第6話 相談

 和泉の日常を、高校生らしいものにしてあげたい。

 そう心に決めて以来、俺はずっとあの子のことを考え続けた。


 科学準備室のマイデスクで、PCを操作している時も。

 とあるクラスの教卓で、一丁前に教鞭をっている時も。


 俺の頭のどこかには、必ず和泉という存在がいて。

 この現状を変えるための案を、俺はずっとずっと模索していた。


 しかし。


 未だこれといって、それらしい案は浮かんでこない。

 1日ずっと考えてみても、それでもあの子には届かないだろうと。

 そう、心のどこかで決めつけてしまっている。


『このことは誰にも言わないでね』


 あの時見せた泣いているような笑みが。

 それが何度も脳裏に浮かんできて、俺の思考の邪魔をする。


 あんな顔をする子が、望んで今の仕事をしているはずがない。

 頭ではそう理解しているはずなのに、身体が追いついてはくれなかった。


 あの時噛み締めた無力を、また繰り返している。

 そんな自分が情けなくて、苛立ちさえ覚えてしまう。


 きっと。


 きっと俺はまだ、心のどこかで躊躇している。

 あの子の心に、自分の手が触れてしまうことを

 自分の行動で、あの子自身を変えてしまうことを。


「ふぅぅ……」


 溜まった熱を吐き出すかのように、息が漏れた。

 いくら自分を謙遜したって、問題が解決するわけじゃない。


 何よりも今考えるべきは、和泉をどうするかだろう。

 自分の無力さを噛み締めるのは、その後でも十分だ。


「あ、あのー、渡辺先生?」

「……は、はい?」


 俺を呼ぶ声が耳に飛び込んできて、ふと我に帰る。

 顔を上げると、そこには俺を見つめる音無おとなし先生がいた。


「ど、どうかされましたか?」


 音無先生は、すごく心配げな顔を浮かべている。

 そんな先生を見て、俺はようやく一緒に食事に来ていることを思い出した。


「ああ、すみません。少し考え事を……」

「そうでしたか。それなら良かったです」

「あははっ……」


 誤魔化すように笑い、俺は自分のグラスを手に取った。

 そして残っていたビールを一気に喉の奥へと流し込む。


「……ハァァ」

「あ、何かお代わりされますか?」

「ああすみません。それじゃビールを」


 慌てて俺が言うと、音無先生は「すみませーん」と、すぐさま店員を呼んだ。


「えっと、ビールのお代わりを二つお願いします」


 それを聞いて、店員は俺たちがいるテーブルを後にする。


「あっ、おつまみも何か頼んだ方がよかったでしょうか?」

「ああいえ。私はこれで十分間に合ってますよ」

「そ、そうですか。すみません、私こういった場にあまり慣れてなくて」

「いえいえ。こちらこそ気が回らずに」


 そう言う音無先生は、随分と肩に力が入っているよう。


「……あっ」


 と思ったら今度は、突然ハッとした表情をして、自分のグラスを取った。

 そして何を思ったのか、半分ほど残っているビールを一気に喉に流し入れる。


(ああ、そういえばさっき)


 自分の分まで頼んでしまったから、慌てているのだろう。

 別に急がなくても、グラス交換制ではないから構わないのだが。


「音無先生はあまり飲みに行かれたりはしないんですか?」

「そ、そうですね、私は全然で。お酒もあまり強い方ではないですし」

「そうでしたか。何だかすみません、気を遣わせてしまったようで」

「いえいえそんな。私の方こそわざわざ誘っていただいてしまって」


 何だかお見合いみたいになってる気もするが。

 決して俺と音無先生は、初対面同士というわけではない。


「あ、どうぞ。遠慮せず召し上がってください」

「は、はい。それではお言葉に甘えて」


 音無皐月おとなしさつき先生は、うちの高校の世界史教師。

 歳も24歳と、俺とそこまで離れているわけでもなく、おっとりした雰囲気と、生徒想いの優しい性格で、教師生徒問わずその人気は極めて高い。


 背は少し低めだが目鼻立ちは整っており、黒い縁のメガネが、彼女の真面目さと魅力をより一層引き出しているように感じられる。


 そんな音無先生と2人で食事しているその訳。

 言ってしまえばそれは、和泉のことを相談したいと思ったからだ。


 本来ならば俺1人で解決するべき事案なのだろうが。

 やはり状況が状況なので、和泉の担任である音無先生にだけは、この事実を伝えておこうと思ったのだ。


 俺は先生のことを信頼しているし。

 先生だって、きっと和泉のことを一番に考えてくれる。


 1人で抱えるには大きすぎるこの事実に、協力者の存在は心強い。

 とはいえその協力者も、頭の固いお偉いさん方にはお願いできない。

 となるとやはり適任なのは、歳も近く、和泉の担任である音無先生だと、俺は思ったのだ。


「あの、音無先生」

「ひゃ、ひゃい!」


 声をかけると、音無先生は思いっきり肩を弾ませた。

 その勢いで、箸で摘んでいたきゅうりが華麗に宙を舞い。

 偶然にも、音無先生の取り皿へと見事に着地してみせる。


「す、すみません! はしたない真似を……」

「い、いえ。私の方こそ突然声をかけてしまって」


 顔を真っ赤にする音無先生。

 これには俺も、少しばかり気まずさを感じる。

 というか、今のきゅうりの動きは、なかなか芸術的だった。


「食べながらで全然構いませんので」

「は、はい……わかりました」


 俺が言うと、音無先生は控えめにきゅうりをパクリ。

 その様子からして、どうやらまだ少し遠慮しているようだった。


(やっぱり落ち着かないんだろうな)


 とは、心の中で思いつつ。

 気を取り直して、俺は音無先生に事の内容を伝えてみることにする。


「ふぅ」


 バレない程度に小さく息を吐き。

 気持ちと共に、自分の呼吸を整える。


 いくら相談するべきだと結論付けても。

 心の準備だけは、どうしても必要だった。


「実は先生に話がありまして」

「えっ、私に話ですか?」

「はい、とても大切な話なんですが」

「大切なっ!?」


 そう前置きすると、案の定音無先生は驚いていた。

 頬を赤く染めては、周りをキョロキョロ見渡して。

 落ち着いたかと思えば、両腕をビシッと張って顔を伏せる。


 それを見て、俺も少しばかり躊躇いを覚えた。

 そんなに身構えられてしまっては、言葉の選択が難しかったのだ。


 できるだけ空気が重くならないように注意しながら。

 なおかつあの子の貞操を傷つけないようにも配慮し。

 最前の注意を払いながらも、音無先生に協力をお願いする。


 果たしてそんな難易度が高いこと俺にできるのか。

 そもそもこの話を他の誰かにしてしまっていいのだろうか。


 色々な葛藤が混ざり合う中。

 俺は意を決して、すっかり重くなった口を開いた。


「先生のクラスの和泉美羽について——」


 和泉美羽についてなんですが。

 そう口にしようとしたその瞬間。


「生二つ、お待たせしやしたー」


 頼んでいたビールが届き、俺は慌てて言葉を切った。


「すみません渡辺先生。今なんとおっしゃいましたか?」

「ああいえ……」


 面と向かって聞き返され、俺は思わずたじろぐ。

 ここで再びあの話を持ち出したら、果たしてどうなるだろう。

 俺の狙い通り、上手く音無先生に協力を仰げるだろうか。


「……いえ、なんでもないんです」


 少し考えた結果。

 俺の口からは、そんな情けない言葉が出た。




 * * *




「すみません。ご馳走になってしまって」

「いえ、こちらこそ無理に誘ってしまって」


 あれからおよそ1時間後。

 夕食を済ませた俺たちは、ほろ酔い気分で店を出た。


 タイミングを逃し、言い出せなかった和泉のこと。

 俺はあの後も、ワインや日本酒などを嗜みながら、どうやったら和泉を取り巻く環境を変えてやれるのかを考え、幾度となく音無先生に相談しようと試みた。


 しかし。


 なぜか言いだそうとする度に、俺は言葉に詰まるのだ。

 このままじゃ何も変わらないと、わかっているはずなのに。

 胸の内にある何かがブレーキとなり、打ち明けることは叶わなかった。


 そうこうしているうちに、時間はどんどん過ぎ去ってしまい。

 こうして終わってみれば、結局のところ何も解決できないまま。

 これじゃ何のために、この機会を設けたのかすらわかりゃしない。


(ほんと、何やってんだ……)


 まるで自分のことが思い通りにならないような。

 そんな不気味な感覚に、全身を支配されていた。


 もしかして俺は、怯えているのだろうか。

 教師をクビにされることを、恐れてしまっているのだろうか。


 和泉という1人の生徒の未来よりも。

 俺は俺自身のことを、気にかけてしまっているのだろうか。


「だとしたらとんだクソ教師だな、俺は」


 小さくそう呟き、俺は考えを捨てた。

 とりあえず今は、音無先生とのやりとりが優先だ。


「ところで、先生のご自宅はこの辺りなんですか?」

「は、はい。ここからだと歩いて10分ほどでしょうか」

「そうなんですか」


 最寄り駅が一緒なのは以前から知っていたが。

 どうやら家自体の距離も、そう遠く離れてはいないらしい。


「渡辺先生。今日はお誘いありがとうございました」

「あ、いえいえこちらこそ。どうかお気をつけて」


 深々と頭を下げる音無先生。

 相変わらず礼儀正しい良い人なのだが。

 どうも先ほどから足元がおぼつかないように感じる。


「あの、帰り1人でも大丈夫ですか?」

「は、はい。これくらいなんてこと……」


 平気を装う音無先生だったが。


「あ、あれれ……?」


 一歩踏み出してはよろけてしまい、近くの電柱に寄りかかる。

 表情もホワホワしているので、おそらくは酔っ払っているのだと思う。


(本当にお酒苦手なんだな)


 その割にはだいぶ飲んでいたので、なおさら心配だ。

 少しでも自分で歩くことができれば良いのだが。


「先生のご自宅、この辺りなんですよね?」

「は、はい、駅の南側にあるマンションです」

「なら、私がご自宅までお送りしましょうか?」

「えっ!?」


 俺が提案すると、音無先生は頬を赤らめ驚いた顔をした。

 始めこそなんでそんなに驚く必要があるのかと思ったが。

 すぐさま音無先生が、言葉の意味を履き違えているとわかった。


「ああいえ……そういう意味ではなくてですね。単に先生を1人で帰らせるのは少し心配というか何というか……とにかく他意はないです」

「あっ……すみません! 私変な誤解を……」


 恥ずかしげに顔を俯ける音無先生。

 その表情が妙に可愛らしく、胸のあたりがくすぐったい。


「えっと、とりあえず移動しましょうか」

「……は、はい!」


 この後音無先生を家まで送る。

 こんな夜更けに、歳の近い男女が2人で……。


 なんて、少しばかりバカな考えも浮かんできたが。

 そんな感情も、一瞬のうちに何処かへと消え去ってしまった。


(もしやこれは歳のせいなのか……)


 昔はもっと意識してしまっていた気もするが。

 30歳を目前にすると、随分と心も変わるらしい。


「歩けそうですか?」

「は、はいっ……!!」


 ぎこちない歩き方をする音無先生を支えながら。

 俺は自分の心の変化に、少しばかり悲しみを感じていたのだった。

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