第4話 嘘

「痛くはないですかー」

「うん、すごく気持ちいいよ」


 私が触れると、おじさんはそう言った。

 歳は40代半ばくらいで、背は小さく小太り。

 もちろん、もう服は着ていない。


「痒いところがあったら言ってくださいねー」


 そんなおじさんの背中を、私は両手で優しく撫でる。

 肌の上で泡を転がすようにして、出来るだけいやらしく。


「……ハァ、もっと強くても大丈夫だよ」


 言われるがまま、手に込める力を強めたり。

 たまに爪を立てたりして、背中全体を刺激する。


「これならどうですかー?」

「……ハァン。いいよ、すごくいい」

「うふふ。次はもっと気持ちよーくしますからねー」


 そして頃合いを見て、私はいつもの”アレ”をやる。


「お客様、おっぱいはお好きですか?」

「おっぱい……うん、すごく好きだよ」

「それでは次は、おっぱいで洗いましょうねー」


 容器に入ったシャンプーを両手で掬い。

 私はそれを自分の胸元によく馴染ませる。


 長い丈の白いシャツを着ているけど。

 水気や泡のせいで、もうほとんど透けてしまっていた。


「どうですかー。私のおっぱい」

「……ハァ、ハァ。すごく柔らかい……気持ちいい」

「うふっ、ありがとうございます」


 私が胸を押し付けると、おじさんの吐息が加速した。

 背中越しでも、おじさんが今どんな表情をしているのか。

 そして下腹部の”それ”が、今どんな状態になっているのか。

 それらが手に取るようにわかった。


あかり、、、ちゃん……次は前も洗ってよ」

「うふふ、もうしょうがないですねー」


 もうここまで来たら、大抵の人は止まらない。

 欲望のままに私の身体を楽しんで、舐め回して。

 そして最後は、快楽を覚えて店を後にする。


 私の仕事はそんな男性のサポートをすること。

 少しでも高いサービスを受けて帰ってもらえるように。

 自分の気持ちに目を瞑って、私はひたすら身体を売る。


 例えそれが愚行だとしても、構わなかった。

 誰にも認めてもらえなくても、続けるしかなかった。


「あかりちゃん。そろそろしよっか」

「はい」


 そしておじさんは、私を抱いた。

 指示されるがままに、股を開くことしかできない。

 そんな私は今、誰かの欲を満たすための”人形”でしかなかった。




 * * *




 仕事を終えてお店を出ると、雨が降っていた。

 学校からここへ来た時は、まだ降っていなかったけど。

 そう言えば今日は、台風が近づいているんだった。


「あ、傘」


 不意に自分が傘を手にしていないのを思い出す。

 こうなるのを想定して、家から持って来てはいるけど。

 どうやらお店の控え室に、傘を忘れてしまったみたいだ。


(取りに戻ろうかな)


 そう思ってもう一度、真っ暗な空を見上げてみる。

 確かに雨は降っているけど、台風にしては小ぶりに感じた。


 傘を取りに戻らないで、このまま濡れて帰ってもいいかも。

 そんな考えに至る私は、ちょっとおかしいのかもしれない。

 こんな仕事を続けているせいで、壊れちゃったのかもしれない。


「ほんと、何してるんだろ私」


 自然と小さな笑いが溢れる。


 自分がとても惨めで。

 笑っちゃうほど愚か者で。

 生きることさえも、投げ出したくなる。


 明日なんか来なければいいのに。


 そんな子供みたいなことを、本気で考えてしまう。

 救われないとわかっているのに、期待してしまう。


 それが和泉美羽いずみみはねという1人の人間。

 私はそんな自分のことが、憎いほど嫌いだった。


「傘、取りに戻ろ」


 もう一度空を見上げ、私は思いとどまる。

 雨に濡れて帰るのは、別に構わないけれど。

 明日も学校があるから、制服だけは濡らせなかった。


 このままずっと雨が降ればいいのに。

 そう心で思いながら、私は見上げていた視線を元に戻した。


「何やってんだ、お前……」


 そんな声が、視界の中から響いた。

 視線を戻した先にいたのは、傘をさした1人の男性。

 その顔を見て、私は一瞬、思考が止まったように固まった。


「せんせー……なんでここに」


 不意に私たちの視線が重なる。

 重なったまま、しばらく視線を反らせなかった。


 多分私は動揺しているんだと思う。

 思ってもいなかった出来事に、怯えているんだと思う。


「和泉……だよな」


 でも。

 その動揺は、波が引くように薄れていった。


 唖然とした様子で、そう呟いたせんせーの声音。

 それを聞いた瞬間、動揺しているのは自分だけじゃない。

 咄嗟にそう判断することができた。


「あ、雨宿りしてたのか?」


 そして次の言葉を聞いて、私は思った。

 まだなんとかなるかもしれないって。


 だから。


「うん、そうだよ」


 私は一つ、嘘をついた。

 誰のためにもならない、自分を汚すための嘘を。




 * * *




 せんせーは、思ったよりも動揺していた。

 だから私は、二つ目の嘘をつくことにした。


「今日、傘忘れちゃったんだ」


 そう言えばせんせーが、私を傘に入れてくれると思ったから。

 傘に入れてさえもらえれば、もっとせんせーと一緒にいれるから。

 もっとせんせーと一緒にいれれば、誤魔化すチャンスがあると思ったから。


「おじゃましまーす」


 でもせんせーは、なかなか入れてくれなかった。

 だから私は、自分からせんせーの傘に入ることにした。

 そうしたらせんせーは、案の定私にこう尋ねてきたんだ。


「で、どうしろってんだこれ」


 待ってました。

 そう言いたいのを堪えて、私は一度考えるふりをした。

 あくまでも自然体で、できるだけそれらしく見えるように。


「このまませんせーのうちに行こうよ」

「はっ!?」


 そして頃合いを見て、私は軽い感じでそう言った。

 それにはせんせーも、当然のように驚いて、


「それはさすがにできないだろ……」


 と、何度も首を横に振った。

 どうにかして私から逃れようとした。


 でも。


 天は私に味方してくれた。

 どこのコンビニに寄っても、傘は売り切れ。

 おまけに雨風は、時間が経てば経つほど強くなっていく。


「参ったなこれ……」


 頭を抱えるせんせー。

 その困った顔を見る度に、私の不安は次第に薄れていった。


 この後どうしたら今日のことを誤魔化せるか。

 そんなことを考えられるくらいに、心の余裕ができていた。


「はぁ……仕方ねえ」


 そしてようやく。

 せんせーは、私をうちに上げる決心をした。

 この時にはもう、私の中の不安要素は少しもなかった。


 今日のことを上手く誤魔化すための方法。

 私はその方法をすでに導き出していたから。




 * * *




「ほれ、タオル」

「あ。ありがと」


 突然押しかけた私にも、せんせーは優しかった。

 雨に濡れたことを気遣って、私にタオルを貸してくれた。


「和泉、お前飯は食ったのか?」

「ううん。まだ何も」

「ならこん中から好きなの選べ」


 その上私がご飯を食べてないとわかると。

 何の迷いもなく、私にカップ麺の入った袋をくれた。


「貰ってもいいの?」

「俺だけ飯食うのもなんか気がひけるしな」

「ありがと。じゃあ私これ貰うね」


 そんなせんせーに甘えて、私は一つ貰うことにした。

 たくさん種類がある中から選んだのは、カレーヌードル。

 普段カップ麺を食べない私でも、これは昔から知っていた。


「お湯は使う分これで沸かしてな」

「うん、わかった」


 せんせーにポットを借りて、お湯を沸かす。

 ぺりぺりっと蓋を剥がすと、中からはカレーの良い匂いがした。






「せんせ、飲まないの?」


 じっとお酒を眺めるせんせーを不思議に思い、私は尋ねた。

 するとせんせーは、「んー」と喉を鳴らしながら、


「いや、だってお前がいるしな」


 と、思ってもいなかったことを言う。

 正直私はその言葉の意味を、いまいち理解できなかったけど。


 でも。


「別に気にしなくても良いよ?」


 私の口からは、迷わず言葉が出た。

 だってこれは、もう準備していた言葉だったから。


「じゃあ遠慮なく開けようかな」


 するとせんせーは、意外とあっさりお酒を開けた。

 もっと苦戦するかと思っていたから、少しホッとした。

 このまませんせーが酔っ払ってくれたら、私はなお嬉しい。


「……ッハァァァァ、うめぇ」


 せんせーの飲みっぷりはとても良かった。

 私が望んでいた以上に、ゴクゴクと喉を鳴らしてくれた。


「ねえせんせ。ビールってさ、美味しいの?」

「そうだな。控えめに言って超美味い」

「へー、なら」


 だから私は、ここで用意していたカードを切った。


「私にも少しちょうだいよ」

「……はっ?」


 あくまでも冗談ぽく見えるように。

 酔った勢いで「少しだけだぞ」と、言ってもらえるように。


 せんせーが持っていたレジ袋。

 その中にお酒が入っているのは知っていた。


 だからそれを上手く使って、何とかこの状況を変えらえないか。

 そう考えた結果、今の言動に結びついた。


 せんせーが私にお酒を飲ませたら、それは十分弱みになる。

 それを口実に、さっきのことをなかったことにだってできる。

 そう私は思っていたけど。


「ダメだ。お前まだ未成年だろ」


 せんせーは、思いの外冷静だった。

 何度も何度もお願いしても、お酒を飲ませてはくれなかった。


 だから。


「せんせ、エッチしよ」


 今度は欲望に訴えかけることにした。

 せんせーだって、立派な男の人だから。

 私がこうして誘惑すれば、絶対に落ちると思った。

 これでせんせーの弱みを握れると、確信さえしていた。


 でも。


「……えっ?」


 私の予想は当たらなかった。


「どうして……?」

「どうしてじゃねぇ。風邪引くぞ」


 戸惑う私に、せんせーはそんな優しい言葉をかけてくれた。

 それどころか、近くにあった上着で私の身体を隠してもくれた。


「エッチしないの?」

「するかバカ。俺は教師だぞ」


 その時、私は感じた。

 せんせーという人の優しさを。

 教師という仕事の大変さを。


 きっとせんせーは、私に触れたかったはずなのに。

 それなのに欲望を堪えて、私のことを守ろうとしてくれた。


 正直私は、自分で自分のことを可愛いと思っている。

 中身は別として、目に見える部分だけには少し自信がある。


 そんな私の身体を見て、何も思わないはずがない。

 たとえその相手が高校生だったとしても、男の人ならみんなそう。

 みんな私の身体だけを求めて、本当の私を見つめてくれる人は誰もいない。

 そう思っていたのに。


「お前も片付けて、早めに帰れ」


 せんせーは違った。

 せんせーだけは、本当の私を見てくれた気がした。


 だから。


「今日泊まっていっちゃダメ?」


 だから私は、そんなせんせーを利用した。

 教師という自分の立場を、ちゃんと理解しているせんせーを。


「でも台風だから帰るの怖いし」


 私の心は壊れているのかもしれない。

 以前からあった、自分に対する疑問。

 その疑問に今、ようやく答えが出た気がした。


 きっと私の心は、もう壊れてしまっている。


 自分に親切をしてくれる人を平気で騙す。

 思いやりのある優しい気持ちを平気で裏切る。

 ここまでしても何も感じない私の心はきっと。


 きっともう……。




 * * *




 せんせーのうちに、一晩泊まった私。

 結局せんせーは、私の身体にこれっぽっちも触れなかった。

 それどころか私のために、わざわざお布団まで用意してくれて。


(ほんと、せんせーは優しい)


 そんな優しい人を、私は貶めた。

 せんせーの気持ちを、踏みにじった。


「私は一旦うちに帰るから。せんせーだけで食べて」


 だから私は朝食を作ったのかもしれない。

 せんせーのために何かすれば、少しは気持ちが楽になる。

 そんな気がしたから。


「なあ和泉。ちょっといいか」

「ん、どうしたのせんせ」

「昨日のことなんだが」


 でも。

 そんなのはただの幻想でしかなかった。


「何であんな店にいたんだ」


 せんせーがそう言った瞬間、私は改めて思ったんだ。

 ああ、この人はなぜここまで私を気に留めてくれるんだろう。

 なぜ私なんかのために、ここまで本気になれるんだろうって。


「もっと自分を大切にしないとダメだろ」 


 だからこの言葉を聞いて、私は一瞬考えてしまった。

 こんな私のことを、大切に思ってしまっていいのかな。

 あれだけせんせーを裏切ったのに、希望を持ってもいいのかな。


 そんな気持ちが浮かんで来た時。

 せんせーは、私に優しげな笑みを向けてくれた。

 汚く霞んだ私の心を、明るく照らしてくれるような。

 とてもとても暖かい笑みを。


「よし。わかったらもうあの店には」

「無理だよせんせ」


 だから私は決心できた。

 これ以上、せんせーの気持ちを裏切れない。

 私のせいで、せんせーのことを穢せないと。


「もし誰かに話したら、私もせんせーのうちに泊まったことみんなに言うから」


 これでいいんだ。

 そう自分に言い聞かせて、私は自分の気持ちに蓋をする。


 もうこれ以上、誰も穢すことのないように。

 それだけが醜い私に残された最後の道だって。

 何度も何度も自分の心に言い聞かせて。

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