第266話 救え

 嫌な予感が身体の中を腐らせるかのように広がっていく。そんなことは信じたくなかったが、どのようにしていても、もしかしたらという考えた頭を過ぎる。


 竜夫は町を駆けていく。明るいはずの昼間の町はどことなく狂ったような空気が感じられた。あたりに不吉な匂いが立ち込めているように思える。まだ大きな騒ぎにはなっていないようだが、先ほど目の当たりにした人間が溶けて消えるという現象が本当に現実で起こっているのだとすれば、それも時間の問題だろう。混乱はすぐに広がり、人間を感染させていく。


 まだ大きな騒ぎが起こっていない状況で、他の人々が動いてくれるのだろうかとも思うが、騒ぎが本格化してから動き出すのでは遅すぎるのも事実であった。これに関しては、アレクセイやウィリアムがどこまで人を動かせるかにかかっている。他の人たちのことは、現時点では彼らに任せよう。いま自分がやるべきなのは――


 竜夫はあたりを見る。


 平常通りに思える空気の中に、嫌なものが滲んでいた。それはきっと、人間が溶けて消えるというただならぬものを見てしまったからだろう。見たくないものを見なければならないというのはいつになっても嫌なものだ。できることならこのような経験なんてごめんだが――


 そう思ったところで、この現実がどうにかなってくれるわけでもない。とにかく、動くしかなかった。みずきを、子供たちを守るためにはそうする以外ほかに選択肢などないのだから。


『アースラ』


 竜夫はアースラに呼びかけた。


『……そっちはどうなっている?』


 その質問は後悔を生む可能性があったが、訊かずにはいられなかった。嫌なものであったとしても、状況はしっかりと把握しておくべきだろう。特に、いまのような緊急事態のときは。


『安心してください。いまのところは全員無事です。そちらにはなにか影響は?』


 その言葉を聞き、少しだけ安心できた。しかし、悠長にしていられる時間はあまりない。人間の消失がこの町に仕掛けられたなにかによって引き起こされたものであるのなら、いずれこの町にいる人間の誰しもに襲いかかるのは確実である。


 竜夫は町を駆けていく。みずきと子供たちがいる家まであと少しだ。このまま、何事もなく辿り着ければいいのだが――


 そのとき、だった。


 背後から嫌なものが感じられて、後ろを振り向く。その瞬間、目に入ったのは――


 崩れるように溶けて消えていく人の姿。その速度はあまりにも急速で、なにもできなかった。竜夫は歯を食いしばり、拳を握りしめたのちに踵を返し再び進み始める。


 もし、あれが起こってしまったら助けることは不可能だろう。異常が発生してから、結果に至るまでの速度があまりにも早すぎる。このまま立ち去るのは、一切の罪もなく消えてしまった彼か彼女かを見捨てるかのようで心が痛かった。だが、立ち止まるわけにもいかなかった。ここで立ち止まった結果、本当に守りたかったものを守れなかったら元も子もない。順序を間違えるな。なんのためにアレクセイたちと別れて単独行動をしているのかを忘れてはならない。


 みずきと子供たちがいる家まであと少しのところまで近づく。町に満ちている嫌なものがさらに強まっているように思えた。竜夫はさらに足を速める。少しでも早く、守るべきものを守れるようにするために――


 家の前に辿り着き、扉を開けて中に入る。そこにいたのはみずきと子供たち、アースラとクルトだ。いまのところ、全員無事であるようだった。それが確認して、小さく息を吐いた。


「なにか、ただならぬことが起こっているみたいだな」


 クルトが竜夫に対してそう言葉を投げかけてくる。


「ああ。なにが起こっているかは、僕もまだ把握できていないが、ここにいるのはまずい。とにかく竜の遺跡に避難してくれ」


 こちらのただならぬ雰囲気が伝わったのだろう。元気だった子供たちも黙ったまま、不安そうな顔を向けていた。


「わかった。あんたの様子を見る限り、事態は深刻そうだ」


 悪いがまた動くぞ、と子供たちに言うクルト。


「あんたもだ。動けるよな?」


 クルトはみずきへと問いかける。


「……はい。またなにか起こるかもしれないっていうのは、わかっていましたから」


 クルトの言葉にみずきは返答し、立ち上がった。


「竜の遺跡でいいんだったな。俺が前を歩こう。竜の遺跡へ繋がっている場所の把握はしているからな。あんたは真ん中にいてくれ」


 クルトの言葉を聞き、みずきは頷く。


「では、私が一番後ろに回りましょう。すぐ近くに私がいたほうが、あなた方を逃がしやすいでしょうし」


 いつも通り苦しげな声でアースラがそう申し出た。


「念のため、全員無事に逃げられるまで、少し離れたところから僕も同行させてくれ。敵は複数いる。一人だけだと、場合によっては対応できなくなるかもしれないし」


「いいのか? あんたは他にやらなきゃいけないことがあるんじゃないのか?」


「仮にそれがあったとしても、あんたらを守れなかったらあまり意味がない。いま僕が優先するべきはあんたらを全員無事に避難させることだ。それとも、僕が頼りないか?」


「そんなことはないさ。避難誘導するなら、一人でも多い方がいい。いつも負担をかけてばかりだが、頼りにさせてもらうさ」


 クルトの口調からは普段の軽快さはなかった。彼も緊張状態が続き、あまり余裕がないのかもしれなかった。


「ほら、みんな行くぞ。はぐれないようにちゃんとついてこい」


 クルトの言葉を聞き、竜夫は扉を開けた。クルト、子供たちとみずき、アースラが外へと出たのを確認したのちに、竜夫も動き出した。


 再び外に出ると、外の空気はさらに物々しいものになっているような気がした。嫌な空気と匂いがさらに強くなっているように思える。


 クルトに先導されて、子供たちをみずきが歩き出していく。彼らの一番後ろにアースラがつき、さらにその後ろに竜夫がつき、昼間の町を進む。


 竜の遺跡まで無事に辿り着けるだろうか。そんな不安が頭を過ぎる。クルトはもちろん、子供たちもしっかりしているから大丈夫だと思いたいが、このような状況では思うようにことが進んでくれないことも多い。なにが起こってもいいように、最大限の警戒をする。いまのところ、不審なものの姿はない。


 ここから、竜の遺跡の入口までそれほどの距離はないはずだ。竜の遺跡への入口はこの町にいくつか存在する。混みあってなかなか移動できないという事態になっていなければいいのだが――


 強い不安に襲われながらも、前に進むクルトとみずきと子供たち見守りながらついていく。


 メインストリートを進み、角を折れ、入口がある裏路地へと進む。子供たちやみずきを見守りながら、あたりを警戒するのは思っている以上に神経が削られるものであった。だが、気を抜くことなどできるはずもない。いまのところ順調だ。そう思ったところで――


 背後から、なにかが近づいてくる気配が感じられた。竜夫は足を止め、振り向いて戦闘態勢へと移行する。前に進むみずきと子供たちに背を向け、気配のしたほうへと踏み出した。


「安心しな。女子供に手を出さないのが流儀だ。他の奴らは知らんが。ここで見逃したしたところで、なにかが変わるわけじゃない。そもそもこれは奴の勝手な目的であって、私らには関係ないことだからな」


 そう言ったのは長身の女であった。初めて見た顔のはずなのに、どこかで会ったように思えた。


「おや、どうした? この顔を知っているか? ふむ、どうやらお前とこの人間には面識があるのか。奇妙な縁があるものだ」


 世の中というのは、案外狭いものだという言葉をつけ足す。


「お前は、何者だ?」


「貴様が思っている通り、この人間の身体をいただいた竜だよ。確かこの婆は、アンリとかいう名だったか」


「……なに?」


 その名は、クルトが所属しているギャングたちのボスの名であった。


 だが、いま目の前にいる女は明らかに老婆ではない。二十代から四十くらいまでの年齢に見えた。


「なに、遠慮することはない。もうすでにこの身体は私のものだ。お前が知っているアンリという人間が表に出てくることはないからな。それとも、貴様は知っている顔をしているだけで殺せなくなるような腑抜けだったのか?」


 だとしたら、実に興醒めだな、という言葉をアンリだったものは付け足す。


「とにかくだ。私は貴様を殺しにここへ来ている。なら、やることはただ一つだろう? 久々に外に出て、心が踊っているんだ」


 竜夫は真正面にいるアンリだったものに警戒しつつ、後ろのほうへと向かって注視する。


 どうやら、クルトたちを逃がすことができたようであった。


「安心しな。あんたの前にいたのはちゃんと逃げられているよ。そっちに気を取られた結果、あっさりやられたんじゃあ面白くともなんともないからね」


 アンリだったものは静かに構え――


 一切音を立てることのない静かな足取りでこちらへと踏み出してきた。

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