うちの高校の生徒が風俗嬢だった話

じゃけのそん

第1話 プロローグ 曇天 

 ゴォォォォォォ……。


 窓の外を鈍い音の風が通り過ぎた。

 立ち並ぶ木々は、揃って枝葉を揺らし。

 施錠のされたガラス窓は、ガタガタと軋むように音を鳴らす。


 昼まで晴れていたはずの空は、すっかり厚い雲に覆われて。

 まだ小粒ではあるが、風に乗った雨水が、目の前のガラス窓に勢いよく打ち付けられていた。


「もう降ってきやがったのか」


 そんな曇天を前に、俺はふと廊下に立ち止まった。

 なまりのようなグレーに染まった空を、窓越しに見上げると、どうしてか自然と深いため息が漏れてしまう。


「電車、動いてっかなぁ……」


 そう悲観してもなお、自然というものは容赦を知らない。

 猛暑が続く夏を乗り越えると、決まってこいつらはやって来る。

 やって来たかと思えば好き放題暴れて、我ら日本人の大事な足である交通手段を理不尽にもかき乱してくれるのだ。


「勘弁してくれよな、台風……」


 天に願ったその直後、窓の外をまたもや強い風が吹いた。

 どうやら今回の来日でも、好き放題暴れるつもりらしい。

 とにかく俺が帰るまで、電車だけは止めないでいただきたいものだ。


「おっ、なべさん。こんなとこに突っ立って何してんの?」

「……三浦。何だお前まだ学校に残ってたのか」

「まあちょっとやることあってねー」


 すれ違い越しに声をかけてきたのは、三浦という男子生徒。

 俺が今年度科学の授業を担当している、文字通りの教え子である。


「天気だいぶ荒れてるみたいだから、お前も気をつけて帰れよ」

「わかってるってー。そんじゃなべさん、ばいびー」

「ああ、ちょっと待て」


 颯爽と帰ろうとする三浦を、俺は慌てて呼び止める。


「明日の1時間目、確かお前らのクラス実験だったろ?」

「ああー、そういやそうだったかも」

「一応言っておくが、絶対に遅刻すんなよ? お前に関しては単位落としかねないからな?」

「げぇー、りょうかーい」


 何とも不安な返事を残した三浦は、ひらひらと手を振りながら昇降口の方へと走り去って行った。


 果たして彼は、俺の言葉の意味をちゃんと理解してくれたんだろうか。

 いつもこんな調子で接して来るため、その本心は俺とて良くわからない。


「”なべさん”、か……」


 思い返せば俺は、いつしか生徒にそう呼ばれるようになっていた。

 最初こそは『渡辺先生』とか『瑛太先生』とか呼ばれる機会が多かったが、担当している生徒の学年が上がるにつれて、俺への態度は友達に向けるそれと何ら変わりないものになってしまった。

 

 まあ俺自身、そう呼ばれるのは別に構わないのだが。

 やはり一教師としては、生徒との正しい距離感というものを、守るべきなのだろうとは思う。


 その証拠に俺は、よくこの手の話題で教頭に説教を食らう。

 生徒と教師は決して友達ではないと、口うるさく注意される。


 別にいちいち言われなくとも、ちゃんと理解はしてるのにな。

 頭の固いお偉いさんは、いつだってそういった説教が大好きなのだ。


「まあ俺も、どうにかしようとは思わないんだけどな」


 今更接し方を変えたって、どうにかなるわけでもない。

 むしろ逆に生徒に対して、余計なストレスを与えてしまうだけだ。


 だったら無理して現状を変える必要はないだろう。

 どうせ彼らは3年も経てば、決まって卒業していくのだから。


「どれどれ。さっさと準備済ませて帰りますかね」


 でもまあ教師として、必要最低限の仕事はこなさなければならない。

 明日の1時間目に控えた科学の実験に向けて、とりあえず今日のうちに、やれるところまでは準備しておこうと思う。




 * * *




 実験の準備が完了した頃には、もうすでに外は真っ暗になっていた。

 台風がどんどん近づいて来たが故に、普段聞こえてくるはずの運動部の声は一切なく、職員室内にも誰1人として教師の姿は見当たらない。


(これ、帰るタイミング間違ったか……?)


 そう思った時にはもう時すでに遅し。

 電車が止まっている光景が、目に見えるようにわかるほどだった。


 とはいえだ。

 何もせず諦めるのも少し違う気がした。

 なので俺は雨風の中、一度最寄り駅まで行ってみることにした。


 すると。


 奇跡的に電車は止まっていなかった。

 止まるどころか、少しの遅れもなく平常運転を保っていたのだ。


 これには流石の俺も大歓喜。

 最悪『晩酌を我慢してのタクシー帰り』くらいまでを覚悟していたので、こうして普段通り帰宅できるのは、嬉しい以外の何者でもなかった。


 ということで無事、俺はアパートの最寄り駅までたどり着けたわけだが。

 未だ雨風に関しては、相応に吹き荒れており、不用意に外出するのは、あまり好ましくないような状況でもある。


 従来の台風よりは大人しいが、なかなか通過はしてくれない。

 どうやら今回のお台風様は、すこぶる長居するのが好きらしい。


「酒買って帰るか」


 タクシー代が浮いたので、俺は予定通りコンビニへと立ち寄ることにした。


 店内に入っては、まっすぐ飲料品コーナーへと向かい。

 1日の疲れを癒すべく、とりあえずビールをひと缶手に取る。

 続けて摘みになりそうな惣菜を適当にカゴへと放り込んでいって。


(まあ、こんなもんか)


 おおよそ納得できたところで、すぐさま会計を済ませ店を出る。

 今日は天気が荒れているため、惣菜の温めは家のレンジですることにした。


「はぁ……風つよ」


 台風にしては控えめとはいえ、傘は好き放題風に流される。

 おかげでスーツの裾は濡れ、ネクタイまでもが雨水で変色している。


(明日も仕事なんだけどなぁ……)


 なんて少しばかりイラついていると。

 道の雰囲気はガラッと変わり、明るい飲屋街へと入った。


 だがやはり台風ということもあって、人通りは普段より少ない。

 一応店はやっているようだが、この天気だと集客も望めないだろう。

 飲食店というのは、本当に不憫ふびんで、大変な仕事だとつくづく思う。


(いつもご苦労様です)


 俺はそう心で唱えて、変わらず家までの道のりを辿る。

 たまにガラス越しに見える飲み屋の内状を確認したりして、「ああー、今日もおっさんは変わらず飲みに来てるんだなー」なんてのんきに考えていると。


 ふと目を向けた先に、若い女性の姿が目に入った。

 飲屋街の外れ。とある店の入り口で、1人雨空を見上げているその人は、どうやら傘を持っていないようだった。


 とはいえ、雨宿りしているわけでもなさそう。

 おそらくは、店から出ようとして、雨に足止めされているのだろう。

 にしてもこんな日に傘を忘れるなど、ご愁傷様としか言いようがない。


「……って、この店」


 ふと店の外観に目を向けた俺は、そこそこの違和感を覚えた。

 立てられた看板を見る限り、間違いなく”アレ”な感じのデザインで。

 おまけに店名は『むにゅっと爽快そーぷらんど!』と表記されている。


(こんな店あったか……?)


 この道はよく通るのだが、今まで全く気がつかなかった。

 よくもまあこんな台風の日に、元気はつらつと営業していらっしゃる。


 まあやっているからには、少なからず利用者がいるのだろうが。

 にしてもここまでの活気を見せられると、俺とて少しは興味を惹かれる。


 俺はちらっと店の外観を見ながらその場を通過する。

 あくまで興味がありませんよ、という姿勢を保ちながら。

 素通りではなく、視界の片隅にしっかりとその光景を焼き付けるようにして。


「……ん?」


 そして店の入り口で、雨空を見上げる女性に目を向けた瞬間。

 その場から歩き去ることなど忘れ、俺は思わず店の前に足を止めた。


「何やってんだ、お前……」


 俺がそう口から漏らすと、その女性はハッとしたように俺を見た。

 そしてしばらく無言で視線をぶつけ合うと、か細い声でこう言ったのだ。


「せんせー……なんでここに」


 俺を先生と呼ぶ彼女。

 長く艶やかな黒髪に、光を反射するほどの白い肌。

 すらりと伸びた背丈に似合う、清楚で落ち着いた雰囲気。

 その服装、態度、顔立ちからして、間違いなくうちの生徒。


 いや、それ以前に。

 俺はこの生徒と、少なからず面識があった。


和泉いずみ……だよな」


 名前を口にした瞬間、綺麗さっぱり思考が飛んだ。

 ありえない現状を前にして、俺の脳が機能を停止した。


「あ、雨宿りしてたのか?」


 終いにはそんなことを言い始める始末。

 まずもって女子高生がこんなところで雨宿りするはずないのに。

 現状を正しく認識できないほどに、俺は心底動揺させられていた。


「うん、そうだよ」


 そう口にした和泉は、微かに微笑んでいた。

 でもその笑みからは、人の温かさを感じられなかった。

 まるで何かに怯えているような、そんな悲しい笑みに見えた。


「お前……ここ風俗だぞ」

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