第272話 黒曜

 アンリだったものは静かなる踏み込みでこちらへと接近。一瞬で懐へと入り込んでくる。懐へと入り込んできたアンリだったものは腕を引き、最小限の動作で拳を放った。


 竜夫はそれを両手に持つ刃で防ぐ。接触と同時に硬い金属音が鳴り響く。その音は明らかに人の身体から発せられるものではなかった。防御に使用した刃と接触したアンリだったものの両手は黒く変色している。身体そのものの変異か、それともなんらかの防護膜が覆っているのかは不明だが、どちらにしても容易に傷つけられそうにないのは確かであった。


 アンリだったものの拳を防いだ竜夫は刃を押し込み、彼女を押し返して距離を取る。五メートルほどの距離。それはお互い一瞬にして詰められる間合い。少しでも油断すれば容易に命を刈り取られる距離であった。


「……さすが、というべきか」


 アンリだったものは感心するような声を上げた。


「私の腕とぶつかり合い、砕けぬどころか刃こぼれすらせんとは。さすがあのお方の力というだけのことはある。油断をすればやられてしまうのはこちらだな」


 出し惜しみはするものではあるまい。そう言うと同時に、黒く変色した両腕から全身へその黒色が広がっていく。それは二秒とかからずにアンリだったものの全身を包み込んだ。


「さて、やろうか。そちらも遠慮する必要はない。これは我々と貴様ら生存を賭けた闘争なのだからな」


 アンリだったものはゆっくりとした動作で構え直した。全身が黒色のなにかによって包まれたせいか、その動きには通常にはない重厚感が見て取れる。だが、鈍重であるとは思えなかった。先ほどの動きを考えれば、重さと速さを兼ね備えているのは間違いない。


 竜夫は刃を両手で構え直し、アンリだったものを注視する。


 奴の身体を包んでいるあの黒いものの正体は不明だが、それが想像を絶するほどの硬度を持っていることは明らかだろう。先ほど打ち合った感覚を考えれば、並大抵の手段ではわずかな傷をつけることすらも難しそうであった。


 だが、威力ばかりを重視した鈍重な攻撃が当たるとも思えなかった。あれだけの硬度の持つものに包まれているにもかかわらず、奴はその機動力を一切失っていないはずだ。


 五メートルほどの距離を隔てたまま、睨み合う。じりじりと身体が焼かれるような感覚。一瞬でも気を逸らせば、その瞬間に命を刈り取られてしまうと思えた。竜夫は、アンリだったものをしっかりと注視したまま――


 呼吸を整えたのちに動き出す。


 数瞬のわずかな時間で自身が持つ間合いでアンリだったものを捉えた。刃を振るう。


 アンリだったものはそれに合わせるようにして一歩前に踏み出し、刃に向かって掌を打ち込んだ。硬質な音が人の姿が消えた明るい町に響き渡る。大きな鉄の塊でも殴りつけたような硬い感覚と重さが刃を持つ両手へと広がった。


 竜夫の刃を防いだアンリだったものは黒く変色した身体を翻すようにして回し蹴りを放った。巨大な鉄球のごとき威力を持つかかとが竜夫へと迫る。


 自身の身体へと迫りくるかかとを前に踏み込むようにしてそれを回避。アンリだったものの横へと回り込む。そのまま流れるような足さばきで直角に軌道修正。アンリだったものへと向かって突きを放った。


「……く」


 竜夫の突きはアンリだったものの身体の横部分に命中したものの、彼女の身体を傷つけることは叶わなかった。竜夫の刃はわずかも突き刺さることなく、身体の表面で押しとどめられた。カッターで鉄の塊に向かって切りつけたかのような感覚が両手に広がる。圧倒的な強度というよりほかになかった。


 一切の防御姿勢を取ることなく竜夫の刃を防いだアンリだったものは、自身の肘を刃へと叩きつける。想像を絶する硬度を持つアンリだったものの身体と打ち合って強度が低下していたのか、肘を叩きつけられた刃は叩き折られた。


 刃を叩き折ったアンリだったものは澱みのない動きで竜夫に向かって踏み出し、腕を杭のように変形させてそれを叩きこんでくる。


 刃を防がれ、叩き折られた竜夫はなんとか斜め後ろへとステップして杭のように変形したアンリだったものの腕を回避。そのまま距離を取る。再び刃を創り出し、両手で構えた。アンリだったものへと目を向ける。


 いまのは間違いなく身体が変形しているように見えた。ということは、奴の身体は防御スーツのようなものを纏っているのではなく、身体そのものを変質させているのだろう。身体そのものが変形しているとなると、攻防一体の外殻を破壊することで攻撃能力と防御能力を減退させるという手段は不可能だ。


 となると、真正面からの真っ向勝負をするしかない。だが、それは相手のフィールドで勝負することを意味する。小細工なしで相手が得意とするフィールドで戦うのは危険だ。どうにかして、相手が得意とするフィールドから押し出したいところであるが――


 自身の身体を圧倒的な硬度を持つものへと変化させるという明快かつシンプルな力に対して有効そうな策らしきものはありそうになかった。


 そのうえ、奴の変化した身体はただ硬いだけではなく、その機動力も一切損なわれていないというのも厄介だ。機動力でかき乱しつつ隙を窺うというのもできそうになかった。


 なにか、付け入る隙はないのだろうか? 竜夫は構えながらアンリだったものへと目を向ける。しかし、明らかな隙と思えるものはまったく見えない。黒く変色した部分は全身を一部の隙もなく覆っている。わずかな隙があるとすれば目や鼻のあたりであるが、黒い部分が身体の表面を覆っているだけではないことを考えると、そのあたりの有効性もあまり大きくはなさそうだ。


 以前の戦いで創り出した極薄の刃を利用すれば傷つけることはできるかもしれないが、極薄の刃はその薄さゆえに敵の攻撃を捌くために使うことは不可能である。使うのであれば、攻撃のときだけだ。果たして、そのような隙があるのだろうか? 下手をすれば、脆い刃を砕かれた隙を突かれてやられかねない。極薄の刃を使用するのであれば、その時をしっかりと見極める必要がある。


「ふむ。さすがに知り合いの身体というだけでは、気の迷いは生まれんか。それくらいできなければ、いままで我らの刺客を幾度となく退け、生き延びることはできんのは当然ではあるが」


 アンリだったものは感心するような声を響かせた。声が少しくぐもって聞こえたのは、あの全身を覆っているあの黒いものによって体表面にも広がっているからなのだろうか?それだけでは判断はできなかったが、身体の表面を包み、なおかつ身体の内部まで変化しているのであれば、一筋縄では行かないだろう。


「まさか、あのとき逃げたただの人間がここまで脅威になるとは、物事というのはいつになっても予想がつかんものだ。予想外の出来事というのは楽しみの一つではあるが、同時に潰しきれない危険性でもある。できることなら危険なものだけ潰したいところだが――そうもいかんのが現実というものだ」


 いつになっても生きるというのは難しいと思わないか人間? とアンリだったものは問いかけてくる。


「…………」


 それは納得できるものあったが、竜夫は答えなかった。


「答えないか。それもよかろう。なにしろいまは命を賭けた闘争の最中だ。水を指すようなことをするべきではなかったな」


 アンリだったものが発した声は少しだけ残念そうに聞こえた。だが、残念そうな声を出したからといって、奴がこちらを見逃してくれるはずもなかった。ここを生き延びるのであれば、なんとしても奴を倒さなければならない。どうすれば、奴が誇る圧倒的な防御力を突破できるだろう?


 その手段自体はあるものの、それをどのように使うかが問題であった。しっかりと機を窺わなければ、こちらが窮地へと追い込まれるだろう。


 どうする?


 竜夫はアンリだったものから目を離さずに、それを思案した。


 ここを生き延びるのであれば、奴が誇る硬度をなんとしても突破しなければならない。生半可な手段ではわずかな傷をつけることすら難しいだろう。


「どうした? 来ないのか? 遠慮などする必要はないと言っただろう? それとも、なにか策でも考えているのかね?」


 アンリだったものの言葉は自信と余裕に満ち溢れていた。それは、自分がやられるなど万に一つも思ってないのが明らかであった。


「せっかくの命を賭けた闘争だ。遠慮するのは相手であるお前に失礼であろう。来ないというのであれば、行かせてもらおう」


 アンリだったものはすっと地面を踏みしめ――


 再び竜夫へと向かって踏み込んできた。

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