第2話 2度あることは3度ある
大学の講義が全て終了し、さあこれからバイトに行こうというときだった。またしても僕は見つけてしまった。
あの子供だ。
ツナギのポケットに両手を突っ込んで、相変わらず首からは板切れを提げていた。通行人からの不躾な視線も受け流し、道端にひとり突っ立っている。
自転車があったら風のように通り抜けられるのにな、とちらりと思った。まあ大学に戻る前に見たらハンドルが競技用自転車みたいに折れ曲がっていたから、仕方がないといえば仕方がない。
誰の仕業か知らないが、さぞ労力が要る作業だったろう。ご苦労なことだ。
修理代の心配をしなくてはならなくなってしまったが、あれを直すとなると一体いくら掛かるのだろうか。
「ねぇねぇ、お兄さん」
次のバイト代が入るまではあまり余計な出費はしたくない。いっそ新しく自転車を買った方が安上がりなのか?
「お~い」
しかし変形しているとはいえブレーキは正常に動作したし、左右のバランスも問題なかった。悪戯の主は意外にも凝り性のようだ。サドルをどうにかすればいけるかもしれない。
「ちょっと~?」
いや、それにしたって僕にあの似非競技用自転車を乗りこなせるとは思えない。やはり買い換えるかもしくは修理をするしかないな。とまあ、それはいいとして。
「なぁなぁ、無視するなよ~」
「……僕になにか?」
溜め息を吐いて立ち止まる。
考え事に没頭していて気付きませんでした、というパターンでやりすごそうと思ったけど、どうやら無理みたいだ。というか後ろをてくてく付いて歩かれるどころか目の前に立ち塞がられては、さすがの僕も対応せざるを得ない。
「おぅ。やっと止まってくれたね、お兄さん」
身長差とフードに隠されて口元しか見えないが、子供の表情に怒りの色は見えなかった。むしろ面白がっている、と感じられる。悪戯っぽい笑みが、冗談のような格好にとても似合っていた。
さて、こうなった以上もう無視は出来ないだろう。かくなる上は、僕の取る手段はただ一つ。
「拾ってくれよ、お兄さん」
「悪いけど他を当たってくれ」
ばっさり切り捨てるのみである。
こういうところがクール、冷静などと表わされる原因なのかもしれないが、とりあえず僕に躊躇はなかった。
「うわぉ。直球だね、お兄さん」
と、どこか愉快そうに驚く子供の脇をすり抜ける。子供はもう追ってはこないようだった。
バイト先に向かう途中、二度あることはなんとやら、という諺がちらと頭に浮かんだが、僕はすぐにそれを思考から追い出した。
まさか。さすがにそれはないだろう。
否定しつつも、絶対にないと確信はできない僕だった。
バイト帰りのことだ。
「やぁ、また会ったね、お兄さん」
二度ならず三度までも、この子供は僕の前に姿を現した。
まあね、ちょっとくらいは考えてたよ。また遭遇するかもしれない、なんてことはさ。
でもね。
僕の部屋の真ん前で待ち構えているとは思わないだろう、普通。普通は。(念押し) 普通はさ?(さらに押し)
なんかさも偶然だと言わんばかりの気軽さだけど、明らかに待ち伏せてるよね? 帰宅待ちだったよね? ストーカー? その年齢にして早くもストーカーなの?
とまあ、少しばかりツッコミスキルが高い人間ならこのように問い詰めるのだろうけど、あえて僕は何も言わなかった。
だって、ここで相手にしたらまず間違いなく面倒くさいことになるじゃないか。もう手遅れな気がしないでもないけど。
アパートの鍵を取り出し、自分の部屋の前に立つ。傍らから見上げる視線を感じるが、僕の横にあるのは空気の固まりであると思い込むことにして、努めて普段通りに振舞った。
僕が通れる分だけドアを開けて体を滑り込ませる。閉じていくドアの向こうに子供の姿が消える――
「まあまあちょっと待ちなよ、お兄さん」
――直前にドアとドア枠の間に素早く足を挟めて、子供は言う。やけに自然で滑らかな動きだった。
「足挟まってるよ」
なんとなく僕も自然な感じで指摘してみる。ドアノブをしっかり掴んだままで。子供はにやりと笑って答えた。
「挟めてるんだよ、お兄さん」
うん、そうだろうね。僕にもそうとしか見えなかったよ。
「……」
間を取るように、どちらも沈黙。救急車のサイレンや犬の吠え声が遠くに聞こえた。
「拾っ……」
「断る」
容易に予想できた台詞に、被せるようにして言葉を遮る。僕の反応の速さに驚いたのか、子供はしばらく押し黙ったあと、
「つれないね、お兄さん」
と、いくらかトーンダウンした声で言った。
「まあね」
僕はそっけなく答えを返し、そして今更ながら気付いた。昼間と違い、目の前の子供は首から板切れを提げていない。思わず眉を顰め、理由を考えかけたが、思い直してやめた。
関係ない。本気で相手をするつもりなどさらさらないのだから、考えたところでどうもなりはしない。それより、今はどうやってこの子供を追い払うかが問題だ。
「ところでお兄さん。そろそろ入れてくんないかな」
うん、時間が経ったからって部屋に入れる気にはならないからね?
口に出しかけたツッコミをかろうじて飲み込む。危ない危ない。今はできるだけ短くそっけない言葉を心がけなくては。
ここで相手のペースに乗せられてしまったら、ぐだぐだと長引いてしまうに違いない。という訳で、さっさとお帰り願うとしよう。
僕は子供から視線を外し、顔をあげた。アパートの二階、僕が生活する205号室の玄関からは、道路を挟んでこじんまりした公園が見える。
今は夜なので、古びた外灯がそこそこ頑張っている様子しか見えないのだけど……。
外灯の照らす場所をなにげなく見た僕は、思い切り、これでもかとばかりに目を見開いた。
「……お兄さん?」
子供が不思議そうな声で僕を呼ぶ。しかし、僕はそれに答えない。半開きにした口からは、何も言葉が出てこなかった。
驚いた表情を浮かべる僕の視線を追い、何事かと子供が振り向く。
そこには――
「てい」
「あ」
残念。特に何もなかった。
足元がお留守になった隙をついて、僕は子供のつま先を軽く蹴った。すかさずフリーになったドアを閉め、施錠とチェーンロックをほぼ同時に行う。
これぞ僕の友人発案『あっち向いてホイ作戦』。ダメで元々、ぶっつけ本番だったけど、予想外に上手くいって僕も少々驚いた。聞かされたとき「そんなの何の役に立つんだよ」と返したこれを、まさか実践する羽目になるとは、しかもちゃんと効果を発揮するとは思いもしなかった。
持つべきものは友達ということか、と僕が妙な感心をしていると、ピンポーンとチャイムが鳴った。鳴らしたのが誰か、なんてことは考えるまでもない。
ちょっと迷ったけれど、インターホンに手を伸ばす。もちろん「迷惑です」とはっきり言うためだ。
「はい、桐生ですが」
「お兄さん、ナイスフェイント」
「そりゃどうも。それで、ご用件は?」
「拾っ……」
「断る」
「あ、そう? じゃあ、拾ってくれるまでここで待ってようかな」
「どうぞご勝手に」
平坦な声音で言い切った僕は、返答を待たずにインターホンを置いた。どうやら僕が何を言っても無駄なようだ。仕方がないので諦めてくれるまで放置するとしよう。
追い返すことを早々に諦めた僕は、一日の疲れを癒すべく風呂場に向かった。
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