第3部 竜の最期

1章 始まりの崩壊

第189話 帝都崩壊

 街を歩いていたマーヴィン・アトキンスの足もとから感じられたのはかすかな振動であった。


 地震とは珍しい、と歩きながら思った。このように揺れが感じられたのはいつぶりのことだっただろうか? 帝国の国土内には活断層はほとんどなく、滅多に地震など起こらない。大規模な道路工事なども近場では行われていないはずだが――


 なにかの予兆か? と思ってみたものの、すぐにそんなことあるわけないかと否定する。いまの帝都はなんだかんだ言って平和だ。自分が学生だった二十年ほど前とは大違いである。竜の遺産を巡って大陸全土を巻き込んで発生したいつ終わるとも知らない大戦争。あのときの大陸はどこにいっても地獄ばかりであった。こうして平和に過ごすことができているのが不思議なくらいである。


 マーヴィンは歩きながら街を眺めた。


 戦争が終わってからの二十年あまりの間に街はすっかり復興していた。ざっと見回した限り、その頃の傷跡はまったく見られない。いや、それどころか二十年前よりも遥かに発展しているだろう。自分が若かった頃にはなかったものや、あっても手が出せなかったものにも触れられる機会が増えているのだから。


 そんなことを思いながら進んでいると、なにやら大声を上げている男の姿が目に入った。どうやら、軍が国の実権を握っていることを批判しているらしい。その男は必死に声を張り上げ演説しているものの、行き交う人々はそれを一瞥しただけで通り過ぎている。はっきりいって、誰一人として男の言葉に耳を傾けている者は見られない。


 これも自分が若かった頃に多かったものだが、いまはすっかり数が減っていた。それは、どういう形であれ国の実権を握っている軍が戦争で荒れ果てたこの国を復刻させ、そして発展させたからだろう。


 無論、彼のように普通選挙を望む気持ちは理解できる。いまの帝国が軍によって国の実権を握り、独裁体制であることは間違いないのだから。


 しかし、多くの人々にとって重要なのは普通選挙があることではなく、自分の生活が豊かであるかどうかだ。はっきり言ってしまえば、あそこで演説している彼には、その事実が見えていない。多くの人々が望むのは傷を伴う変革ではなく、満ち足りた自分の生活の安定だ。それは、自分も同じである。だから、誰にも聞く耳を持たれていないのだ。理想だけを追い求めて暮らしていける人間など誰もいないのだから。


 マーヴィンも他の人々と同じく、演説する彼の言葉に耳を貸すことなく通り過ぎていく。しばらく歩くと雑踏の中に紛れてその姿も見えなくなった。きっと自分も恐らく、明日になったら彼のことなど忘れているだろう。


 かたかたかたと再び足もとから揺れが感じられた。マーヴィンは足を止める。先ほどよりも大きいように思えた。やはり、どこかで工事をしているわけではない。


 気にしても仕方ないかと思い、マーヴィンは再び歩き出そうとしたそのとき――


 足もとから感じられたのは足もとから突きあげられるような感覚。それが感じられたときにはマーヴィンの身体は宙に浮かび上がっていて――


 宙へと投げ出されたマーヴィンはほどなくしてそのまま重力に引かれて――


 無慈悲に、地面へと叩きつけられた。



「だ、誰か助けてくれ!」


 フランク・カーターは大声を張り上げ助けを求めた。だが、自分の声に反応する者は誰もいない。聞こえてくるのは悲鳴ばかりであった。


 フランクの足もとに広がっているのは、どこまでも続いているかのように見える底知れぬほど深い虚空。落ちたら間違いなく死ぬだろう。


 一体、なにが起こったのか? いつも通り街を歩いていたら、突然大きな揺れが感じられ、自分の足もとが崩れてこのありさまだ。なんとか縁に捕まって耐えているが、この状態がいつまでも続けられるはずもない。なんとかして這い上がらなければならないが――


 特に鍛えているわけでもないフランクが、腕の力だけで宙に投げ出された状態で、自分の身体を押し上げることは難しい。いや、はっきりいって不可能だろう。こうして縁につかまって耐えるのが精一杯なのだ。


 腕が痛い。縁をつかんでいる握力がどんどんと失われていることがはっきりと感じられた。


 このまま耐えられなくなったら自分はどうなってしまうのか? それは考えるまでもない。足もとに広がる虚空に飲まれて、その先にあるはずの岩盤かなにかに叩きつけられて死ぬだけだ。


 嫌だ。フランクは首を振ってその考えを否定する。


 しかし、それをいかに否定しようとも、崩れた足もとに広がる虚空に飲まれつつあるという現実が変わることはない。いつかは耐えられなくなり、あそこに落ちていく。底知れぬ深さを持つ虚空へと。


 嫌だ嫌だ嫌だ。刻々と自身へ迫りくる死があまりにも恐ろしくて、自分の股間に温かく濡れていくのが感じられた。だが、そんなものまったく気にならなかった。


「た、助けてくれ……」


 フランクは声を絞り出す。だが、その声はあたりに響き続けている悲鳴と怒声と混乱に紛れてしまい、誰の耳にも聞こえていなかった。


 縁をつかむ腕が震える。もう限界だ。頼むから誰か助けてくれ。俺はまだ死にたくないんだ――


 そんなときだった。


「あんた、大丈夫か?」


 自分のすぐ上のところから声が聞こえてくる。そこにいたのは自分の父親と同じくらいの年齢と思われる男。その姿を見て、フランクは心から安心する。


「だ、大丈夫じゃない。早く助けてくれ」


「ああ、そりゃそうだよな。すぐに引き上げる。あと少しだけ耐えてくれ」


 男はそう言って、縁をつかんでいるフランクへと手を伸ばしてきた。


 これで助かる。本当によかった。フランクはこちらに伸ばされた男の手をつかもうとして――


「え」


 あともう少し伸ばせばこちらに手が届くというところで、男は不自然に動きを止め――


 フランクの手は空を切り――


 腕は限界を迎えて――


 そのまま、足もとへと広がる果てしない虚空へと飲まれていった。



「あれは……一体なんだ?」


 ロイド・アイゼンバーグの目の前に広がっていたのはとてもではないがあり得ない光景であった。


 宙に浮かんでいる、時代がかった古い城塞のような建物。それは、ここからでもはっきりと重圧感が感じられるほど巨大であった。


 はじめは幻覚ではないかと思った。だが、たまたま近くにいた人々がすべて自分と同じような反応をしているのを見て、あれが紛れもなく現実であると思わざるを得なかった。


 あれが浮かんでいるのは帝都の中心のほうだ。恐らくあれは、先ほどの地震とともに地面から浮き上がってきたのだろう。あんな巨大なものが地面から浮かび上がったと考えると、そちらがとんでもないことになっているのは容易に想像できた。耳を澄まさずとも、ここまで悲鳴が聞こえてくる。中心部にどれほどの被害が出ているのは想像できなかった。


 あり得ない。


 そう思うものの、目の前に広がる光景が変わることはない。帝都中心の上空にそれは浮かんでいる。


 本当に、帝都の中心で一体なにが起こったのか。未だにわけがわからなかった。本当にこれが現実なのだろうか? 質の悪い悪夢を見ているのではないのだろうか? そう思うものの、目の前に広がる光景はどこまでも力強く、そして現実的だ。自分の本能が、あれは紛れもなく現実であると訴えかけている。


 これから、自分はどうすればいいのだろう? 帝都の中心部からあんなものが地面から浮かび上がったとなれば、外れにあるこちらにもとてつもないほどの影響が及ぶのは間違いない。


 これからどうなる? 数日は大丈夫かもしれない。だが一週間、二週間経ったら? そんなことは考えたくなかった。だが、目の前に広がるあり得ない光景がそれを否が応でも考えさせてしまう。


 他の人々も、自分と同じく地面に足を縫いつけられたかのように中心部に浮かぶ巨大な建造物に目を向けながら動きを止めている。自分と同じく、起こった出来事がとんでもなさすぎて、どうすればいいのかまったくわからないのだろう。


 どうすればいい? ロイドは再び自身に問いかけた。ここであれを眺めていたところでなにか変わるわけでもない。どこかに避難すべきだと思うものの、一体どこに行けばいいのか? なにもかもわからない。


 そのとき、巨大な建造物のほうから光が見えた。なんだと思ったものの、なにも起こることはなかったが――


 そう思った瞬間に感じられたのは、巨大な鈍器で殴られたときのような衝撃であった。目の前の光景がすべて歪んでいく。


「――――」


 声が聞こえる。とてつもない力が感じられる、圧倒的な重さのある声。それは、どこまでも自分の中に響き続け――


 ほどなくして、ロイドの意識は完全に断絶された。

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