真の心

 文久ぶんきゅう三(一八六三)年、江戸の試衛館しえいかん道場。

 塾頭の沖田おきた総司そうじ。のちの新選組しんせんぐみ、一番組組長となる男である。暑さにもめげず、彼は熱心に稽古に励んでいた。


「総司、今日のところはその辺にしておきなさい。皆も」


 近藤こんどういさみ。農民出身の彼は、道場の跡取りとして近藤家の養子となった。のちに新選組の局長として名を轟かせる男である。

 彼の一声に門下生たちは、竹刀を振っていた手を止め、互いの顔を見合わせる。

 辺りが静まり返る中、沖田は一人不満そうな表情を浮かべながら近藤に言った。


「また、そうやって……先生はいつも甘いんだから」

「お前がやめないと、皆もやめにくい。倒れたりしたら、元も子もないだろう」


 近藤の声に門下生たちも首を縦に振る。


「はーい」


 近藤に諭され、沖田は不服そうな声を上げながらも竹刀を元の位置に戻した。

 体を拭きに、庭にある井戸の水を汲みに行く。縁側に座って、体を拭いていると、一匹の黒猫が顔を出した。


「猫だ」


 沖田がゆっくり猫に近づこうとすると、後ろから、


「こんなところにいたか」


 男は大きな足音を立てて、沖田の元へやって来た。


「土方さん、そんなに大きな音を立てたら、猫が逃げてしまいますよ」

「あ? 猫? 黒猫じゃねーか」


 土方ひじかた歳三としぞう。のちに新選組の「鬼の副長」として恐れられた男で、近藤の親友である。

 彼と目が合うや否や、黒猫は慌てて逃げてしまった。


「逃げちゃったじゃないですか」

「黒猫なんざ、縁起でもねぇ。それより総司、お前の夢は何だ?」

「何ですか、いきなり……」

「いいから答えろ」


 沖田は言われるがまま必死に考えたが、どうにも答えが出せなかった。


「何だろう……考えたこともなかったな。そういう土方さんの夢って何ですか? まさか、各地を回って俳句を詠み歩くことだったりして」


 土方は趣味で俳句を嗜んでいた。へらへらと冗談交じりに話す沖田の様子を見て、土方はわざとらしく咳払いをする。


「人の趣味をからかいやがって。お前のことを詠んだ句だってあるのによ」

 

 沖田は、土方の持つ冊子の方へ目をやった。


「それは?」

「『豊玉発句集ほうぎょくはっくしゅう』だ。俺が今まで考えてきた四十一句をここに書き連ねておいた。一度きょうへ上れば、次に江戸に帰るのがいつになるか……分からねぇからな」

「四十一句も? ねぇ、私のことを書いた句って、どんな句なんですか?」


 沖田は前のめりになって、冊子の中身を見ようとする。

 土方は該当のページを開き、指をさした。


『差し向かう 心は清き 水鏡』


「俺の夢は、近藤さんを立派な侍にすることだ。確かにあの人は、生まれは農民かもしれない。だが、なんざには決して劣らない、侍の魂を持った男だ。今回の浪士組参加は、あの人にとっていい機会かもしれん」


 近藤や土方と違って、武家の出である沖田にとっては、耳の痛い話だった。土方の言葉に苦笑いを浮かべてから、ある考えが彼の中にふと浮かんだ。


「だったら私は、土方さんを支えるけんにでもなりますよ。土方さんに何かあったら、先生をまことの侍にする人がいなくなっちゃうから。そうならないように、私が土方さんを支えましょう。京へでもどこへでもついていくんで、覚悟しておいてくださいね」

「コイツ……言うじゃねーか」


 土方に思いっきり頭を撫でられ、沖田の髪はぐしゃぐしゃになってしまった。


「やめてくださいよ。いつまでも子どもじゃないんだから!」

「俺からすれば、お前はまだまだ餓鬼だ」

「土方さんはいつもそれだ。そういえば、さっきの句……忘れないうちに何かに書き留めておかないと。差し向かう心は……あれっ、何だったかな」

「差し向かう心は清き水鏡、だ。待ってろ」


 土方はそう言うと、文机ふづくえのある部屋へ移動し、筆でしたためる。

 その様子を、沖田は固唾をのんで見守っていた。


「やっぱり土方さん、字が上手いですね」

「俺の考えた句だ。きたねぇ字で書いたら、趣がなくなっちまうだろ」

「下手の横好きという言葉もありますけどね。でも、この句は好きですよ」


 けらけら笑う沖田に対し、土方は顔を赤くして一喝した。


「総司!」


 それからほどなくして、沖田は近藤たちとともに江戸を立った。

 京――現在の京都府――にとどまった彼らは、会津藩あいづはんの後ろ盾を得て「新選組」と名乗るようになった。

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