第271話 因縁

 避難をさせようとした労働者が目の前で溶けて消える。


「…………」


 あと少し、もう少し早ければ助けられたかもしれないというのは、いつになっても、何度経験しても悔しく、そして嫌なものであった。


 ずっと、得体の知れない怪物との戦乱が続いている世界で生きてきた。だから、自分一人で救えるものなどたかが知れていることなど嫌というほど理解している。そのはずなのに、それでも『助けられたかもしれない』という後悔はいつになっても消えることはないのはどうしてだろう? 自分の目の前でそれが起こってしまったときは特にそうだ。


 とは言っても、悔やんでもいられなかった。ここで助けられなかったことを悔やんだところで、どうにかなるわけでもない。さっさと次に行かなければ、助けられなかった命が増えるだけだ。


 前に進もう。いまは自分にできることをやるしかない。悔やむのは、やるべきことをしっかりと済ませてからだ。


 大成は不穏な空気がさらに強まった町を進んでいく。


 こんなにも空は晴れているのに、とてつもなく嫌なものに満ちている。そう感じるのは、いまこの町で人間が溶けて消えるという尋常ならざる現象を引き起こしている『なにか』を感じ取っているからなのだろうか? まだ避難できていない住民を探しながら、それについて考えてみたものの、よくわからなかった。


『どうやら、他の奴らのところで色々と始まっているようだ。お前も気をつけておけ』


 ブラドーの声を聞き、『やはりか』と心の中で小さく呟き、頷いた。


 それははじめから予想できていたことだ。なにを目的として住人を溶かして消しているのかは不明であるが、それがこの町ティガーたちをさらっていた竜どもが引き起こしていたことは間違いないのである。であれば、それを邪魔しているこちらに対して、なんらかの動きを見せてくるのは必然だ。


 大成はあたりを警戒する。


 近くからは不審な気配は感じられなかったが――


『近くに敵らしきものの気配はあるか?』


 探知に関してはこちらよりも圧倒的にブラドーのほうが優れている。こちらの感覚よりも、彼のほうが信用度は高いだろう。なにしろここは探知が利きづらい場所でもある。自分の感覚など、アテにするものではない。


『……近くに一つあるな。そこの角を曲がった先だ。これは――』


 少しだけ歯切れの悪い言葉を響かせるブラドー。それを聞きながら大成は角を曲がる。その先には――


 倒れている人間が一人いた。あたりを警戒しながら、大成はそれに近づいていく。倒れている人間のすぐそばまで近づいたところで――


 大成は再びあたりを見回す。遠くに竜の遺跡まで避難している住民の姿が見えるだけで、明らかに不審な影はなかった。


 倒れている人間を見下ろす。こちらが近づいても、動き出す気配はまるでなかった。大成は再びあたりを見回し――


 短剣を取り出して自身の身体を傷つけて血を吸わせて、直剣を創り出し――


 それを、倒れている者に向かって振り下ろした。


「死体にとどめを刺そうとは、感心しないね」


 倒れていたそれは、予想通り動き出した。身を翻しながら振り下ろした直剣を避けつつ立ち上がる。


「死んだふりをしていた奴に言われる筋合いはないね」


 立ち上がると同時に、姿が変化した。労働者風の男から、若い女性の姿へ。それは明らかに変装という範疇ではないものであった。それは明らかに骨格レベルからの変化。これは、間違いなく――


「……お前がこれを引き起こしているのか?」


 立ち上がった女に大成はそう問いかける。


「これというのは、人間が溶けて消えるあれか? 安心しろ。それを起こしているのは私ではない。そいつと私は別口だ」


 女の声を聞くと同時に、なにかがざわついた。それは言いようのない違和感のようなもの。はじめて聞く声のはずなのに、その声はこちらを異様なほどざわめき立たせる。これは、なんだ? 奴の力か?


「こちらとしても奴らがやっているティガーの移送に関しては、こちらも多少なりとも手は貸しているが――いまこの町で起こっているあの現象に関しては私の知ったことではない。止めようとは思わないが」


 よく通る女の声を聞き、そのざわめきはさらに強くなる。なにがどうなっているのかまったくわからなかった。


 なんだこれは。広がっていくそのざわめきの正体がなにかつかめなかった。これがなにか知っているような気がしてならない。なにか、忘れていたなにかを思い出させるようなもの。意味がわからない。忘れていることなど、あっただろうか?


「……見たところ、私の姿を見てなにか感じているようだな。それは正解だ。隠しておく必要もあるまい。お前が感じているそれの正体を教えてやろう」


 そう言って女の姿が変化する。そこにいたのは――


 かつて、自分がこの世界の住人であると思い込んでいたとき、自分の妹だと思っていた者の姿であった。


「思い出したかね兄さん。私はお前が妹だと思い込んでいたものを演じていた存在だ。懐かしいか? それとも偽りの記憶を受けつけられていたことに対して苛立っているか? まあ、どちらでも構わん。私がやることは一つだからな」


 少女の姿で、少女とは思えない口調でこちらに対して語りかけてくる。心の中のざわめきがさらに強くなる。


 かつて、自分がこの世界の住人だと思い込んでいたときの記憶が失われたわけではない。そのときの記憶は、偽りのものとは思えないほどはっきりと刻み込まれ、いまでも鮮明に自身の記憶として思い出すができる。それが偽りであることはわかっているのに、どうしても否定できなかった。


「私としてもなかなかいい経験をさせてもらった。なにかを演じ、騙すのは慣れているが、その相手が偽りの記憶を刻み込まれた異世界人であることなど滅多にあるものではないからな」


 喋り方も、なにもかも自身が覚えているものとまったく違うのに、心のざわめきはさらに強くなる。あれはすべて偽りだと自分に言い聞かせても、自身のものとして強く刻み込まれてしまったそれを否定するのは、自身の否定になってしまうと思えてならなかった。


『落ち着け』


 ブラドーの冷静な声が響く。


『お前が知っているそれは間違いなく偽りだ。お前のものではないものを、お前のものだと思わされているだけに過ぎない。奴はそれをわかっていて、揺さぶりをかけてきている。振り払え。でないと、敗北は必然だ』


 ブラドーの声を聞き、大成は強く歯をかみ締めた。


 目の前にいるそれは偽りであると。


 自身の中にあるそれは、信じ込まされていた虚構であると。


 そう言い聞かせる。


 だが、竜の力で刻みつけられたそれを振り払うのは容易ではなかった。目の前にいる少女の姿を見るだけで、偽りであるはずの記憶が本当のものだと錯覚させられる。


「異世界人に偽りの記憶を植えつけて有効活用してみようなど、そのときは何故そのような回りくどいことをするのかと疑問に思ったものだが――こう目の前にしてみるとなかなか愉快で、興味深いものだ。それだけでも価値があるような気がするな」


 生きていくのに愉悦は必要不可欠だしな、と偽りの記憶の中にある妹のものと同じ声で言う。


「それとも、この姿では思うように戦えないか? 面白いものを見せてもらったし、一度くらいは姿を変えてやってもいいが。どうする?」


 その言葉は、こちらに対する明らかな挑発であった。


「…………」


 大成は直剣を握る力を無言のまま強めた。


「まあ、どちらにせよ私がやることは同じだ。私の仕事はお前の始末だからな。この姿でいるほうが、貴様の手が鈍るのであれば、これを選択するのが合理的であるが」


 返答はないようだし、このままの姿でいることにしよう。妹の姿をした視覚はそう告げる。


「では、やるとしようか。精々愉快な姿を見せてから死ぬといい。物事というのは、愉快なほうがいいものだからな」


 かつての妹の姿をした刺客はそう言い――


 この町で始まった最後の戦いの火ぶたが切って落とされる。

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