第7話 煙

「今日は送っていただきありがとうございました」


 駅を挟んで南側。

 薄暗い通りにある、4階建ての小さめなマンション。

 その玄関口の前で、音無先生は俺に向かって一礼した。


「いえこちらこそ。今日はありがとうございました」


 つられるようにして、俺も一つ頭を下げる。

 すると思わず身体がよろけてしまい、俺は慌ててバランスを戻す。


(酔ってんのか……俺?)


 今まで意識が別の場所に向いていたから気が付かなかったが。

 よくよく考えれば、今日は随分とお酒を飲んだような気がする。


 ビール、日本酒、カクテル、ワイン。

 思い出せるだけでも10杯ほどは飲んだだろうか。


 何にせよ、こんな姿音無先生には見せられない。

 28歳にもなって、年下の先生の前で酔っ払うとか。

 恥ずかしすぎて、今にでも舌を噛みちぎってやりたいほどだ。


(……もう10時か)


 ちらっと腕時計を見ると、時刻はもう10時目前。

 飲み始めが遅かったとはいえ、こんな時間まで音無先生を拘束してしまって、本当に申し訳なかった。


「それでは私はこれで」

「は、はい。お気をつけて」


 明日は休日ではあるが、まだお若い先生だ。

 飲みの席は、あまり慣れていないと言っていたし。

 そんな人を無理やり連れ出しといて、結局何も相談できず仕舞い。


「ほんと、何やってんだか……」


 音無先生に軽く会釈して、踵を返す。

 その時仰いだ夜空に、俺はボソッと声を漏らした。


 生徒1人救えない、正真正銘のダメ教師。

 自分に対するその戒めが、この夜空を前にするとさらに重く感じた。


 どこまでも続く星空の下。

 それを見上げることしかできないこの俺に。

 天は1人の生徒を救う力すらもくれなかったのかと。


 酔っているからか、そんな痛い妄想まで浮かんでくる。

 それくらいに今の俺は、道を見失っているのだと思う。


 教師として本当にやるべきことが何なのかがわからない。

 わからないから、音無先生にも相談することができなかった。


 果たしてそんな人間に、教師を語る資格はあるのだろうか。

 今までの頼りない自分を思い出すと、思わず反吐が出そうになった。


「あ、あの、渡辺先生!」

「……はい、どうかされましたか?」


 マイナス思考だった脳内に、そんな声が飛び込んでくる。

 俺は進めていた足を止め、再び音無先生の方へと振り返った。


「え、えっと。渡辺先生のご自宅は、ここから近いんですか?」

「ああ、そうですね。20分ほどだと思いますよ」

「そ、そうなんですか」


 俺の家は駅を挟んで北側。

 先ほどの居酒屋付近まで一度戻って、その先の住宅街にある。


「あの、それがどうかされましたか?」

「ああいえ……! 何というかその……」

「……ん?」


 すると音無先生は、不自然に俺から視線を避けた。

 まだヨレの一つもないビジネスバックを両手に下げ。

 モジモジと身体を捩らせながら、何かを言いかけている。


(具合でも悪いのか?)


 とは一瞬思ったものの。

 音無先生の表情を見て、すぐにそれはないと断言できた。


 あろうことか、先生の頬は火照っていたのだ。

 それもおそらくは、酔いからの火照りなどではない。


 生物として、男として、俺は本能的に気づいてしまった。

 今目の前にいるこの人が、1人の女性の顔をしていることに。


「……あの、渡辺先生」


 それゆえにある程度の予想がついた。

 音無先生が今何を考えて、俺を呼び止めたのか。

 一瞬にして胸の鼓動が落ち着かなくなる。


 先の展開を考えてしまい、頭に熱が登った。

 目の前の先生の姿が妙に色っぽく見えてしまう。

 それくらいに今の俺は、場の空気に飲まれてしまっていた。


「もし宜しければ」

 

 ぴゅぅ——。


 俺たちの間を、甲高い音の風が通り過ぎた。

 髪を持ち上げるほどのその風は、音無先生の言葉を包み込み。

 そのままどこか遠くへと、持ち去ってしまった。


「……えっと」


 聞き返していいのかわからない。

 風が残していったのは、どこか重い空気だった。

 俺たちはしばらく、そのままお互いの言葉を待った。


「す、すみません! やっぱり私酔ってるみたいで!」

「は、はぁ……」

「それでは私はこの辺りで!」


 まるで羞恥心を隠すかのように。

 音無先生は慌てた様子でマンションへと入っていった。


「何だったんだ今の……」


 普段の音無先生からは程遠い、あの表情。

 それが妙に色めかしく、俺の脳裏に残り続けている。


 もしあのまま、言葉が続いていたのなら。

 今頃俺はどうなってしまっていたのだろう。


 新人である音無先生と夜を共に。

 そんな妄想が浮かんできては、すぐに思考を払った。


 生徒に引き続き教師とも……だなんて。

 冷静になって考えれば、全身に寒気が走るほどの恐ろしい妄想だった。




 * * *




 その帰り道。

 俺は無意識のうちに、あの風俗店のある通りに差し掛かっていた。


 もちろん何をするわけでもない。

 ただ最近になって、俺はよくこの道を通るようになっていた。

 ただそれだけのことだった。


「あれ、せんせー」


 いつものようにあの店の前を通り過ぎようとすると。

 あろうことか、制服姿の女子高生に声をかけられた。


 彼女は俺を見つけるなり、決まったように微笑み。

 道端に佇む俺の元へと、おもむろに歩み寄ってくる。


「和泉……お前こんな時間まで何を」

「何って、見ればわかるでしょ?」


 そして冷静を欠く俺に、開き直ったように言うのだ。

 何者にも応じないような、女子高生らしからぬその態度が。

 なぜか俺の胸のモヤモヤを、増幅させるような気がした。


 こいつだったら大丈夫。


 心のどこかでそう思われているんじゃないか。

 そんなことを考えると、情けなくて仕方がなかったのだ。


「もう夜も遅い。高校生は補導の対象になるぞ」

「大丈夫だよ。私結構大人っぽいし」

「制服着てたらどっちにしろダメだろ」


 危機感の薄い和泉に忠告すると。

 和泉は「あ、そっか」と言って、ケラケラと子供っぽく笑っていた。


 その相変わらずの笑顔が、不思議で仕方なくて。

 平常でいられない俺に、劣等感さえも感じさせていた。


「あ、そうだせんせー」

「な、何だ」

「今日せんせーのうち行ってもいい?」


 そして思い立ったように笑うのをやめたかと思えば。

 あろうことか和泉は、そんな話を俺にしてくるのだ。

 ここまでくると、流石の俺も動揺を通り越して呆れを覚える。


「お前なぁ……一応俺は教師なんだぞ?」

「わかってるって。ちょっとお話ししたいだけだから」

「んん……」


 お話ししたいだけ。

 そう言われると、俺も少しばかり悩んだ。


 気が進まないのは確かだが、チャンスだと思ったのだ。

 これを機に和泉を説得する足がかりを作れるかもしれないと。


「流石に今日は帰るんだろうな」

「うん、用が済んだらすぐ帰るから」


 どうやら泊まるつもりはないようだし。

 ここは一つ、今日の自分に可能性をかけてみるか。


「わかった。少しだけだぞ」

「やった。ありがとせんせ」


 俺が了承すると、和泉は笑顔でそう言った。

 これからまたしても教え子を家に上げるというのに。

 不思議と俺の中には、前回のような罪悪感は存在していなかった。


 今の俺がもし素面だったら。

 和泉の話にもこうして乗っかってはいないだろう。


(やっぱり酔ってんな、俺)


 教師の身でお酒に判断を任せるのは恥ずかしい話だが。

 まあ一度くらいなら、その力を頼ってもいいのかもしれない。


 なんて思いながらも、俺は夜の街を歩いた。

 隣に風俗嬢である、女子高生の教え子を連れて。




 * * *




「おっじゃましまーす」


 まだ2回目だと言うのに、我が物顔で俺の家に上がる和泉。

 トタトタと部屋に向かっては、テーブルの横にちょこんと腰を下ろす。


(絶対帰る気ないだろ……)


 座布団用のクッションを両手で抱えながら、ケータイをぽちぽち。

 まだ着いて数秒しか経ってないのに、随分とくつろいでいるようだ。


「はぁ……困った奴だ、まったく」


 ぼやくように呟いて、俺も家に上がる。

 思い返せば、今日は色々と頭を使って疲れた。


 四六時中和泉のことで頭を悩ませ。

 音無先生に相談しようとしたが不発に終わって。

 どうしようかと思っていたところ、偶然にも本人と遭遇して。


「あぁ、煙吸いてぇ」


 詰め込みすぎたせいで、俺の思考はストレスに変わる。

 そうなると当然、タバコが吸いたくなってくる。


「えっと、ライターライター」


 箱から一本タバコを出しては口にくわえ。

 スーツのどこかにあるはずの、ライターを探していると。


「あ、そういや」


 ふと、和泉がいることに気がついた。

 いつもは気にせず部屋の中で吸っているのだが。

 さすがに女子高生の前でタバコを吸うわけにはいかない。

 ということで、今日はベランダに出て吸うことにしよう。


「お、あったあった」


 ズボンの右ポケットの奥底。

 そこからライターを引っ張り出し、ベランダへと向かう。


 ビジネスバックをベットの横に置いて。

 身体を休めるより先に、とりあえず煙を取り込みたい。

 そんな欲求に駆られていると。


「いいよ。気にしなくても」


 顔を上げた和泉が、一言そう言った。


「いや、流石に未成年の前では吸えないだろ」

「え、でもうちのお客さんは平気で吸うよ?」


 そんなことを告白したかと思えば。

 続けて和泉は、一瞬耳を疑うようなことを呟く。


「そのままキスとかされるから、口の中苦いのなんてしょっちゅうだし」


 思わず言葉を失った。

 タバコを高校生の前で吸うどころか、そのままキスだなんて。

 常識から外れすぎて、到底俺には理解し得ないことだった。


「ん、どうしたのせんせ?」


 平気な顔をして首をかしげる和泉が、本当にわからない。

 なぜそんな常識外れの人間たちを、この子は受け入れられるのだろうか。

 少しくらい嫌だと思う感情はないのだろうか。


 いや、そうじゃない。


 考えるべきは和泉の方ではなく、そのクソみたいな客の方だ。

 そんな常識も知らないクソ野郎たちのせいで、この子の貞操も普通を普通だと捉えることができる感覚も、全てが狂ってしまった。


 そんなクソみたいな大人がこの世に存在しているから。

 まだ子供であるこの子に、あんな冷たい笑みをさせてしまう。


 そう思うと無性に腹が立ってきて。

 ライターを持つ右手にも自然と力が入った。


「なあ和泉」

「な、何?」

「普通を捉え違えるな。そんなのは当然間違った常識だ」


 それだけ言い捨てベランダを開ける。

 外に出ると、やはり今日は風が心地よかった


「臭くはないか」

「うん、大丈夫」

「そうか」


 煙が入らない程度に、少しだけ隙間を開けて。

 和泉と話しやすいように、俺は部屋の方へと向き直った。


「せんせーってさ、優しいんだね」

「優しくねえよ。これが普通の大人だ」

「ううん。せんせーは優しいよ」


 すると和泉は立ち上がり、俺の方へと歩み寄ってくる。

 そして窓越しにちらりと夜空を見上げては、真剣な表情で言った。


「皐月せんせーを食事に誘ったのだって、私を心配してくれてたからでしょ?」

「ぶほっ、ごほっ……おまっ……なんでそれを?」

「ごめん。昼休み話してるの聞いちゃった」

「はぁ……」


 確かに今日の昼休み、無防備にも廊下で食事の誘いをしたが。

 まさかそれをよりにもよって和泉に聞かれていたとは。


「それで、私のこと何か相談できた?」


 窓越しに意地悪げな笑みを浮かべる和泉。

 情けないことに、俺は今日この子のことを何も相談することができなかった。


 しかしそれを言ったところで、信じてもらえるかどうか。

 とはいえ隠すのも気が引けるので、俺は正直に今日のことを話した。


「結局何も言い出せなかったよ」

「ふーん。そうなんだ」

「なんだ、疑わないのか」

「うん、せんせー嘘つかなそうだし」


 そう言って和泉は、窓に背中を預ける。


「それにきっと言えないだろうなって思ってたから」


 続けてそんなことを呟いたのだ。

 まるでこうなることをわかっていたかのように。


 全てを見透かされた。

 そんな気がして、俺は一瞬悔しさを覚えた。


「……なんでそう言い切れる」

「だってせんせー優しいから」


 そう言われるも、いまいちピンとこなかった。

 俺が言葉に迷っていると、和泉は身体をこちらへ向き直し。


「せんせーが心配してくれてるのって、多分私のためだよね」

「そ、そりゃあ教師として生徒である和泉のことは心配するだろ」

「ううん、そうじゃないの」


 和泉は小さく首を振る。

 そしてどこか遠い目をしながら、俺に言った。


「私がこんな仕事をしてるってバレたら、もう高校には通えなくなるでしょ? だからせんせーは、皐月せんせーにも相談できなかったんじゃないかな」

「そ、それは……」


 何も言い返せなかった。

 和泉の言葉を聞いた瞬間、俺の中で何かが腑に落ちたのだ。


 今までずっと、俺は考え続けていた。

 なぜ自分は生徒を救うために、一歩踏み出せないのかと。


 考えて考えて考えて。

 その結果、何もできず今を迎えて。


 やっぱり俺はダメな教師なのだと。

 そう自分の中で結論付けてしまっていた。


 でも。


 でも本当はそうじゃなかった。

 俺は自分と和泉を振るいにかけていたわけじゃない。

 最初からずっと、和泉のことだけを考えていたのだ。


 だからこそ何も言い出せなかった。

 俺が秘密を誰かに話すことで、和泉の居場所を奪うんじゃないか。

 そういう思いが心のどこかにあったから、俺は思うように動けなかった。


 和泉が望んで今の仕事を続けているわけじゃない。

 それは彼女の泣いているような笑みを見ればわかった。


 ならそれを理由にして高校を退学。

 なんて辛い結果、死んでも和泉に背負わせるわけにはいかない。


 たとえ教師として間違っていても。

 1人の大人として、子供から居場所を奪うことだけはしたくはなかった。


 それを、今の和泉の言葉で気づかされた。

 教師として納得してはいけないはずなのに。

 納得したいという気持ちが、心のどこかにはあった。


「ごめんねせんせ、辛い思いさせちゃって」

「なんでお前が謝るんだよ……俺は何も」

「せんせーは、もう十分頑張ってくれたよ」


 なんでそんな悲しい顔で笑うんだ。

 もっと……もっと俺を頼ってくれよ。


 こんなんでも俺は教師なんだ。

 教師は生徒を正しい道へと導く。

 それが一番の役目なんだぞ。


「だからせんせ、もう1人で背負い込まなくてもいいよ」


 やめてくれ、そうじゃない。

 俺はまだ何もできちゃいないんだ。

 お前のことを救えてはいないんだ。


「私のことならもう大丈夫だから」


 そうして最後に吐いた言葉。

 それは間違いなく、俺を突き放すものだった。


 ”私のことならもう大丈夫だから”


 これ以上、先生に迷惑はかけられない。

 これ以上、先生にしてもらえることは何もない。

 だから私のことはもう構わないで欲しいと。


 はっきりとは言わずとも、俺にはわかった。

 和泉が吐いた言葉に秘められた本当の意味を。

 認めたくはなくとも、俺には届いてしまったのだ。


「それじゃ私、そろそろ帰るね」


 微かな笑顔を見せた和泉は、俺の元から離れていく。

 1人玄関へと向かうその背中は、悲しみに満ち溢れていた。


 そんな生徒を前にしても、俺は何も言えない。

 かけるべき言葉が全然浮かび上げってこない。


 でも——。


「和泉!」


 このまま何もしないのだけはダメだと思った。

 なんと声をかければいいのかはわからない。

 それでも俺は、去り行く和泉の背中に想いをぶつけた。


「俺はお前を見捨てないからな!」


 根拠なんて何もない。

 ただ俺は何もできなかった自分を許せなかった。

 教師として、泣いている生徒を放っては置けなかった。


 玄関先で振り返った和泉は、悲しげに微笑む。

 そして何も言わず、そのまま家を出て行った。


 俺はそんな和泉を、部屋の中から見送り。

 おもむろにベランダに戻っては、雲一つない夜空を見上げる。

 白い煙が消え行く姿に、改めて自分の無力さを噛み締めていた。


 でも。


 同時にやってやろうとも思った。

 なんとしてでも和泉を救ってやろうと。

 折れかけていた心が、再び芯を取り戻したような。

 そんな気にさえなれたのだった。

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