第264話 人体消失

 一体、なにが起こったのだろう? 目の前で人が溶けて消えるという現象を目の当たりにした竜夫は、困惑することしかできなかった。


 他の二人も、突然の出来事に固まったままだ。ただ呆然と、数秒前に人間が溶けて消えるという明らかに異常な事態が起こった場所を眺めていることしかできなかった。


 突然、店の中に入ってきた男が溶けて消えてから、幾ばくかの時間が経過したところで――


 竜夫は気づき、男が溶けて消えてしまった場所に近づいた。しゃがみ込み、恐る恐るその場所に手を伸ばす。


 人間が一人溶けて消えてなくなったというのに、そこにはおかしなほど痕跡が残されていなかった。異臭すらもない。先ほどの男は、液状化したかのように溶けていったはずだ。なにもそこに残っていないというのは、人間が液状化して溶けて消えたこと以上に尋常ならざるもののように思える。一体、なにが――


 あたりを見回す。


 先ほど人間が一人消えてなくなったこと以外、店の中に変わったところはなかった。少しだけ集中し、あたりを探ってみたものの、やはりおかしなものはなにもない。だが、なにもない場所で人間が一人溶けて消えるなど起こるはずもなかった。なにがどうなっている? ただ困惑だけが湧き上がっていくばかりだった。


 先ほどの男が消えた地点をひと通り調べた竜夫は大成へと目を向ける。その視線に気づいた彼は首を横に振った。向こうも、ここで起こったはずの異常を検知できなかったらしい。


『いまのを見ていたか?』


 竜夫がそう問いかけると、アースラは『ええ』と、短くも重々しい口調で返答する。


『突然この店に入ってきた彼が消えるその瞬間まで――いや、それが起こった瞬間でさえ、あなた方の周囲には異常はなかったはずです。それは間違いないはずですが――』


 しかし、現実として人間が一人溶けて消えるという異常すぎる事態が起こっている。竜の力がいかに強大であったとしても、こちらに一切異常を察知させずに、そんな大がかりなことを起こすことができるとは思えなかった。


『……ブラドーはどうだ?』


 わずかな望みを求めてそう問いかけたものの、ブラドーは『残念だが、俺もお前らと同じだ』と無慈悲な言葉が返ってきた。


 なにがどうなっている?


 明らかに異常な出来事が起こっているのにも関わらず、そこにあるはずの異常が一切検知できないというのはどう考えてもおかしかった。


 どうする? 竜夫は自身にそう問いかけながら再び集中し、あたりを探ってみたものの、やはりなにも感じられなかった。


 まったく原因らしきものをつかめないその得体の知れなさが言いようのない恐怖を感じさせる。とてつもなく不気味であった。嫌な汗が背中を伝う。


『まったくもって根拠はないのでアテにないでもらいたいが、この状況で一つヒントがあるとすれば――』


 そこでブラドーの声が聞こえてきた。彼の落ち着いた冷静な声は、異様な空気に飲まれつつあった感情を引き戻してくれるものであった。小さく息を吐き、ブラドーの言葉に耳を傾ける。


『俺たちが誰一人としてその異常を察知することができなかったということだろう。一切の原因なかったのにも関わらず、俺たち全員が気づけなかったとは思えない。そこにはきっと、答えとは言えなくとも、なにかがあるはずだ』


 ブラドーの言葉を聞き、少しの時間を置いたところで竜夫は確かにと納得する。間違いなく、人間が一人溶けて消えるのは異常ではあるが、それだけの出来事が起こったのにも関わらず、その予兆を一切気づかなかったのはさらに異常だ。ここになにか、この状況を解き明かすヒントがあるように思える。


 チクタクと、店の中にある時計の音がやけに大きく聞こえた。これだけの出来事が起こっても、時間というものはいつもと同じように流れていく。


「あんたは、なにもないか?」


 大成が男に問いかける。


「ああ。少なくともいまのところは、なにもない――はずだ」


 男の声からは強い困惑が感じられた。それも当然だろう。目の前で人間が一人溶けて消えるなどという異様すぎる出来事が起こったのだ。これで冷静でいられるほうが正常ではない。


 そこで店の外はどうなっているのだろうと思い、あたりを警戒しながら窓へと近づく。本来であれば開店していない時間なので、厚い遮光カーテンが閉められていた。

 閉じられている遮光カーテンをめくり、外を見る。


 店の中でこれだけ異常な出来事が起こったのにも関わらず、外の風景は店に入る前と一切変わっていなかった。その異常としか言いようのないなにもなさがざわざわと心を掻き立て、狂騒させていく。


「……外はどうだ?」


 大成がこちらへと問いかけてくる。竜夫は無言のまま首を横に振って返答。


 外の風景がいつも通りだったのを確認したことで、まるでこの中だけが異界と化したように思えた。


 改めて、なにがどうなっていると問いかけた。しかし、その答えが返ってくることはない。


 そのとき、であった。


 異様なほどの静寂に包まれた店の中に音が鳴り響いた。扉が激しく叩かれる音。竜夫の警戒心は一気に上昇。敵か、それとも別のなにかか――


 できるだけ音を立てないように、竜夫は扉へと近づいていく。同時に、扉を開くと同時に敵と遭遇しても対応できるように態勢を整えた。


 扉の近くまで接近したところで――


「俺だ、開けてくれ」


 扉の向こうから聞こえてきた声はアレクセイのものだった。その声を聞いた竜夫の警戒心は少しだけ弱まる。だが、事態が事態だ。場合によっては、何者かがアレクセイに化けている可能性もあるだろう。警戒心を解かないようにしつつ、そっと扉を開ける。


「……お前らも来ていたのか」


 そこにいたのはアレクセイとウィリアム。二人で行動していたのか、それともどこかで会ったのか――どちらかはわからなかったが、どちらであったとしても構わないだろう。


「なにか、あったのか?」


 竜夫がそう質問すると、アレクセイが「ああ」と深刻そうな口調で返答する。


「信じられない話かもしれんが――」


 アレクセイの言葉からは、いまこの瞬間、自分たちが抱いているだろうものと同じものが感じられた。


「俺たちの目の前で、人間が一人溶けて消えた」


 その言葉は、この町で起こっている事態が急激に加速していることを意味するものであった。

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