第2話 誘惑

 雨雲に覆われた秋空の下。

 俺はとある風俗店の前で、教え子の女子高生と出会った。


 彼女の名前は和泉美羽いずみみはね

 今年度俺が科学を担当している、うちの高校の3年生だ。


 真面目で成績が良く、教師たちからの信頼も厚い。

 おまけに恵まれた容姿で、生徒からの人気も相当だと聞く。

 そんな彼女がなぜ、こんな場所で傘も持たずに雨宿りしていたのか。


「ねえ、せんせ」


 考えがまとまるより先に、和泉はぽつりと呟いた。


「私も入っていい?」

「入っていいってのは……?」

「今日、傘忘れちゃったんだ」


 すると和泉は両手を広げ、えへへと笑ってみせる。

 なぜそんな笑顔を見せられる余裕があるのだろうか。

 俺は心底不思議で、すぐに答えを返すことができなかった。


「おじゃましまーす」

「ちょおまっ……まだいいとは」

「ええー、いいじゃん少しくらい」

「いいじゃんじゃなくてだな……」


 戸惑う俺に構わず、和泉はすかさず俺の傘に入った。

 教師である俺と身体を密着させることを少しも躊躇することなく。

 空いていた僅かなスペースに、ぎゅぎゅっと身体を押し寄せてきた。


 だがあいにく俺の傘は、2人をカバーできるほど大きくはなく。

 自分を守ろうとすると、自然と和泉の肩は雨に晒されてしまっていた。


(風邪引くっての)


 スーツを濡らすのは不本意だが、こうなれば仕方がない。

 生徒を雨に当てたままにもできないし、俺はそっと傘を和泉に寄せた。


「で、どうしろってんだこれ」


 一応言われた通り傘に入れたが。

 これではただの其の場凌ぎでしかない。


 そもそも俺たちは、帰る場所が違うわけであって。

 このままずっと2人で、一つの傘を共有するわけにもいかない。


「うーん」


 すると和泉は、隣で態とらしく喉を鳴らす。


「このまませんせーのうちに行こうよ」

「はっ!?」


 そして飛び出したのは、想像の枠を超えた驚きの発言だった。




 * * *




 生徒を家に上げてしまった。

 もちろん最初は、そんなつもりさらさらなかった。

 どこかのコンビニで傘でも買って、それを渡して俺は帰ろう。

 そう思っていたのだが。


 あいにく傘は、どこに行っても売り切れだった。

 こんなことが本当にあるのか? と疑いたくもなった。

 しかし事実、どこのコンビニにも傘は売れ残っていなかったのだ。


「ほれ、タオル」

「あ。ありがと」


 ならば仕方がないと、俺は和泉を家に上げた。

 当然こんなこと、学校側にバレたらどうなるかわからない。


 一歩間違えれば懲戒免職……?

 いや、怖すぎるので考えたくもない。

 とにかくこれは、決して俺が望んでしたことではないのだ。


「はぁ……まいったなほんと」


 滲み出るようにため息をこぼし、俺は買った惣菜をレンジに入れる。

 表記された時間よりも少し長めにセットするのが、俺の中での主流だった。


「和泉、お前飯は食ったのか?」

「ううん、まだ何も」

「ならこん中から好きなの選べ」


 そう言って俺は、レンジの上にあった袋を和泉に投げ渡した。


「カップ麺?」

「ああ、食わないよりはマシだろ」


 その袋の中身は、買い貯めしておいたカップ麺。

 男の1人暮らしには、欠かせない食品の一つだ。


「貰ってもいいの?」

「俺だけ飯食うのもなんか気がひけるしな」

「ありがと。じゃあ私これ貰うね」


 そう言って和泉が手に取ったのは、定番のカレー味。

 よりにもよって、数ある中から俺が一番好きなやつを引き当てた。


(ラスト一個……楽しみにしてたやつ……!)


 とは一瞬思ったものの。

 口に出すような野暮なこと、教師である俺ができるわけもなく。

 むしろカレー派を見つけたという喜びを、密かに噛みしめることにした。


「お湯は使う分これで沸かしてな」

「うん、わかった」


 台所にいる俺の元に、とてとてと歩いてくる和泉。

 頭にタオルを乗せた制服姿の女子高生が、なぜか今俺の家にいる。

 そうやって現状を冷静に判断すると、やはり覚えるのは違和感しかない。


 俺はとんでもないことをしてしまってるんじゃないか。


 一度そう思うと、全身に寒気が走った。

 雨に打たれたからか、それとも焦っているからか。

 俺の身体と心の震えは、治ることを知らなかった。




 * * *




「せんせ、飲まないの?」


 小さなテーブルに置かれた銀色に輝く缶ビール。

 それをじっと眺めていると、向かいに座る和泉がそう言った。


「いや、だってお前がいるしな」


 生徒の前で、教師が酒飲むのは果たしてどうなのだろう。

 その思考がブレーキになり、俺はなかなか蓋を開けれずにいたのだ。


「別に気にしなくてもいいよ?」

「そうは言っても、気にするだろこれは」

「そうなの? 私は全然気にならないけど」


 そう言って和泉は、カレーヌードルをちゅるちゅると啜る。

 ほのかに香るカレーのいい香りに、思わず目移りしそうになるも、俺が今求めているのは食事ではなく、枯れた喉を潤すアルコールだった。


「じゃあ遠慮なく開けようかな」

「うん。今日も1日お疲れ様、せんせ」


 やはり目の前に用意された欲求には勝てず。

 微笑む和泉に乗せられるがまま、俺は意を決して缶の蓋を開けた。


 カポッ。


 素晴らしい快音が、部屋の中に響いた。

 これにはたまらず、俺は一気にビールを喉に流し込む。


「……ッカァァァァ!!」


 これぞ至福。

 俺はこのために生きていると言っても過言ではない。

 それくらいに仕事後のビールは、控えめに言って最高だった。


「いい飲みっぷりだね。せんせーはお酒好きなの?」

「ああ、人並みにはな」

「ふーん」


 鼻を鳴らし、和泉はカレーヌードルを啜る。

 それにつられるように、俺もビールを喉に流し込む。


「……ッハァァァァ、うめぇ」


 この感覚を何回味わってもやはり美味い。

 これには摘みを求める手も、止まることを知らなかった。


「ねえせんせ。お酒ってさ、美味しいの?」

「そうだな。控えめに言って超美味い」

「へー、なら私にも少しちょうだいよ」

「……はっ?」


 動かしていた手が、一瞬止まる。

 がしかし、俺はすぐ冷静になって和泉を睨んだ。


「ダメだ。お前まだ未成年だろ」

「ええー、いいじゃん少しくらいなら」

「ダメだ」

「むぅー」


 可愛らしく膨れたところで「はい、いいよ」とはならない。

 俺はそれ以上せがまれないように、一気に残りのビールを飲みきった。


「……ッハァァ。お酒は二十歳になってからだ」

「せんせーのけち」


 そう言うと和泉は、不機嫌そうにカレーヌードルを啜った。

 せめて食べている時くらいは、幸せそうな顔をしてほしいものだが。

 まあ確かに1人だけ満足げな顔をしていたのは、申し訳なかったな。




 * * *




「ふぅー。ごちそうさまでした」

「おう、お粗末様」


 最後のスープを飲みきって、和泉は幸せの吐息を漏らした。

 たかがカップ麺でこれだけ満足できるのも、全てはカレーヌードルの凄み。

 始めこそ「最後の一個が!」とか思ったりもしたが、食べた本人が満足してくれているなら、それはそれで本望だった。


 ちなみに俺は、あの後ビール以外のお酒を飲まなかった。

 冷蔵庫にはいくつか缶チューハイが入っていたが、流石にこれ以上生徒の前でお酒を飲むわけにもいかず、結局晩酌らしい晩酌は出来ず仕舞いだった。


 なぜか和泉は「もうおしまいなの?」なんて、俺に酒を勧めるようなことを言ってきたりしたが、そこはなんとか心を鬼にして堪えて。

 食事を終えてみれば、ただ少量のアルコールを身体に流し込んだだけで、酔っ払いの『よ』の文字もわからないくらいに、素面を貫き通していた。


「そんじゃ片付けますか」


 そう言って俺は、おもむろにその場を立ち上がる。

 飲み干したビールの缶を片手に、台所に向かおうとすると。


「ん?」


 後ろから服の袖を、和泉に引っ張られた。

 何事かと思い振り返ると、なぜか和泉は制服の上着を脱いでいた。


「何してんだお前……」

「せんせ、エッチしよ」


 耳をくすぐるような言葉が聞こえたかと思えば。

 和泉はおもむろに、シャツのボタンを外し始める。


 上から一つ、二つ、三つ。

 次第に服がはだけていき、その隙間から胸の谷間がチラつく。


「おまっ……いきなり何言って」

「エッチ、しよ?」

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