第190話 急転直下

「なんだ、あれは……」


 驚愕と共に呟いた氷室竜夫の視界に入っていたのは、空高く浮上する巨大な建造物であった。それは、かなり遠くにあるはずなのにもかかわらず、すぐそこにあるかのような圧迫感が感じられる。恐らく、街一つ分くらいの大きさがあるだろう。それほど巨大なものが、宙に浮かぶなど、あり得ないと思いたかったが――


 いま目の前に広がっているその光景が、これが紛れもない現実であることを嫌というほど示してくる。この異世界に来てから様々な『あり得ない』ことを経験してきたが、いま目の前に広がっているそれは、その中でも一番強烈であると言えるものであった。


 先ほどの地震の原因は恐らく、どこからかあの建造物が浮上しただろう。あんな巨大なものが一体どこにあったのだろうか?


 いや、考えるまでもない。竜夫は首を振る。地震が起こったことを考えると、あれは恐らく地下から現れたのだ。そうとしか考えられなかった。


 そこまで考えたところで竜夫は気づき、振り向いた。


 戦いはまだ終わっていない。彼はなにしろ殺されても復活できるのだ。頭を吹き飛ばされたからといって終わってくれるとも思えなかった。


 しかし、彼は動かない。頭を吹き飛ばされ、血と脳漿をぶちまけた状態で完全に沈黙したままだ。


 どうする? 竜夫は自身に問いかけた。


 殺されても復活できる以上、このまま放置するわけにはいかない。理由はどうであれ、彼は自分と敵対しているのだ。身の安全を確保するのであれば、動き出さないうちにとどめを刺すべきだろう。


 竜夫は手に持っている刃を握り直す。


 だが、ここで倒れている彼に刃を突き立てたからといって、とどめを刺せるのかどうかは疑問だ。下手に近づくのも危険であるように思えた。


 とはいっても、敵である以上、このまま放置するわけにもいかない。どうにかして無力ができればいいが、そのようなことがいまの自分にできるとも思えなかった。自分が持つ力は、敵を攻撃するものだ。死からも復活を可能とする再生能力を阻害する力など一切ないのだから。


 倒れている彼を警戒したまま、竜夫はもう一度振り向き、遠くに浮かぶ巨大な建造物に目を向けた。


 そこには、時代がかった巨大な城のような建造物がそこにある。圧倒的な存在感を持つそれは、どこまでも続く空を支配しているかのよう。背を向けない限り、どこを見てもあれは視界に入り込み、否が応でも目を惹きつける。あの巨大な建造物そのものに、とてつもない力があるように感じられた。


 振り切るようにして、竜夫は再び宙に浮かぶあの建造物に背を向け、倒れている彼に目を向ける。


 名も知らぬ敵である彼は、まだ動かない。なんらかの理由で動き出すことができないのか、それとも不意を打つための機会を窺っているのか。頭を吹き飛ばされて倒れている彼がなにをどう考えているのかは不明だ。そのわからなさは、竜夫のことを徐々に不安にさせていく。


 そのときであった。


 ――空に浮かぶあれが見えているか?


 竜夫の視界に、そんな文字が浮かび上がった。アースラからの接触。竜夫が「ああ」と短く答える。


「……あんたにも見えているってことは、これは質の悪い幻覚かなにかじゃないんだな」


 竜夫はアースラに問いかける。


 ――ああ、その通りだ。私も信じられないが、あれは紛れもなく現実のようだ。


 自分の視界に浮かび上がるその文字からはどことなく困惑があるように思えた。アースラとしても空に浮かんでいるあれはあり得ないと思うものなのだろう。


「単刀直入に訊く。あれはなんだ?」


 竜夫の問いにアースラは『断定はできないが、心当たりはある』濁すように答える。


 ――できれば直接会話したいところだが、そちらの状況は?


「……戦いはまだ終わっていない。なにしろ彼は死からも復活できる再生力を持っている。恐らく限界はあるはずだが、いまここで都合よく打ち止めになったとは断定できないな。下手にここを離れようとすれば、不意打ちされる危険がある」


 戦闘向きではないとはいえ、竜の力を持つアースラはなんとかなるかもしれないが、奴と一緒にいるみずきはそうもいかない。そういった危険性を考えると、いまの状況でアースラのもとに戻るわけにはいかないだろう。


 竜夫の言葉に、アースラは「そうか」と短く答えた。


 頭を吹き飛ばされた彼は沈黙したままだ。ここまで動き出さないのは不気味である。向こうも、こちらには死んだふりは通用しないとわかっているはずなのに。どうして動き出さないのか。


 ――では、動き出すのはそちらの安全が確保されてからでいい。だが、できれば早くしてほしい。空に浮かんでいるあれが私の予想通りなら、速く動き出さなければ手遅れになる可能性がある。


「…………」


 視界に浮かび上がったその言葉からは明確な不吉さが感じられた。あれが、この国を静かに飲み込みつつある竜たちのものであるのなら――


 いや、いまはそれについて考えるべきではない。いま考えるべきは、目の前で沈黙したまま動かない彼の処理だ。余計なことを考えていたせいで、自分の身に危険が及んだなにも意味がない。


 どうする? と竜夫は再び問いかけた。


 このままずっとここで警戒しているわけにもいかない。空に浮かぶあれがなんなのかまるで見当もつかないが、あれがいいものであるとはどうしても思えなかった。


 四肢を切断して、少しでも時間を稼ぐか? だが、こちらがしびれを切らすのを待っているのだとすれば、安易に近づくのは危険だ。


 それになにより、死からも復活できる再生力を持つ彼の四肢を切断したところで、どこまで時間が稼げるかもわからない。


 動くにも動けない状況。早くこの状況を打開し、動き出さなければと思えば思うほど、焦りが生まれてくる。焦りは禁物であるとわかっているが――


 もしかしたら、彼が動き出さないのは、ここで自分を繋ぎとめるためなのかもしれない。軍の刺客である彼には、間違いなく仲間がいるはずだ。もしそうなれ、早くこの状況を打破しなければならない。


「……くそ」


 竜夫は小さく吐き捨てるように言葉を漏らした。


「……ここでずっと躊躇しているわけにもいかない。危険かもしれないけど、やるだけやってみよう」


 結論を出した竜夫は、倒れたまま動かない彼を警戒したまま近づいていく。いつ彼が動き出しても対応できるように。一歩一歩着実に近づいていく。たった数メートルの距離なのに、どこまでも遠くにあるように思えた。


 血と脳漿をぶちまけたまま動かない彼に近づく。竜夫は手に持っている刃を持ち直し、それを振り下ろした。


 振り下ろされたそれは、自分の足もとで倒れている彼に近づいて――


「……っ!」


 しかしそれは、彼の身体を貫くことはなかった。振り下ろされたそれを彼の手がつかんだからだ。


 彼が動き出したことを察知した竜夫は、すぐさま刃を放して後ろへと飛び退く。竜夫が飛び退くと同時に、彼はゆっくりと立ち上がり、持っていた刃を投げ捨てる。


「……待て」


 立ち上がると同時に彼は言う。


「俺は、もうあんたと戦うつもりはない。その理由もなくなった」


「……なんだと?」


 予想だにしていなかった言葉を聞き、竜夫は驚愕する。一体、どういうつもりなのか?


「……俺は、すべて思い出した」


「どういう……ことだ?」


 未だに状況がつかめない竜夫は彼にそう問いかけた。


「結論から言おう。あんたと戦い理由がなくなった理由。それは――」


 ゆっくりと着実に彼は言う。


「俺も、あんたと同じく竜どもに異世界から召喚されたからだ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る