょう。女性に人気らしいですよ」
「タコアボカドですか。確かに美味しそうですね」
なので俺は幾つか料理を提案することにした。
初めこそ音無先生の好きな物を頼もうと思っていたが。
1人に任せてしまうよりも、こっちの方がよっぽど効率的だ。
「あとはこのピザとか。あ、チーズはお好きですか?」
「は、はい。チーズはとっても好きです」
「ならこれも頼みましょうか」
そうして幾つか料理を決めた後。
俺は店員さんにその内容を伝える。
「すみません、任せっきりになってしまって」
「大丈夫ですよ。こういう場は私の方が慣れてますから」
申し訳なさそうにされても、笑顔で返すのが基本だ。
そもそも音無先生はまだ若いから、仕方がないことだと思う。
「あ、渡辺先生、飲み物のおかわりは」
「そうですね。それじゃ私はスクリュードライバーを」
「す、すくりゅーどらいばー?」
とはいえ、気を配れるのが音無先生の良さで。
俺のグラスがなくなると、すぐさま変えの飲み物を聞いてくれる。
今回に限っては難しい名前のお酒だったので、少し戸惑っているが。
「スクリュードライバーはこれですね」
「な、なるほど、カクテルなんですね」
「そうです。すっきりしてて飲みやすいお酒ですよ」
こうして一から教えるのも、歳上の役目だろう。
ちなみにスクリュードライバーは、ウォッカベースのカクテル。
オレンジジュースと割っているので、度数の割にはかなり飲みやすい。
「あとこれなんかもオススメです」
「カシスオレンジですか。これは聞いたことがあります」
このお酒も、非常に飲みやすくて人気なカクテルだ。
特に音無先生のような、普段はあまりお酒を飲まない人。
そして甘いお酒が好きな人なんかには、奮ってオススメできる。
「どれにしよう……」
一通りオススメを伝えると、音無先生は思案顔を浮かべた。
そして悩んだ末に選んだのは、甘さが売りのカシスオレンジだった。
「すみません。色々と教えていただいてしまって」
「いえいえ。むしろ私の方こそ色々と話し込んでしまって」
「私お酒のことはさっぱりで。何を選んでいいかもわからなくて」
「まだお若いので仕方ないですよ。だんだん慣れていけばいいんです」
「そ、そうですよね。すみません何度も何度も」
こういった場に来ると、やはり音無先生は萎縮してしまう。
それ故にここへ来る前は、普通の飲食店にしようかとも思ったが。
問題を先送りにしてもダメだと思い、俺は意を決してこの店を提案した。
「ところで先生、お顔、少し赤いようですが」
「あ、す、すいません。少し酔ってしまったみたいで……」
「それでしたら、お水も一緒に頼んでおきますね」
「あ、ありがとうございます……」
しかしまあ、一杯目で酔ってしまうのも、若らしくていいと思う。
俺にもそんな頃があったなぁ、なんて昔の頃の自分を思い返しつつ、俺は店員さんに、飲み物のおかわりを注文したのだった。
* * *
2時間ほど飲み食いした後、俺たちは店を出た。
その際音無先生の足取りを注意深く観察していたが。
今日は先日ほど飲んでいないので、十分安定していると言えた。
「それでは先生。またぜひお願いします」
そう伝えて、俺は音無先生と別れる。
その後俺は、普段通り安定した足取りで家までの道を辿り、部屋の前にたどり着いては、財布から鍵を取り出し、玄関の扉を開いた。
「あ、そう言えば。和泉、今日からバイトだったな」
部屋が暗いのを見て、ふとそんなことを思う。
確かシフトは8時までと言っていたから、もうそろそろか。
「今のうち風呂でも洗っとくか」
部屋に荷物をおいては、真っ先に風呂場に向かう。
おそらく疲れて帰って来るだろうし。
あの子が来たら、先に風呂にでも入ってもらうことにしよう。
* * *
俺が家に着いた数分後。
バイト終わりの和泉が、制服姿で帰宅した。
「おう和泉。バイトどうだった」
「う、うん。楽しかったよ、すごく」
「そうか。それは良かった」
と言う割には、和泉の表情はパッとしなかった。
風呂場から顔を出す俺の前をせっせと通過して。
部屋に荷物をおいては、ちょこんと床かに腰を下ろす。
(疲れたのか?)
初出勤だから仕方ないことだろうが。
それにしてもなんだか、和泉の様子が落ち込んで見える。
「あ、そうだせんせ」
「ん、どうかしたか」
「佐伯さんがせんせーにって」
すると和泉は、不意に袋を一つ掲げて見せた。
中には何やら色んな物が入ってそうな予感だが。
確認しなくてはわからないので、俺は手足の水気を拭いて浴室を出た。
「どれどれ。店の余りもんかね」
俺は和泉から袋を受け取り、中を確認する。
するとそこには、余り物とは思えない量の食材たちが詰め込まれていた。
チーズ、ささみ、スナック菓子がそれぞれ2袋ずつ。
そして普通に美味そうな、大きめのタマゴサンドが1パック。
実に佐伯らしい、なんとも気の利いた選出内容だった。
「おいおい。こんなに貰っていいのかよ」
仲の良い佐伯とは言え、流石にこれは申し訳ない。
色々と相談に乗ってもらった上に、こんな施しまでくれるとは。
「このおつまみどうすっかな……」
おそらくは俺に気を遣って入れてくれたのだろうが。
あいにく今日は、音無先生と外で飲んで来てしまった。
(冷蔵庫にでも入れとくか)
コンビニで売っているような、安物でもなさそうだし。
スナック菓子以外は、冷蔵庫で保存が一番無難だろう。
そう思い、俺はスナック菓子のみを袋から出す。
そして残りを袋ごと冷蔵庫にしまおうとすると。
「せんせー、今日はお酒飲まないの?」
その様子を眺めていたであろう和泉が、ぽつりとそう呟いた。
「いや、実は今日はもう飲んで来ちゃったんだよ」
「それってもしかしてうちの高校の先生の誰かと?」
「ま、まあ……そんなところだ」
「ふーん」
的確過ぎて一瞬ドキッとさせられたが。
わざわざ音無先生の名前を出す必要もないだろう。
「そういえば和泉。飯は食ったのか?」
「ううん。まだ食べてないよ」
「ならこのタマゴサンド、お前が食べて良いぞ」
「うん、それじゃ後で貰うね」
話を切り替えるように、俺はそう呟き。
テーブルの上に、タマゴサンドを置きに戻る。
「せんせーってさ、今好きな人とかいないの?」
すると今度は、そんな質問を投げかけてきた。
流石にこれには、俺とて反応せざるを得ない。
「どうしたんだよいきなり」
「別に。ちょっと気になっただけ」
「気になっただけって……若いなお前は」
流石女子高生、と言えるような唐突さ。
生徒に恋愛の話をするのはあまり気が進まないが。
聞かれたからには、それ相応に答えるべきなのだろう。
「まあこのくらいの歳になると、その辺の感覚も鈍っちまうのかもな」
「つまりはいないってこと?」
「さあな。正直今はそんなこと考えてる余裕はない」
「ふーん、そうなんだ」
そうして一度話は流れ。
俺は安堵を覚えて、冷蔵庫に食材たちをしまう。
「皐月せんせーとかさ——」
「……!?」
すると。
不意に音無先生の名前を出され、一瞬たじろぐ。
が、このままじゃまずいと思い、俺はすぐに平静を装った。
「若くて美人で素敵だよね」
「音無先生は確かにそうかもな」
「気になってたりしないの? 皐月せんせーのこと」
「まあ、生徒想いの良い先生だとは思ってるぞ」
なんだか今日は随分と攻めてくるような。
そんな疑問を抱きつつも、俺は気にせずお風呂場へ。
お湯が溜まったかを確認した後、タオルを持って部屋に戻る。
「ほれ、タオル」
「あ、うん。ありがと」
「疲れてるだろうし、先入っちゃえ」
「せんせー先入らなくていいの?」
「ああ、俺は後からでいいよ」
「そっか」
すると和泉は、おもむろにその場を立ち上がる。
そしてタオルと着替えを抱えて、まっすぐ風呂場へと向かった。
(気になる人……ねぇ……)
1人部屋に残った俺は、ふと和泉の言葉を思い返す。
確かに俺は、音無先生との間に独特な空気を感じているが。
それを気になっているからと、断言することはできない。
「俺も若くないな、ほんと」
染み染みとそう思いながらも、俺はタバコを吸いにベランダへ。
どこかへ消え行く白い煙が、今日は一段と虚しく感じられる気がした。
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