第5話 決心
あれからほんの数時間後。
「よし。それじゃ実験始めてくぞー」
普段通り学校へと出勤した俺は、1階の科学室にいた。
教卓に立つ俺の前には、3年生がおよそ40名ほど座っていて、その中の1人に、先ほどまで一緒だった和泉の姿もあった。
「お前らにとっては人生で最後の実験になるからなー。精々悔いの残らないように安全に楽しくやれよー」
もちろん俺の気持ちは、未だ整理されていないまま。
淡々と話をする中でも、色々と考えてしまうことが多々あった。
しかしそれを理由に、授業をおろそかにはできない。
何たって今日は、こいつらにとって最後の科学実験。
それも高校でではなく、正真正銘の人生最後の実験になる。
おそらくほとんどのやつは。
「いいか、手順に従って慎重にやるんだぞー」
俺がそう呼びかけると、全員が一斉に手を動かし始めた。
ちなみに今日行う実験は、アンモニア噴水と呼ばれる実験。
気体のアンモニアの性質を生かした、高校科学では定番な実験だ。
おそらく誰しもが、一度は耳にしたことがあると思う。
気体のアンモニアが入ったフラスコに水を流し込むと、その中でアンモニアが水に溶け出して、噴水のようになるというものだ。
「火を使うときは十分に気をつけてなー」
割と単純な実験ではあるが、それでも危険は伴う。
生徒が安全に実験ができるよう、俺は各テーブルを順番に見回った。
「なべさんなべさん。俺たちのやつ何もならないんだけど!」
すると案の定予想していたセリフが聞こえてくる。
立ち寄るとそこは、クラスの賑やかな男子4人組の班だった。
「三浦、お前はすぐに人を頼るな。少しは自分で考えろ」
「んなこと言われたってさ。俺らバカだからわからんし」
小さく溜息が漏れる。
やり方がわからないのは、一向に構わないのだが。
少しは教科書を読むなりして、自分で考えてもらいたいものだ。
「いいか。反応が出ないならもう一度水を流してみろ」
「おっけーい。さんきゅーなべさん」
「んん……」
顔をしかめて見せたが、どうやら三浦は気づかなかったよう。
大声で世間話をしながら、仲間内でケラケラと笑っていた。
「はぁ……」
やれやれと首を掻いて、俺はその班を後にする。
人生最後の実験だと、最初に念を押しておいたはずなのだが。
どうやら彼らにとっては、この実験よりも世間話の方が上らしい。
(ま、それなりにやってもらえりゃいいか)
あんまり硬くなりすぎても良くないし。
反応が起きて「おー」となるくらいが、ちょうどいいのかもしれない。
そう思いながらも、俺は続けて見回りをする。
このくらいの時間になってくると、そろそろ上手いこと噴水を起こせている班がでてきても、おかしくはない頃だとはおもうのだが……。
「おおー!」
と、ここで。
歓声にも似た声が俺の耳まで届いた。
つられてそちらを見ると。
見事フラスコ内で桃色の噴水が上がっているではないか。
「すげー! マジで噴水じゃん!」
「な! 思ってた10倍はすげーわ!」
目をキラキラと輝かせ、噴水に見入っている彼ら。
それにつられて、他の班の生徒までもが彼らのテーブルに集まってくる。
そしてみんな揃って「おー!」と驚きを口にしては、湧き上がる桃色の噴水を興味深そうに眺めていた。
「ふぅ」
俺はそんな彼らを見て、思わず安堵の息を漏らす。
人生最後の実験が何の感動もなく終わってしまう。
なんて悲しい結末だけは避けられた気がして、俺はすこぶる安心した。
(ひとまずは良かったな)
これであとは、他の班も続いてくれればいいのだが。
見たところ、意外と準備に手こずっている班が多そうだった。
「んせー。おーいせんせー」
「お、おう。どうした……」
するとここで、不意に背後から背中をポンッと叩かれた。
何事かと思い振り返ると、俺を呼んだのはまさかの……。
「……い、和泉」
まさかの和泉美羽だった。
「質問いいですかー?」
平然とした顔でそう呟く和泉。
俺はふと今朝のことを思い出したじろいでしまう。
だが。
このままではまずい。
そう思って、すぐさま冷静を装った。
「どうかしたのか」
「私たちの班のやつだけど、これで大丈夫?」
「あ、ああ。どれ見せてみろ」
そう言われて俺は、設置された道具を確認する。
最初の手順から追って確認したが、どうやら何も問題はなさそう。
この様子だと、あとは水を流し込めば、綺麗な噴水が見られるだろう。
「問題ない。あとはフラスコに水を流し込むだけだな」
「良かった。ありがとうせんせー」
「お、おう」
そう言うと和泉は、微かに笑みをこぼした。
俺の顔を見て、ただ純粋に笑って見せたのだ。
(なんでそんな顔できるんだよ……)
それが不思議で不思議で仕方がなくて。
その笑顔を見ると、なぜか胸が苦しくなって。
今朝和泉に言われた、あの言葉を思い出してしまう。
『このことは誰にも言わないでね』
あの時見せた泣いているような笑顔が。
全てを諦めたような悲しげな後ろ姿が。
俺の脳裏に焼き付いて、離れてはくれなかった。
この子をどうにか救ってあげたい。
そんな俺の気持ちが、和泉にはこれっぽっちも届かなかった。
俺なんかの力では、この子を救ってあげることは気できなかった。
教師として、1人の大人として。
これほどまでに情けないことはない。
俺は所詮、口だけでしかものを言えない、ただ無力な存在なのだと。
和泉が浮かべた悲しげな笑みを見て、情けなくも思ってしまったのだ。
「失敗したら遠慮なく呼べな」
「うん、わかった」
だから俺は、和泉にそれだけを伝えた。
それだけを伝えて、彼女に背を向けてしまった。
一定に揺れ動く時計の秒針を目で追いながら。
俺は今初めて、和泉美羽から自分自信を逸らしたのだ。
* * *
その日の放課後。
俺は晴れない気持ちのまま、1人廊下を歩いていた。
「あれ、せんせー」
マイデスクがある科学準備室に向かうその途中。
昇降口で偶然和泉と鉢合わせして、声をかけられた。
「お、おう。和泉」
いきなりということもあって、一瞬動揺しかけるも。
あくまでただの偶然なので、俺はすぐに平静を取り戻した。
「今帰りか」
「うん、これからバイト」
「そ、そうか」
しかし。
和泉が吐いた『バイト』という単語で、またもや心を乱される。
この子はまた、あの風俗店に行ってしまうんじゃないか。
そう考えると、抑えていたはずの何かが、俺の気持ちを蝕む。
何のバイトなんだ?
とは、口が裂けても聞けなかった。
今の俺には、聞く資格すらなかった。
「せんせ、今日の実験楽しかったよ。皆んなも喜んでたし」
「そうか。なら良かった」
「レポートって来週までに出せばいい?」
「ああ。今日の結果をまとめて、来週の授業で提出してもらう」
「じゃあそれまでにちゃんとまとめておくね」
そう言うと和泉は、下駄箱から靴を出してパタンと床に置いた。
「それじゃせんせ、またね」
「ああ。帰り気をつけてな」
ニコッと微笑んで、和泉は昇降口を出る。
トントンと床を鳴らし、歩きながら靴を履くその様子が、妙に可愛らしかった。
そんな和泉の後ろ姿を見て、俺は密かに思ったのだ。
(やっぱりなんとかしてやらなきゃだよな)
まだ高校生である和泉を、守ってやれる存在。
そんな存在がいるとするなら、それは間違いなく俺だろう。
あの子の事情を知っていて、なおかつ大人であり教師でもある。
そんな立場にいる俺が、もしこのままあの子を見捨てたとしたら。
この先誰が、あの子を救ってやれるのだろう。
逸れてしまった道を、誰が正してやれるのだろう。
生徒を正しく導くのが、教師である者の務めだ。
その役割を担っている限り、俺はもう二度と迷いはしない。
自分の気持ちに従い、生徒であるあの子にぶつかって行くだけだ。
例え和泉に拒絶されようと。
それで俺が教師をクビになろうと。
今解くべき問題の答えは、今この時にしか存在しない。
ならば。
ならば今頑張らなくてどうする。
全力で生徒を守ろうとしなくてどうする。
せっかくの高校生活だ。
和泉には、飽きるほど笑って過ごしてもらわないとな。
「よし」
自分を奮い立たせるように、両手で頬を鳴らす。
足を一歩踏み出した先にあるのは、科学準備室……ではなく。
和泉美羽という1人の生徒が、心から笑って過ごせるそんな日常。
そんな日常のために、俺、
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