第5話 避けられぬ事態
「あ」
自分の部屋の前、アパートの鍵を取り出そうとしてようやく、僕は思い出した。僕の部屋に居座っている存在のことを。
「どうした?」
不意に固まった僕へ、香坂が声をかけてくる。
「ああ、うん。ちょっとね……」
僕は適当に言葉を濁しつつ思考を回転させた。
ここまで来て場所を変えるのは難しいだろうからシオンのことをどう説明するかを考えるしかなくてつまり「ああ、この子? しばらく親戚の子を預かることになってるんだよ」パターンでファイナルアンサー?
……うん、まあ、そんな感じで。
思考時間1秒で結論を出した僕はドアノブに鍵を差し込んで捻った。軽い開錠音を確認し、鍵を引き抜いてドアを開く。
左手側には台所、右手側にバスルームとトイレ。真正面には開け放した扉の向こうにリビングが丸見えという僕の部屋。
予想外なことに、シオンの姿は見えなかった。
希望通りというか都合が良いのは確かだけど、少しばかり肩透かしを食らった気分だった。
靴を脱いで、居住空間に足を踏み入れる。
「お邪魔しま~っす」
香坂も僕に続いた。僕はリビングへ直行してシオンの姿を探したが、玄関から見えない死角にいた、ということもなかった。
まさか、本当に出て行ったのだろうか?
と一瞬思ったが、考えてみれば、鍵がしっかりかかっていたのだから室内にはいるはずである。
「わり、ちょいトイレ貸して」
「うん」
1Kの部屋で隠れられる場所なんて、必然的に限られてくる訳で。
「あれ?」
がちゃがちゃとドアノブを回す香坂を見れば、さっき考えた説明が必要になってくるのは明らかだった。
「入ってまーす」
案の定、トイレの中から子供の声が聞こえてくる。
「うわっ、すんません」
一向に開かないドアに四苦八苦していた香坂は、謝りながらドアノブを掴む手を離し、リビングに向かって一歩踏み出したところで、
「っておいおかしいだろ!」
振り返りざまのツッコミを入れた。
びしぃ!っとお手本のような角度で固定された腕の延長線上、すなわちトイレから、水を流す音とともにドアが開き、シオンが出てくる。
「……桐生、お前」
ツッコミの手を下ろした香坂は、一人暮らしの男の住むアパートのトイレから出てきた子供を見て、若干震えが入った声を漏らした。
僕のほうを向き、哀れむような表情で言う。
「やっちまったな……」
どうやら彼は誤解をしているみたいだった。
「んで? どっから拉致ってきたの、あの子?」
「ひどい誤解だ。重ねて言うよ? ひどい誤解だ」
右手をサムズアップの形にしてシオンを指差す香坂に、僕ははっきりと否定の言葉を返す。ほら、きっちりしておかないといけない大事なことだからね。
「けど、まあ、あれだ」
振り向いてちらりとシオンを見た香坂は、
「Good job !」
すごくいい笑顔と発音でサムズアップをした。
「警察呼んでいい?」
僕は即座に携帯電話を取り出した。
「ねえ、お兄さん。この人はなんなんだい?」
僕らのやりとりをじっと眺めていたシオンが、香坂を指差して尋ねる。
うん、僕はむしろ君がなんなんだって言いたいよ。言わないけど。
「こいつは僕の友達の香坂。この子はシオン。親戚の子で、しばらくの間だけ預かることになってるんだよ」
僕は用意した説明を一息に喋り、シオンに目配せをした。シオンは一瞬きょとんとしたかと思うと、『ああ、そういうことね』という表情を浮かべる。賢い子だった。
「はじめまして。シオンです」
ぺこりと丁寧なお辞儀をするシオン。この子供の図々しさを知っている僕には、その謙虚さは猫を被っているようにしか見えない。
「こんにちは。一人でお留守番して偉いね~」
「このくらい朝飯前だよ」
「そっか~。すごいなぁ」
にこっと笑ってシオンは自慢げに胸を張った。あの妙に大人びた口調は鳴りを潜めているので、いかにも子供っぽい。
香坂もその見かけの愛らしさにすっかりやられてしまっている。イケメンな笑顔のまま、香坂は僕に向かって言った。
「なぁ桐やん、この可愛い生物持って帰っていい?」
「ダメ」
爽やかな笑顔で言うことじゃないよ、それ。
「否定はやっ。ま、いいや。……シオンくん、あっちでお兄さんとゲームしようか」
「うん」
見事なまでのデレデレっぷりを披露する香坂は、シオンの手を引いてリビングに踏み込んだ。途端、香坂の携帯電話が鳴る。
「はいもしも……」
にっこにこしながら、相手の確認もせず電話に出た香坂の笑顔がぴしりと固まった。顔色をみるみる悪化させた香坂は、最終的にはうなだれ、
「すぐに行きます、はい」
と弱々しく言って電話を切った。携帯電話のディスプレイに目を落として、香坂は深々とため息を吐く。それと重なるようにして、今度は僕の携帯電話が震えた。
なんとなく誰からの電話か察しが付いた僕は、すぐに通話ボタンを押して携帯電話を耳に押し当てた。
「ヘェェェェイユゥゥゥゥゥ。カモォォォォン」
地の底から這い上がってくる死霊の呼び声のような、およそ人の声とは思えない重低音が流れてきた。悪戯電話ではない。知り合いの声だ、一応。
恐るべきは、聞くだけで人を地獄に引きずり落とせそうなこの声を発しているのが、女性であるということだろうか。
僕は余計な言葉を使わず、一言で返した。
「イエス、マム」
僕と香坂のサークル参加が決定した瞬間だった。
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