第10話 カレー

 私の目の前には、知らないおじさんがいた。

 髪の毛は薄く小太りで、何故か服は着ていなくて。

 私のことを”あかりちゃん”と呼ぶ、全く知らないおじさんが。


『あかりちゃん。胸触ってもいいかな』


 うちとは違う、浴室のような部屋で。

 おじさんは私に向けて、おもむろに手を伸ばしてくる。

 そして抵抗する間も無く、私の身体を好き放題貪った。


 やめて。触らないで。


 必死に訴えかけようとしても、言葉にはならなかった。

 やがておじさんの手つきは、どんどん激しさを増していく。


 あかりちゃん。あかりちゃん。あかりちゃん。


 私ではない、知らない誰かの名前を口にしながら。

 おじさんは容赦することなく、私の全身を舐めまわした。


 怖い。


 恐怖から、思わず私は目を瞑る。

 するとやがて、触れられていた手の感触が消え。

 私の頭の中に、さっきとは別の声でこんな言葉が響いてくる。


『オラ、こっち向け』


 目を開けるとそこには、また知らない男性がいた。

 目つきが悪く金髪で、耳には派手なピヤスをしていて。

 恐怖に怯える私の顔を、大きな手で乱暴に押さえつけてくる。


『キスしろ』

 

 そう呟いた男性は、私に唇を向ける。

 そして躊躇うことなく、私の唇にそれを重ねた。


 苦い。


 舌が絡み合う度に、不自然な苦味を感じた。

 苦くて苦くてたまらなくて、今すぐやめてほしくて。

 抵抗しようとしたけど、私の身体は少しも動いてはくれなかった。


 それはまるで人形のようで。

 誰かの欲を満たす道具のようで。

 やがて私の心は、何も感じなくなっていった。


 あかりちゃん。


 そう呼ばれる度に、私はそれに成りきった。

 知らない誰かに成りきることで、報われた気になれた。


 誰かに必要とされている。

 そう思えるだけで私は良かった。


 知らない男性の身体を預かり。

 知らない男性に身体を貪られ。

 知らない男性に満足を与える。


 嫌だったはずのことが、嫌と感じなくなっていく。

 私だったはずの自分が、どんどん私じゃなくなっていく。


 それがいつしか当たり前になっていって。

 気づけば私は、本当の自分を捨ててしまっていた。


『——和泉!』


 あれ、なんだろう。

 誰かが”私の名前”を呼んでくれている。


 それはとても温かい声で。

 凍っていたはずの心を溶かしてくれるような。

 そんなとてもとても優しい音。


『俺はお前のことを全力で守る』


 そう言われたのは、生まれて初めてだった。

 私に向けられた目はいつも、私じゃない何かを見ていた。

 でも、目の前にいるあの人違った。


『大丈夫。もうお前を1人にはしない』


 決して目を逸らすことなく。

 本当の私だけをまっすぐに見つめてくれている。


 どうしてか、それがすごく嬉しくて。

 心がポカポカ温かくなった気がして。

 気づけば私は、その声を求めていた。


『和泉』


 もっと私を呼んでほしい。

 もっとあなたの声を聞かせてほしい。


 そう願うだけで私は幸せになれた。

 幸せを確かに感じることができた。


『和泉』


 ずっとずっとこのままでいたい。

 この温もりを感じたままでいたい。

 そう思っている私は……きっと……。




 * * *




「和泉。起きろ和泉」

「……んん」


 ふと声が聞こえてきて、私は重い瞼を開けた。

 眠いはずの目をこすりながら、おもむろに身体を起こす。


「朝ごはんできてるぞ」

「朝ごはん……?」


 そう言われ、鼻を凝らしてみると。

 どこからかとてもいい香りが漂ってきた。


(あれ、この香り……)


 ぼんやりとした意識の中。

 必死に何の香りなのかを考えていると。


「ほらほら、顔でも洗ってシャキッとしてこい」


 台所の方から、またしても声が聞こえてくる。

 光を避けながら、ゆっくりと顔を上げると。

 そこには、オタマを持ったせんせーの姿があった。


「せんせー、どうしてここに?」

「どうしてって。ここ俺んちだぞ」

「……あっ、そういえばそうだった」

「何だ。寝ぼけてるのか」


 小さく笑ったせんせーは、オタマをひょいひょい横に振る。

 いいから顔を洗ってこいと、オタマ越しに言われているよう。


 なので私は起き上がり、洗面所へと向かう。

 冷たい水で顔を流しては、目の前の鏡に映る自分を見た。


(……私、何か夢を見ていたような)

 

 そんな感じがして、少し思い出そうとしてみたけど。

 どんな夢を見ていたのか、全然思い出せなかった。


 悪い夢ではなかった気がする。

 でも少しだけ、悪かった気も。


「まあいっか」


 いくら考えても思い出せず、私は考えるのをやめた。

 ようやく意識がまともになったので、顔を拭いて部屋に戻る。


「和泉、これ持ってけ」

「ん、持ってけって?」

「お前の分の朝ごはん」


 すると突然、台所にいたせんせーにお皿を一つ渡された。

 とりあえず流れでそれを受け取り、中を覗いてみると。


「カレー?」


 それはとても美味しそうなカレーだった。


「辛口だけど食えそうか?」

「う、うん。多分大丈夫だと思うけど」

「そうか。なら温かいうちに食っちゃえ」


 そう言ってせんせーは、スプーンを私に預けた。


「これ、私が食べてもいいの?」

「ああ。おかわりもあるからな」


 せんせーの前には、カレーがたくさん入ったお鍋あった。

 一目見ただけでも、作り過ぎだとわかるくらいすごい量だ。


(こんなに食べきれないよ)


「ん、どうかしたか?」

「ううん、何でもなーい」


 可笑しくって、思わず笑っちゃった。

 せんせーにバレないうちに、私はテーブルの側に腰掛けた。


「朝ごはんがカレーって、なんかすごいね」

「すごくはないだろ。結構普通だと思うぞ?」

「そうなの? でも私はこれが初めてだから」


 昔から、私の朝ごはんは冷たい物ばかりだった。

 コンビニで買ったパンの時もあれば、ゼリーだけの時もある。

 とにかく私は朝ごはんで、温かい物を食べたことがなかった。


 でも。


 今私の目の前には、温かい物が置かれている。

 せんせーが一生懸命に作ってくれた、熱々のカレー。

 そのスパイシーな香りを嗅ぐと、無意識にお腹がぐぅーと鳴った。


「腹減ってるだろ。とりあえず食え食え」

「うん、いただきます」


 そう一言呟いて、私はスプーンでカレーを掬った。

 ルーの中に隠れていたお肉も、ご飯と一緒に乗せて。

 フーフーと息を吹きかけて、ゆっくりと口の中に運ぶ。


 すると——。


「……美味しい。すごく美味しい」

「そうか。それなら良かった」


 せんせーのカレーは、すごくすごく美味しかった。

 辛口だから、初めは少しだけ舌がヒリヒリするけど。

 それ以上に体の芯から温まるような、そんな優しい味だった。


「もっと食べてもいい?」

「ああ、好きなだけ食え」


 カレーってこんなにも美味しい料理だったかな。

 そう思うほどに、私のことをぽかぽかにしてくれた。


 食べ進める手が、一向に止まらない。

 気づけば私は、あっという間に完食してしまっていた。


「ごちそうさまでした。すごく美味しかった」

「おう、お粗末様。おかわりはいいのか?」

「うん。これ以上食べたら太っちゃいそうだし」

「太る……か。女子高生は色々大変そうだな」

「それは花の女子高生ですからっ」


 私が鼻をスンと鳴らすと、せんせーは肩をすくめた。

 その様子が何だかおじさん臭くて、クスッと小さな笑いがこぼれた。


「あ、そうだそうだ」

「どうしたのせんせー」

「俺の連絡先と部屋の鍵、今のうちに渡しておくな」

「えっ、どうして?」

「無いと不便だろ。それに俺、今日出かけるし」


 するとせんせーは、鍵とメモ帳を一枚テーブルに置いた。

 鍵には特に何もついておらず、むき出しで少し寂しい感じ。

 メモ帳にはせんせーの電話番号が、ボールペンで書かれていた。


「和泉はどうするんだ? このままここにいるか?」


 そう言われてようやく、私は昨日のことを思い出した。

 バイト先から帰るところ、せんせーに呼び止められて。

 うちに連れてこられたかと思ったら、ここに住んでいいって。

 お前のことは俺が守るからって、抱きしめてもらったんだっけ。


「和泉、どうかしたか」

「ううん、何でもない」


 今思うとあれは、すごく幸せだった。

 初めて誰かが私を見てくれた気がして。

 胸のあたりが、何だか不思議な感覚になったんだ。


「それでどうするんだ?」


 せんせーの顔を見ると、私は安心できた。

 もう大丈夫なんだって、心の底から思えた。


「今日は一旦うちに帰るよ。準備とか色々あるから」

「そうか」


 この人になら。

 せんせーになら、頼ってもいいかもしれない。

 本当の私で、接してもいいのかもしれない。


「それじゃ俺、ちょっと出てくるな」

「うん、いってらっしゃい。せんせ」


 いってらっしゃい。

 そう言えるだけで幸せだった。


 幸せだと思えることが幸せなんだって。

 そう感じることができた。

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