第四章
第四章
「学校へ行くのが高嶺の花とはどういうことですかね。だって、ここに居れば誰でも学校に行くのは当たり前だと思うのですが。」
植松がそう聞くと、ぱくちゃんは、はあという顔をした。
「其れは日本にいればでしょ。僕らのウイグルでは学校なんて、行ってる暇なかったの。学校へ行けるなんて、村の中で一人か二人だよ。僕らはその子の跡を追いかけてさ、学校の入り口までこっそり忍び込んで、教室を覗いてたりしてたよ。」
「何ですか其れは。まるで明治から、昭和の初めのころの話じゃないですか。」
「いや、おもしろい。聞かせてもらおう。今の高校生にもいい教材になりそうだ。」
植松が変な顔をしてそういうと、金本先生がぱくちゃんの話に入った。
「中国は社会主義であるのに、誰でも教育を受けることができるわけじゃないんですね。」
「ええ、勿論さ。誰でも平等何て大嘘だよ。それは漢民族に対してだけ。僕たちは、虫けらみたいに働かされるだけだよ。学校だって、もちろ御金がないからいけないしさ、行かせてもらっても、どうせ僕らは邪魔者で、漢民族が一番偉いと教えられるだけで、途中でやめちゃう子ばっかり。どうせ、僕たちは、自分たちの文字で書くこともできないし、自分たちの食べ物も食べることもできないし、自分たちに昔から伝わっている服を着ることもできない。家だってそうだよ。どうせ、政府が作ったプレハブの家に住まわされて、政府が支給するだけの生活しかできないんだ。」
ぱくちゃんは、あーあ、とため息をついて言った。
「それに比べたら、こっちはすごいものがいっぱいあってびっくりだ。日本に来ておどろいたのは、鉄の猪に追いかけられて、思わず轢かれそうになった時だ。」
「鉄の猪?」
植松がびっくりしてそういうと、
「あ、ああ、ごめんなさい。この人ったら、自動車を生まれて初めて見て、猪だと勘違いしたのよ。」
と、奥さんがそういうことを言った。
「それだけじゃないよ。絵が動く魔法の箱が有ったり、スイッチ一つで音が流れてきたり、もうびっくりした。音が聞こえてきたときは、腰が抜けるかと思った。」
「ああなるほど。テレビやラジオを初めて見たんですね。それは確かに、すごい体験だったでしょう。ということはつまり、あなたの住んでいたところは、相当な発展途上国という事ですか。」
金本先生は、ぱくちゃんの話に納得してしまったようだ。
「電気もガスも水道もなかった。お風呂はまきをくべてあっためてた。ご飯もかまどに火をつけて作った。水は川の水を汲んできてそれを飲んだ。文字は確かにあったけど、かける人なんて誰もいないさ。村の長老が、やっと読み書きできた程度だよ。」
「はああ、、、。な、なんだか、明治時代の貧しい農村みたいですねエ。そんな生活して、不便だと感じたことはなかったんですか?」
植松がそういうと、ぱくちゃんははっきりとない!といった。植松がなんでと聞くと、
「だって、僕は日本に来て思うんだけどね、子どもの頃に飲んだ川の水のほうが、今の水道の水よりおいしいような気がするんだよね。ラーメンだって、水道の水で作るラーメンより、川の水のほうが、よほどうまいのが作れたよ。それに、どうも、日本の人たちは忙しくて冷たすぎるよ。なんか、出来ない人はどんどん追っ払って、どっかにやっちゃうような人ばっかだもん。だって、僕たちの村では、出来なくなった人にも何か出来る事があるか、一生懸命探したよ。」
と、答えるのだった。
「一生懸命出来る事を探したというのは、どういう事でしょうか?」
「ウーン、例えばさ、がけから落ちたとか、野生のトラに手を噛まれて手が取れたとか、そういうことは頻繁にあったのでね。それに、こっちみたいに何でも薬でホイホイと治るという事もなかったし。例えば、急に熱を出して、聾や盲になることは、本当によくあったんだよ。日本みたいに、施設で幸せにという事は出来ないからね。僕らは、一緒に暮らしていかなきゃならないもん。だからそういう事で、出来ない人は何ができるか、考えておく必要もあったの。」
「はああ、なるほど。そういう事も当たり前だったんですか。何だか本当に、原始時代のようですね。そんな原始人みたいな生活、僕には到底できないなあ。第一、なんでそんなに不便な地域に住まわされて、不満を持たなかったというのが不思議ですよ。川の水のほうが、水道水よりおいしいなんてありえない話です。第一に、川の水は消毒すらしてないんじゃないですか?」
「まあ、漢民族であれば、そういうことを言うさ。でも、僕たちは、そういう生活するしかなかったもん。だから、学校に行けるなんて高嶺の花だよ。僕らからしてみれば、その学校が、悪いことをしているなんて、実にばかばかしい。」
「何ですか!ばかばかしいなんて!」
植松はぱくちゃんに言われて、思わず怒ってしまった。
「そうですよね、確かにばかばかしいといわれても仕方ありません。あなたにしてみれば、学校なんてあこがれの的でしょうからね。そう考えられると、我々のしていることなんて、実に笑える話なんでしょうな。先生をぶん殴った生徒と、同級生の女の子の調査をしているのですから。」
という、金本先生。
「へえ。僕たちにしてみたら、先生は、文字を教えてくれる、素晴らしい存在なんだけどねえ。それが、日本では生徒にぶん殴られる存在なんだ。ちゃんちゃらおかしいな。」
ぱくちゃんは、思わず吹き出してしまった。
「はい、ちゃんちゃらおかしいでしょう。そういう事ですよ。僕たち教師はそういう存在です。もう、話してしまってもいいですね。あなたから見たら、命は大切だ、でも理解できないという作文を書く生徒がいると言ったら、大笑いされるのではありませんか。いや、怒り心頭かも知れないな。途上国の人のほうが、命を大切にすることを、私は知っていますからね。」
それに呼応するかのように、金本先生がそういうことを言い出した。植松は、この人に全部言っていいのかと、一瞬驚いたが、金本先生は、さらに続けるのだった。
「おかしいでしょう。うんと笑ってくれてもいいし、怒ってくれても結構ですよ。もし、可能であれば、今の話を、うちの生徒たちに聞かせてやりたいものだ。そういう話をしてくれれば、生徒たちは生きていることの良さを、わかってくれるかもしれない。」
金本先生、何を言っているんですか、と植松は思った。でも、金本先生はそういうことをしてほしいと、本気で思っているようだ。
「うん。おかしいね。僕たちは、自主的に生きているわけじゃない。みんな生かしてもらってる。それを放棄するという事は、一番やっては行けない。ムスリムならばみんなそういうだろうよ。少なくとも、村の長老はそういったよ。」
なるほど、そういう権力者もまだ実在しているのか。でも、かえってそういう人がいてくれた方が、もうちょっと楽に生きることができるかも知れなかった。
「なるほどなるほど。村の長老はそういう事もするんだねえ。そういう道徳的なことも教えてくれる、そういう存在なんだね。日本にはそういうリーダーは居ないから、困ったでしょう。自らの意思で好きなように生きてもいいという社会であっても、誰でも幸せになれるとは限らないんだよ。」
金本先生は、そういうことを言った。そうか、金本先生は歴史の先生だ。そういう事だったら、社会の仕組みのことなどすぐにわかってしまうだろう。
「それに、君たちのイスラム教では、流派にもよるが、国民主権を認めていないからね。先ほどの神様が、すべてを賜るお方と信じている以上、神様を裏切るような真似は出来ないだろう。正直、日本ではまだ理解されていない宗教であるけれど、そういういいところもあるんだよな。」
金本先生は、ははは、と笑った。何だか、歴史なんて役に立たない科目だといわれているけれど、金本先生は、こうして外国人たちと話すことができるじゃないかと、植松はうらやましくなった。
「全く、そんな古くさい話をして何になるのかしら。そんな自慢をしても、何の役にも立たないって、さんざん言い聞かせてきたのに。」
奥さんは、あきれているようである。
「ぜひ、うちの生徒に、その苦労話を語ってもらいたいものです。僕たちには、教えることは困難ですよ。僕たち日本人に出来ないのなら、あなたのような人にやってもらいたい。」
「そいつは出来ないなあ。」
と、ぱくちゃんは言った。
「僕は学校の先生ではないし、ただのラーメン屋としてやっていった方がいいのでねエ。」
「そうですか。」
と、金本先生は言う。確かに、ただのラーメン屋では、生徒も彼の事をバカにするだろうなというのは、植松も予測できた。
「残念ですね。ちょっと教えてくれればよかったのに。」
「いやあ、無理だね。僕、知ってるよ。日本人は偉い人じゃないと動かないでしょ。はははは。」
確かにそういう事だ。そういう事である。それに、単一民族の日本人は、同じ日本人同士でないと信用しないという傾向もある。
「そうですねえ。まあ、鮫島には、ゆっくり説得をしなければだめだなあ。」
金本先生は、そういって、初めてラーメンを口にした。それはラーメンというより、ウイグルに特有の麺で、日本の食べ物に例えたら、黄色い讃岐うどんという感じだった。ちょっとラーメンの味に合わないと思われるが、これがウイグルの麺なのだな、と、金本先生は言っていた。
「金本先生。どういうことですか?説得をしなければいけないのは、あの教師を殴った、朝原信夫のほうでは?」
と、植松は言う。
「いや、朝原のほうは、正直僕はあまり心配していないんです。彼は確かに、素行の悪い生徒ではありますが、決して心まで悪い人間ではありませんよ。悪いのは鮫島徳子の方です。彼女のほうが、心の闇は深いでしょう。」
と、金本先生はそんなことを言いだした。どういうことですか?と植松が言うと、
「はい、僕はね、朝原にあの先生を殴れと指示を出したのは、鮫島徳子だと思っているのです。」
と金本先生は言った。
「え!鮫島と朝原がつながっていたと?」
「ええ。今の子ですからね。スマートフォンで簡単につながれるでしょう。学校では無関係をよそおっても、裏でつながっているという例は結構ありますよ。それに、家庭環境は違えど、鮫島と朝原が同じことで悩んでいるのであれば、簡単にくっつくことはできますよ。二人とも、生きていようという自信がないわけですから、そういう事でくっつくことができるとね、友情の域を超えた、不思議な主従関係のようなものができても、不思議はありませんな。」
金本先生、すごい推理力だ。それがもし、真実であったら、大変なことである。
「ですから、この二人を納得させることは、並大抵な努力ではできないと思うのです。ですから、お店のご主人にも手伝ってもらおうと思ったんですがね。」
「そうか。なんだか、日本人の人間関係は僕たちが持っている人間関係より、複雑なんだね。僕は、何だかそういうことは、出来ないよ。単純に二人はお互いの事を好きだったという訳でないってことか。」
ぱくちゃんはそういって、頭をがりがりかじった。そうですなと金本先生は笑って、お互い笑いあっているが、植松はどうしてもそれに混じるという事はできなかった。
二人がラーメン屋にお金を払って、店を出た直後の事である。植松のスマートフォンが鳴った。急いで確認すると校長先生からであった。
「はい、何でしょうか。」
植松がそう聞くと、
「ああ、警察署から電話がありましてね。朝原信夫が供述を始めたそうです。何でも、殴ったのは、自分の意思ではなくて、ある別の人物に頼まれたからそうしたと言っています。しかし、その人物が誰なのか、については全く話していません。理由を聞くと、彼女を愛しているから、絶対に話さないんだと一点張りだそうで、、、。」
「ああ、やっぱりそうですか、、、。」
その人物が誰なのか、は、口に出すことは出来なかったが、金本先生の推理が当たったと、植松は驚きを隠せなかった。
「しかし、警察もやっとそこまでたどり着いたようですので、もう少し時間をくれと言っていました。とりあえず、そこまでわかったのですから、後は、警察に任せるしかなさそうですな。まあ、とりあえず、植松先生にも報告しておきますので。」
校長先生は、形式的にそういうことを言って、ブツっと電話を切った。つまり、もう朝原はうちとは関係ないのだという精神を丸出しだ。隣にいた金本先生にそれを話すと、やっぱりそうでしたか、と軽く笑っていた。
そのまま、ラーメン屋を出て金本先生と別れた。あーあ、自分なんて何も役には立たないのかと思いながら、道路を歩く。何だか、正直言うと、もう教師をやっているのが嫌になってしまったくらいだ。
「よう!魔訶迦葉君!」
後からでかい声で声をかけられた。なんだと思ったら、今度は杉ちゃんだった。
「何ですか、杉ちゃんですか。今日はなんだかいろんな人に会うんですねえ。」
植松は、少しやけくそになって、そういうことを言う。
「何だはないだろう。僕は、君とは友達だからと思ったので、声をかけた。その何処が悪いというんだよ。」
どうやら、さっきのラーメン屋のぱくちゃんよりも、さらに厄介な人物に、出くわしたような気がしてしまった。
「ああ、すみません、、、。もう、教師やっているのが、嫌になってしまいましたよ。そういう出来事が、あったんですよ。」
と思わず言ってしまう植松である。
「それじゃいかんなあ。また、阿羅漢にバカにされちゃったのか?とりあえず、バラ公園でも行こう。」
と、杉三はバラ公園に向かって移動を始めた。植松もそれに従って、ついていく。
「いやあ、阿羅漢ではありません。今回は、生徒に騙されたんです。」
「はあ、でも、生徒さんには、だます能力はないよ。そういう子には、そうするようにそそのかす阿羅漢が必ずいるさ。」
「そうでしょうか。」
と、植松は言った。もう、杉ちゃんには、隠し通すことはできないなと思った。杉ちゃんには、一度知りたがると、答えを得るまで質問をし続ける、癖があるのは知っている。
「いやね、ある生徒が、教師をぶん殴ってけがをさせるという事件を起こしました。しかし、それは、その生徒が、直接やったわけではありません。別の生徒が指示を出したというのです。これはまだ、確証はありませんが、ものすごい優等生の女子生徒が、指示を出したのではないかという、疑惑がありまして。」
と、植松はありのままを話した。そう言うと、杉ちゃんはなるほどなあと頷いた。
「まあ、いくらその女子生徒が、指示を出したとしてもだよ。必ず裏では阿羅漢衆が付いてんだろうよ。お前さんの仕事は、そこから救い出してやることじゃないのかよ。」
にこやかにそういう杉ちゃんに、植松は余計に辛く成った。
「それでは杉ちゃん、どうしようというんですか。その女子生徒には、阿羅漢と名のつくような悪人はどこにもいませんよ。彼女のご両親は、ちゃんと働いていますし、誰よりも彼女の事を考えてくれています。ましてや、うちの学校で、彼女におかしなことを仕組んだような事は、全くありません。彼女が不良化するんだったら、そうなる理由があるはずでしょ。それが何もないんですよ。」
「ま、そりゃそうだよな。けどよ、そうやって恵まれすぎているやつら程な、恵まれすぎて逆につらいってこともあり得るぜ。」
杉ちゃんにそういわれて、植松は、先ほどのぱくちゃんの話を思い出した。確かに、ぱくちゃんはすごく貧しい生活だった。けれどそれを語るぱくちゃんは、とても楽しそうだった。ぱくちゃんの住んでいる所は電気もガスも水道もなく、川の水を飲むという、植松から見てみればものすごく不便な生活だ。でも、そのたのしそうな顔は、恵まれている自分にはできない顔だと思った。
「その女性の名前は僕は知らないよ。でもさ、その女性、きっと自分がご家族に守られ過ぎて、ちょっと窮屈だったんじゃないの?そうなるとよ、周りの人たちは、こいつのためにと一生懸命頑張るが、守られている奴は、逆に疲れるんだよね。ある程度な、ほっぽらかしの方が、相手も気が楽ってもんよ。それがあまりにもすごいと、死にたくなるよね。」
「杉ちゃん、それ、本当の事かな?」
植松はそういうが、鮫島徳子が、命が要らないと作文に書いた理由は、それしか思いつかない。それ以外、考えられない。
「ま、こういうのはねエ、教育者にはわからない話だと思うけど、こういう気持ちって本当にあるのよねえ。」
杉三はカラカラと笑った。
「所で、杉ちゃん。」
植松は、話題を変えたくて、わざとそういうことを言った。
「皆さんは、元気なんですか?」
「皆さんって誰の事だ?」
杉三はそう返した。植松は質問で答えられるのは、あまり好きではなかったが、杉ちゃんなのでしっかりこたえなければならないと思い、こう答える。
「ほら、ほかの皆さんの事です。杉ちゃんの仲間はたくさんいるでしょう。例えば製鉄所の人たちとか。皆さん元気なんですか?」
「ああ、製鉄所のやつらの事ね。」
杉ちゃんは、あっさりと答えた。そう納得してくれたらよかった。もし、具体的に誰だ、名前を言えなんて言われたら、それは逆に困ってしまうので。
「どうなんでしょう。元気なんですか?」
もう一回、植松は聞いてみる。
「元気だよ。たった一人を除いては。」
と、杉ちゃんは、ちょっと苦笑いする。
「たった一人って誰なんでしょうか?」
もう一回聞くと、
「おう、水穂さんに決まってらあ。」
と、杉ちゃんは言った。
「ああ、水穂さんって、あの、俳優さんみたいに綺麗なあの男性ですよね。たしか、胸を患って、寝ているという。」
植松は、そういってみた。
「胸を患っては余分だが、まあ、見たらびっくりすると思うよ。この何日か、碌なものを食ってないもん。僕たちも、どうやって食ってもらおうか、試行錯誤の連続よ。」
と、答える杉ちゃんに、植松はああ、そうですかと言って、次のような質問をした。
「其れは、どうしてなんでしょうかね。なんで食事をしないんでしょうか。かなり昔で忘れてしまったんですが、確か、ハンガーストライキをしているんでしたっけ?」
「ハンガーストライキではないと思うよ。多分、飲み込むことができなくなっているんだと思う。それに、本人の劣等感も重なって、食べないんじゃないの。」
杉ちゃんに聞いてよかった。そういう駆け引きをしているということを、読み取れない杉ちゃんは、何でも正直に答えてしまう。植松はこれを聞いて、あることを思いついた。
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