第3話 口実

「せんせ、エッチしよ?」


 脳裏に響いたその言葉で、俺の気持ちは一瞬たじろいだ。

 シャツがはだけていくにつれて、露わになる和泉の白い肌。


 決して幼くはないその胸元にも。

 大人顔負けの色気を秘めたその黒い下着にも。

 俺の理性を刺激するだけの、攻撃力があると言えた。


 1人の男として、今の和泉はとても魅力的に見えてしまっていた。

 少しばかり、よこしまな欲求が芽生えていたのかもしれない。

 この気持ちを解放したいと、情けなくも思ってしまったのかもしれない。


 でも——。


「……えっ?」


 それはあくまで、ほんの一瞬の話だ。


「どうして……?」

「どうしてじゃねえ。風邪引くぞ」


 たまたま側にあった上着を、和泉の頭から被せる。

 すると和泉は、そこから顔を出しきょとんとして見せた。


「エッチしないの?」

「するかバカ。俺は教師だぞ」


 そう言い捨てると、和泉は目を丸くして黙り込んだ。

 おそらくは俺の切り返しが、想定の範囲外だったのだろう。

 何にせよ、俺は生徒をどうこうするほど、落ちぶれた教師じゃない。


「分かったらさっさと前閉じろ」

「う、うん」

「はぁ」


 安堵にも似たため息をこぼし、俺は1人台所へ向かう。

 そして何事もなかったかのように空き缶を片付け。

 濡れた台拭きを片手に、テーブルへと戻った。


「お前も片付けて、早めに帰れ」


 少し気まずい空気の中、俺はボソッとそう呟いた。

 すると和泉は、ちょうど服を整え終えたようで。

 被っていた上着に袖を通すと、テーブルを拭く俺にこう言った。


「今日泊まっていっちゃダメ?」

「はっ? ダメに決まってんだろ」

「でも台風だから帰るの怖いし」

「ああ……」


 思わず納得したような声を漏らしてしまう。

 確かにこの天気の中、和泉を1人で帰らせるのは心配だ。

 ましてやだいぶ夜も更けたし、余計な不安要素も付いてくる。


「また余計なこと企んでるんじゃないだろうな」

「企んでないって。もうあんなことはしないから」

「本当か?」

「ほんとほんと」


 迷いなく頷くあたり、おそらくは本当なのだろう。

 しかし生徒を部屋に泊めるというのは、いささか気が引けてならない。

 状況が状況とは言え、もしこんなことを他の誰かに知られでもしたら。


 いや、今考えるべきはそうじゃないだろう。

 何よりもの優先は、生徒の安全じゃないのか。


 仮にこのまま返して事故にでもあったらどうする。

 この辺りは治安が悪い。事件に巻き込まれる可能性だってある。


 あいにく俺は車を持っていないので、送ることはできない。

 ならここは目を瞑って、一晩泊めてやるべきじゃないのか。


「ダメかな、せんせ」

「んん……まあ、仕方ないか」

「やった。ありがとね、せんせ」


 本人は何もしないと言っているし。

 とりあえずは一晩泊めるということでいいだろう。


「親御さんとか、心配してないのか」

「うん、大丈夫。私1人暮らしだし」

「そうなのか。立派なんだな」

「そんなことないよ」


 すると和泉は、おもむろに立ち上がった。

 そして食べ終わったカップ麺の容器を持って、台所へと向かう。


「あ、これ持っていっても平気?」

「ああ、悪いが頼む」


 その時台拭きも一緒に、台所へと戻してくれた。

 高校生にしては、気が利くいい子だと俺は思った。

 でも何かが引っかかる。


『そんなことないよ』


 俺が褒めた後に見せた、あの乾いたような笑み。

 あれは一体何だったのだろうと、胸に何かがつっかえた。




 * * *




 部屋を漂う、香ばしい良い香り。

 その香りに鼻を刺激された俺は、重い瞼をゆっくり開いた。


「ん……なんだ……?」


 ぼんやりとした意識の中聞こえてくるのは、聞きなれない音。

 何かを焼いているかのような、『ジュゥー』という快音だった。


「あ、せんせ、おはよ」

「和泉……何やってんだ?」

「何って、朝ごはん作ってるの」

「朝ごはん?」


 そう言われてテーブルを眺めると。

 もうすでにご飯と味噌汁が用意されていた。


「これ和泉が作ったのか?」

「うん。今日泊めてもらったから、そのお礼」


 俺が驚いている合間に、和泉はもう一品テーブルに運んでくる。


「はい、これで完成」

「おお、普通に美味そう」


 並べられた料理を見て、少しの感動さえ覚えた。

 あったかご飯に、豆腐とわかめのお味噌汁。

 おまけにベーコン付きの目玉焼きなんかもある。


「あれ、お前の分はどうした?」

「私は一旦うちに帰るから。せんせーだけで食べて」

「そうなのか」


 しかし用意されていたのは、1人分だけ。

 どうやら和泉は、学校の前に一旦帰宅するらしい。

 まあ年頃の女の子だから、普通に考えたらそれはそうだ。


「食べちゃっていいのか?」

「うん、そのために作ったから」


 そう呟くと、和泉は1人玄関へと向かった。

 床にペタッと腰を下ろし、おもむろに靴を履き始める。


(昨日のこと、聞いてみるか)


 そんな和泉の背中を見て、俺はふと立ち上がった。

 昨日からずっと触れられずにいた、あの店のこと。

 時間が空く前に、それだけは本人に確かめておこうと思った。


「なあ和泉、ちょっといいか」

「ん、どうしたのせんせ」

「昨日のことなんだが」


 俺がそう切り出した刹那。

 明らかに和泉の表情が、曇ったのがわかった。


「何であんな店にいたんだ」

「まあ、いろいろあってさ」

「まさかとは思うが、あの店で働いてたりしないだろうな」


 続けてそう言うと、案の定和泉は黙り込む。

 その様子を見て、俺は「はぁ」と深いため息をこぼした。


「いいか和泉、お前はまだ高校生だ。あんな店で働いてたらダメだろ」


 薄々そうじゃないかとは思っていたが。

 どうやら俺の予想していた通りの展開らしい。


 昨日あの店の前で、傘を持たず立っていた和泉。

 普通に考えれば、あれは明らかにおかしな現場だった。


 駅からも離れているあの場所で雨宿りなんて。

 そんなの不自然にもほどがあったのだ。


「どうしてだか理由を教えてもらえるか?」


 俯く和泉に尋ねるが、返事はない。

 ただじっと、俺に背中を向けたまま黙り込んでいる。


(言いたくないのか)


 当然と言えば当然の反応と言える。

 ましてやこの子は色々と難しい年頃だ。

 大人に知られたくないことの一つや二つ、そりゃあるだろう。


 でもだ。


「今からでも遅くはない。あんな店で働くのはもうやめろ」


 こればっかりは教師として見逃すわけにもいかない。

 なぜなら俺たち教師には、生徒を守らなければならない義務があるから。

 生徒が道を外れてしまったのなら、それを正してあげる責任があるから。


 いくら生徒が返事をくれなくたって。

 教師として伝えなきゃいけないことはある。


 それが教え子ならなおのこと。

 普段の和泉を知っているからこそ、俺は心配でならない。


 何か大きな事件に巻き込まれてるんじゃないか。

 そう思うと、この子を放っては置けなかったのだ。


「お前のことだ。何か事情があるのもわかる。でもな」


 俺はふと、和泉の頭に優しく手を添える。

 すると俯いていた和泉は、微かに顔を上げた気がした。


「もっと自分を大切にしないとダメだろ」

「自分を……大切に……?」

「そうだ」


 小さく響いた声は、とてもか弱かった。

 か弱くて、なぜか俺は少しだけ安心できた。


 高校生とは言え、やはりこの子はまだ子供なのだと。

 ちょっとしたきっかけで道を間違えることだってあるのだと。

 和泉の声を聞いて、改めて実感させられたのだ。


「何度間違えたっていい。またやり直せばいいんだ。その手助けをするために、俺たち教師はいるんだからな」


 静かに俺を見上げる和泉。

 その顔には、まだ少し不安の色が残っているようだった


 だから俺は、大丈夫だと優しく微笑む。

 俺はお前を信じるから、お前も俺を信じてほしい。

 俺が言った言葉の意味を、自分なりに受け止めてほしいと。


「よし。わかったらもうあの店には——」


 もうあの店には行くな。

 そう言いかけて、俺の言葉は上書きされた。


「無理だよせんせ」

「……えっ?」


 思ってもいなかった言葉が、俺の耳に飛び込む。

 てっきり和泉は、わかってくれたものだと思っていた。

 だが実際はまだ、俺の言葉は彼女の心に届いてはいなかった。

 

「このことは誰にも言わないでね」


 顔を上げた和泉は、微かに笑いそう言った。

 今まで俺が告げた言葉には、一切触れることはなく。

 ただこの事実だけは、誰にも言わないで欲しいと。


「そ、そんなのはダメだ!」


 それでも。

 俺は彼女を諦めなかった。


「そんなことしたって何も変われないだろう」

「変わらなくたっていい。私はこのままでもいいの」

「それじゃ一体、誰がお前を守ってやれるんだよ」


 今の和泉は、きっと1人で抱え込んでいる。

 だからこそ俺が、少しでも和泉の力になってやりたい。

 辛いはずの現状を、どうにか変えてあげたい。


「和泉、俺はお前を——!」


 俺はお前を見捨てない。

 本心からそう言いかけて、微かに残る俺の想いが散り失せた。


 和泉が吐いた、最後の言葉を聞いてしまったその時。

 俺は無理にでも気付かされたのだ。


「もし誰かに話したら、私もせんせーのうちに泊まったことみんなに言うから」




 * * *




『今日、傘忘れちゃったんだ』


『せんせ、エッチしよ?』


『今日泊まっていっちゃダメ?』


 ねえ、せんせ——。




 真っ白になった脳裏に、まだ記憶に新しい言葉が蘇る。

 そしてそれが再生される度に、俺は気付かされるのだ。


 きっと和泉は、最初から全てわかっていた。


 こうして俺が、昨日の話を持ち出すことも。

 そしてそれを当たり前のように否定してくることも。


 わかっていた上で、和泉はあんな態度をとった。

 そしてこの状況を作るための口実を得ようとした。

 何が何でも、自分の秘密を守り抜こうとしたのだ。


「それじゃせんせ、また学校でね」


 立ち去る和泉に、ついには何も言えなかった。

 残された俺の中にあったのは、すごく複雑に絡みあう何か。


 そして彼女を導けなかったという、底知れぬ無力感。

 ただ……ただ、それだけだった。

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