第388話 霊落とし

 わずかな光は見えたものの、状況が劇的に改善されたわけではない。敵のカラクリがわかったとしても、いま相対しているアトラスという存在がとてつもない強者であることに変わりないのである。


 とはいっても、わずかとはいえ道が見えたというのはいくぶんか気持ちを楽にさせてくれるものだ。戦いという場面において、わからないというのは極めて恐ろしい脅威である。ただそれがなくなっただけでも収穫として大きいのも間違いなかった。


 問題があるとすればやはり、奴が装着した霊的な存在をどの程度ダメージを与えたらはがせるのかということだ。少なくとも奴はもう一体霊的な存在を保有している。即時に付け替えをしてきたことを考えると、仮にはがせたとしてもその隙を突けることができそうなのはごくわずかな時間であることは確実だ。


 こちらにはアトラスの霊的な存在がどれくらい耐えられるのかはまったくわからない、ということもある。霊的な存在が肩代わりするダメージは、アトラス自身が負った傷に比例することは確実であるが、どのタイミングでそれが訪れるのか、こちらには予想は難しい。


 隙は短く、その隙を生み出せるタイミングを計ることも難しいとなると、アトラスが保有している霊的な存在をすべて破壊するしかないが――


 現状、そのような戦いをしていられる余裕はありそうになかった。奴に、まだこちらには見せていないカードが残されている可能性は充分にある。根拠のない希望的観測は禁物である。


 アトラスが動き出した。巨体を一切感じさせない、重厚さと速さを兼ね備えた動き。あらゆる道理を超えたその動きはもはや芸術的とすら言えるものだ。


 竜夫は少しでも押し負けないためにアトラスの動きに合わせて前に出る。アトラスの巨大な鉄球のような拳と竜夫の刃が衝突。


「ぐ……」


 やはり、どれだけ工夫を凝らしてみても、絶望的ともいえる体格差を埋めることは困難であった。


 しかし、ぶつかり合えば崩されることを前提にして動けばまだ対抗は可能だ。竜夫はアトラスに押し負けつつも低い姿勢となって体勢を整えつつ、足もとを振り払うようにして刃を振るった。どのような存在であれ、足を斬られればその動きに支障が出る。


 だが、アトラスは巨体である自身の足もとを狙われることは予想していたのだろう。身体の巨大さを一切感じさせないような軽やかに飛び上がって、竜夫の刃を回避。そのまま空中で姿勢を変えつつ、踵落としを繰り出してくる。


 そんなものをまともに受ければ、こちらの身体が退き潰されることは間違いなかった。竜夫は飛び上がったアトラスとすれ違うようにして前に飛び込んでアトラスの一撃を避ける。背後を取ったものの、アトラスの踵落としによって発生した振動と衝撃によって反撃を阻まれた。


 こちらの動きが一瞬止まったのち、アトラスはこちらに振り向き、構え直す。


 本当にどこまでも隙のない相手だ。そもそもからして強いのにも関わらず、一切の油断もなく、しっかりと洗練された戦法を取ってくるのだから。


 そのまま互いに距離を取った。その距離は二十メートルほどであったが、アトラスが巨大なせいか思いのほか近くに感じられた。


 こちらの攻撃を受けている以上、奴自身はダメージを負っていなくても、そのダメージを肩代わりしている霊的な存在にはしっかりと蓄積しているはずだ。こちらがアトラスに負わせたはずの傷は決して軽いものではない。であれば、それなりのダメージは蓄積しているはずであるが――


 奴の様子を見る限り、弱まっているようには見えなかった。いまもなお計り知れないほどの力がはっきりと感じられる。やはり、敵に対し弱みを一切見せないというのは戦いを有利にするためには重要な要素である。恐らく、奴もそれを充分に理解しているのだろう。


 本当になんという相手だ。ここまで来ると清々しさすら感じるほどである。本当に倒せるのかと疑問になるところであるが――


 それでもなお、諦める気はまったくなかった。アトラスに戦う理由があるように、こちらにだって退けない理由があるのだから。


 なにも知らぬ異世界であるというのに、色々なものを背負っているような気がする。かつての自分にはそのようなものなんてほとんどなかったはずなのに。そう思うと、少しだけおかしなものであるという感想を抱く。


 こちらが厳しいように、相手も多少なりとも同じような感覚を抱いているはずだ。ただ奴は、それをこちらには一切見せないようにしているだけである。弱みを見せれば一気につけこまれる。それが戦いというものだ。アトラスという男はそれを充分すぎるほどに理解しているのだろう。だからこそ、ここまで徹底しているのだ。


 彼を倒すのであれば、もう一度竜の力を解放する必要があるだろう。霊的な存在を装着し、魔人と化した奴に充分なダメージを負わせられる手段はそれくらいしかないのだから。場合によっては、装着した霊的な存在をはがしつつ、本体に痛手を与えられる可能性もあるが――


 だが、無闇に力を解放したところで、こちらが消耗するだけだろう。しっかりと狙うべきときを見極める必要がある。その状況をどのように導き出すかが問題だ。


「異邦人よ、一つ訊きたい」


 そこで、アトラスの身体の奥底まで響かせるような声が発せられる。


「お前は、なんのために戦っている? 自分の命を守るためか? 俺にはただそれだけではないように思える。できることなら、それを知りたい。教えてくれるか?」


 重く響くアトラスの声は敵に対して投げかけるものとは遠く離れたもののように思えた。戦う理由。それは――


「はじめは元の世界に戻るためだった。あんたらの身勝手で、僕と同じところからここに来させられた人がいる。その人をなんとしても帰してやりたい。とはいっても、僕自身が戻りたいという思いがなくなったわけではないけれど」


「……そうか。それならば納得だ」


 アトラスは感心するような声を響かせた。


「持たざる者はなにもないがゆえに恐ろしいが、誰かを背負う覚悟を持った者も同じく恐ろしい。なにしろ、それだけの覚悟をもって戦いに赴いている。そういう者が、恐ろしいのは当然だ」


 アトラスは重厚な声を響かせた。


「だが、誰かを背負い、覚悟をもって戦っているのは俺も同じだ。決して退けぬもののために戦っている。我らの悲願を達成するために」


 アトラスはそう言ったのち、どっしりと腰を下ろして構える。その瞬間、周囲の空気が音を立てて爆ぜたかのように感じられた。


 奴も、これ以上の言葉を語るつもりはないらしい。それは、こちらだって同じである。


 静まり返ったこの場所の空気が強く震えていく。並みの人間であったら、この空気にあてられただけで卒倒してしまうだろう。


 向こうにも退けない理由があったとしても、こちらが退く理由にはなり得ない。だからこそ戦うしかないのだ。


 竜夫は刃を構え直し――


 わずかな間を置いたのち、両者は同時に動き出した。

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