第9話 涙
「それでせんせー、私に話って」
家に着くやいなや、テーブル越しに向かいあった俺たち。
神妙深い空気が流れる中、戸惑い混じりに和泉は言った。
「ああ、それなんだが」
和泉の言葉で沈黙が途絶えた瞬間。
俺も全てを話す覚悟を決める。
「実は今日、お前のことを少し調べさせてもらったんだ」
「私のことを?」
「ああ。前に確か1人暮らししてるって言ってたろ」
「うん、そうだけど」
「それについて少し話があってな」
そう前置きして、俺は話の本筋に入った。
「お前今、家賃月いくら払ってるんだ」
「……えっ、7万6千円だけど」
「そうか。ちなみにそれは自負か」
「うん、基本的にはそうかな……てかせんせーどうしたの? いきなりそんなこと聞いて」
そんな当たり前の疑問を口にする和泉。
なので俺は、あらかじめ用意していた話を持ちかける。
「率直に聞く。和泉、お前今お金に余裕ないだろ」
「えっ……」
「家賃だの学費だのって、お金に困ってるんじゃないのか」
俺は一寸の躊躇もなく、和泉の中に足を踏み入れた。
教師が生徒にするべき話じゃないのは重々承知した上で。
意を決して、俺は和泉という1人の生徒と初めて正面から向き合った。
「そ、それは……」
すると和泉は、確かにたじろいだ。
今まで崩れることのなかったその表情が。
全てを諦めたような、悲しい仮面をかぶっていたその瞳が。
俺の踏み出した一歩によって、確かな揺らぎを見せたのだ。
「もしかしてせんせー、私を調べたって」
「ああ、具体的にはお前の身の回りのことをな」
「てことは……私に親がいないのも知ってる?」
「悪い。知ってる」
「親代わりがお姉ちゃんていうのも?」
「それも知ってる」
「そっか……」
そしてひとしきり俺の話を聞いては。
「知られちゃたかぁ……」
ため息に近い声を漏らし、テーブルの上に脱力した。
腕をだらっと伸ばし、顔を伏せるその様子からして、よっぽど知られたくなかったことだということが伺える。
「すまん、勝手に調べて」
こうして目の前で落ち込まれると、勝手に探った俺としても少しばかり胸が痛いが、何故だか今の和泉の姿を見ていると、俺は安心できる気がした。
今までは本心から物を言わなかった和泉が。
俺の前で初めて、素直な感情を表に出してくれている。
どうしてか、それが嬉しくて。
この子はちゃんと高校生なんだと。
大人びたその姿から、確かな子供らしさを感じることができた。
だから——。
「でもな、和泉」
だからこそ。
俺はもう一度、和泉に伝える。
「やっぱりあんな仕事をするのはダメだ」
お金がなくて、苦労しているのは知っている。
だからこそ、風俗業に手を出してしまったことも。
誰にも頼れず、ずっと1人で抱え込んで来たことも。
和泉の気持ちになれば、痛いほどその苦労は理解できた。
でも、それでも俺は、この子に普通に生きて欲しかった。
今時の女子高生らしい笑顔で、今時の女子高生らしい環境で。
今時の女子高生らしい、今しかできない生き方をして欲しかった。
「私進学するつもりだし。今の仕事は給料がいいから」
「たとえそうだとしても、それが和泉に必要だとは思えない」
「必要だよ。お金がなかったら私、高校にだって通えないもん」
生きるためには、確かにお金は必要だ。
高校生ながらも、和泉はそれを身をもって理解している。
普通のバイトでは、家賃と学費の両方を払うことなんて到底できないと。
ならばだ。
家賃と学費、どちらかの要素を取り除いてやればいい。
和泉が背負う負担を、今の半分にしてやればいいのだ。
「なら和泉、お前今日からここに住め」
「……えっ?」
だからこそ俺は、そんなぶっ飛んだ提案をした。
血も繋がってない、ただの教え子でしかない女子高生と共に暮らすことが、どれだけ社会の理に反したことか十分に理解して上で。
「本当はあんな仕事したくないんだろ」
「……う、うん。できればだけど」
「だったら今すぐ辞めて、ここに住めばいい。そうすればお金にだって余裕ができるし、あんな仕事もう続ける必要もないだろ」
「それはそうだけど……」
ここに住めば、家賃の面での負担が減る。
負担が減れば、風俗での仕事など続ける必要もなくなる。
「安心しろ。家賃諸々は俺に任せとけばいい。お前はお前の目指す道に向かって、まっすぐ突き進めばそれでいいんだ」
和泉は進学したいと言った。
ならばその進路を実現する日までは、俺が全力でこの子を守る。
それが俺の導き出した、和泉を救うための唯一の手立てだった。
「どうだ、和泉」
迷いなき気持ちで、俺は和泉に尋ねた。
しかし和泉はまだ、表情を曇らせたままだった。
不安なのだろうか。
俺を頼りたくないのだろうか。
そうやって和泉の気持ちを何とか紐解こうとしていると。
「でもせんせー……そんなことしたらせんせーが……」
とても不安げな顔で、ぽつりとそう言ったのだ。
それを聞いて俺は、今までの全てに納得できた。
”和泉美羽という子は、とても優しい女の子だ”
教師である俺を、自分から突き放そうとしたのも。
周りを一切頼らず、1人きりで抱え込んでいたのも。
全ては誰も巻き込みたくないという、和泉の優しさなのだ。
『もし誰かに話したら、私もせんせーのうちに泊まったことみんなに言うから』
あの時言った言葉だって全ては俺を守るため。
本当は貶めるつもりなんてこれぽっちもなかった。
ただ自身の問題に俺を巻き込みたくはなかった。
和泉はそんな気遣いを、ずっと俺にしてくれていたのだ。
「お前の不安はわかる。俺がクビになるんじゃないかって気を遣ってくれてるんだろ?」
俺は十分和泉に救われた。
だから今度は、俺が和泉を救う番だ。
「でもなあ和泉。俺は教師として今のお前を放っては置けないんだ」
和泉に貰った優しさを。
和泉が知らない温もりを。
俺の全てをかけて、和泉に返したい。
「俺はお前のことを全力で守る。だからお前は、お前自身の未来を全力で守れ」
この子に普通の環境で生きて欲しい。
それが叶うのであれば、俺は自分の身など惜しくはなかった。
「大丈夫。もうお前を1人にはしない」
「……せんせ」
そうして。
俺が想いの全てをぶつけた瞬間。
「…………っ!」
初めて和泉は、俺に涙を見せてくれた。
しかしその涙からは、不安が感じられない。
彼女が抱えていた辛い感情が、溢れ出したものだった。
だから俺は、そっと側に歩み寄り、和泉の頭に手を置く。
辛かっただろう。苦しかっただろう。でももう大丈夫だ。
言葉にはせずとも、きっと想いは伝わったと思う。
和泉は俺の胸に顔を埋め、ひたすらに泣いていた。
それはもう、さっきまでの孤独な和泉じゃない。
心に温もりを宿した、か弱い1人の女の子だった。
俺はこの子を、何としてでも守り抜く。
そんな和泉を見て、俺は心の奥底に誓った。
この子が抱えていた底知れぬ想い、そして止まることを知らないその涙。
それら全てを受け止め、この先和泉を守り抜いてみせると。
「辛い時は泣いていいんだ」
「……うん」
「弱音をこぼしたっていいんだ」
「……うん」
「今まで和泉はよく頑張った」
俺の胸に顔を埋めながら、和泉は小さく頷いた。
そんな彼女の素直さが嬉しくて、自然と笑みがこぼれる。
「とりあえず今日は、夜も遅いし泊まってけ」
「……うん」
「飯、まだ食ってないだろ。弁当買ってあるから好きな方選べな」
「……うん。ありがとうせんせ」
こうして俺たちの日常は確かな変化を見せた。
それは決して、褒められた変化じゃないのかも知れない。
でも俺は自分のしたこの選択に、後悔などしていないと思う。
うちの高校の生徒が風俗嬢だった。
そんな馬鹿げた話が、本当に存在しているんだって。
もし誰かに打ち明けたら、笑われてしまうのだろうか。
いや、もし笑われたとしても俺には関係ない。
目の前に守るべきものがある以上、俺はその役目を全うするのみ。
だって俺は——。
この子の先生なのだから。
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